第23話 彼女の存在
松島基地を離れてから、俺は浜松でF−2戦闘機の感覚を取り戻すための訓練を始めた。
通常、この浜松基地ではT−4(中等練習機)を使ってバイロットの養成をしている。しかし、今回は特別にF-2戦闘機の訓練が許可された。最近の築城基地は常に緊張を強いられており、配属後は即戦力となる事を求められているからだ。
西日本の領空は大陸からの領空侵犯だけでなく、某国のミサイル発射実験などで緊張が高まっていた。
久しぶり過ぎて最初こそ戸惑ったが、慣れとは恐ろしいものだ。すぐに自分の体の一部のような感覚を取り戻した。
「沖田、オマエは本当にすごいよな! もうこれは天性だぞ」
カラッとした声で興奮気味に俺に言うのは、かつて共にパイロット試験を受けた
理由は――
『俺には空を飛ぶセンスがない。けど、機体の気持ちをよむ事は出来るんだ! 俺の天性は機体整備だったよ』
惜しげもなく、転属してしまった。
「青井、おまえだっていいものを持っていただろ」
「はぁ? そんななわけあるかぁ。上も下も青の日はビビって飛べなかったんだぞ」
青井が言う上も下も青の日とは、天候条件によって空が海の色と同化する日の事だ。有視界飛行と言って、自分の目ばかりを頼りに操縦していると上下感覚が無くなり、正常の飛行が出来なくなる。いわば、
これは青の日に限った事ではない。雲が覆う日、霧の濃い日、夜間飛行を行う時、そしてまれに起こる夜明け前、日没前の茜色の空。
バーティゴを回避するために、俺達は計器飛行訓練を行なう。目に頼らず、計器だけを信じて飛行する事だ。訓練時にコックピットの屋根を厚いカバーで覆う。完全に視界を遮った状態を作るのだ。
「でもおまえ、計器飛行訓練もクリアしただろ」
「やったから諦めたんだよ。俺には計器を信じぬく強い精神がなかった。いつ計器が誤作動を起こすかもしれないって怖くてたまらなかったな」
「それは、違う意味で怖いな」
「ならば俺が、絶対的に信頼のおけるモノにしてやろうって思ってさ」
「だから整備士なのか」
「おう! いつかオマエが乗る戦闘機のボディにも俺の名が刻まれてるぜ」
「はっ、期待せずに待っているよ」
青井が言う俺の名が刻まれいると言うのは、機体ごとに担当整備士がいて、その中の責任者を機付長という。機付長の名前が担当した機体に書かれているんだ。その整備士は他の機体を見る事はめったにない。最初から最後まで責任持ってその機体だけを整備をする。機体によって癖が異なることもあり、違う人間が調整する事をパイロットは嫌う。
「なあ、沖田。オマエなんか変わったな」
「あ?」
「会話するときにさ、表情が出てるんだよな。あっ、もしかして彼女か!」
「なに言ってる。俺は変わってない。じゃ、お疲れ」
「おいっ!」
他人から指摘されるほど、俺はそんなに以前と違うのか。そんなに昔は表情のない人間だったのかよ。
「天衣」
気づけば口から彼女の名前がこぼれた。確かに天衣が俺を変えたんだろう。彼女の自分には無い、熱い感情に触れたくて仕方がなかったのは事実だ。
真っ直ぐすぎてイライラもした。
最初の日、ご丁寧に引っ越しの挨拶をしてきて、俺がどんなに冷たく返しても、怯まなかったよな。
『あのっ、せめてお名前だけでも教えて下さい。名前も知らない先輩に叱られたなんて、惨めですから』
あの時、俺の胸に何かが刺さったんだ。
叱られて可哀想ぶって帰るかと思えば、真っ直ぐに俺を睨んで名前を教えろと言ってきた。
それからだ、天衣から目が離せなくなった。
八神さんがシミュレーターに天衣を乗せて飛んだのを見た時、なぜか
天衣、おまえはすごいよ。
天衣の顔を見ると、俺の頬は勝手に緩んでしまう。俺はそれを必死で隠していた。
真っ直ぐで逃げ場を持たない天衣を、いつの間にか側におきたくて仕方がなかった。全てが初めてですみたいな顔をして、俺の心をさらって行った。
「はぁ……」
まさか、泣いたりしてないよな?
頑張りすぎて、倒れたりしてないよな?
飯、ちゃんと食ってんのかよ。
俺がなんで天衣の部屋で過ごさなかったか知ってるか? 天衣は感情の起伏が激しいから、一人の部屋に帰ったとき、思い出して泣くだろ?
弱気な時に一人で感じる、そこには居ない誰かのにおいは、キツイんだ。
寂しさや虚しさが、増すんだよ。
「何だよ。俺の方がヤバイよな」
今夜はむしょうに声が聞きたい。天衣の底抜けに明るい声を。
◇
夜九時を回り、やっと自由時間となった。俺は風呂から上がりると部屋に戻り、スマートフォンを手に取った。
残念ながら一時的に身を置いているため、一人部屋ではない。俺は静かに宿舎の外に出た。まだ、ひと月も経ってないのに、俺の方が我慢できないなんて嘘だろ。
宿舎の玄関を少し出たところで、スマートフォンのロックを解除した。すると、まさかの天衣からの電話が鳴った。
スクリーンに香川天衣と表示が出で、不覚にも俺の心臓は跳ねた。
俺は動揺を抑えこんで、その電話を取った。
「天衣?」
『千斗星っ。あ、今、電話しても大丈夫だった?』
「ああ。俺も天衣に電話しようと思ってたんだ。タイミング、いいな」
『ほんとう⁉︎ よかった!』
天衣は
俺はただ相槌を打つだけのつまんない男だけど、気持ちはたぶん天衣と同じくらい上がっている。
「天衣こそ、元気そうだな」
『うん、元気だよ! あ、あのね。わたし、小牧基地に異動になったの』
「は? 一年足らずでもう異動かよ。相変わらず
『あっ、んー……よく分かんない。でも、少しだけ千斗星に近づくね』
「そうだな」
自衛隊の異動は本当に急なんだ。ひどい時は三日後だったり、官舎に空きがないのに決定が下りたりする。しかも、俺たちは特別国家公務員であるにも関わらず、そういった部分での金銭的補助は今のところない。
だから、いつ引っ越してもいいように家庭持ちの隊員だと引越貯金なんてのをやっているそうだ。
『千斗星?』
「うん?」
『今日ね。わたし、すごく千斗星の声が聞きたくなって。それで、かけちゃった……』
「うん」
俺だってそうだよ。今日はたまたま天衣が先だったけど、もしかしたら俺の方が堪え性がないのかもしれない。天衣の声を聞いたら、今すぐ抱きしめたいって体が疼いてしまう。
その肌に触れたい。できないなら、その声を脳の髄まで染み込ませておきたいって思ってしまうんだ。
「体は、大丈夫なのか」
『うん。調子いいよ! 心配しないで。それにどこに行ってもかかりつけ病院があるしね。自衛隊ネットワークって、すごいよね』
「くくっ、確かにな」
天衣の声が、たとえ
『ねえ』
「なに?」
『あのね……好き、だから。わたし、千斗星しか好きじゃないから』
「なんだよ急に。どうした」
『どうもしないよ。ただ言葉にしたかったの。だって、離れてるから……」
ほら、俺は天衣のこういう不意打に簡単に撃ち落される。どうやっても避けきれない。
以前の俺だったらたぶん、そういった分かりきったことに返事はしなかっただろう。
「俺も」
『えっ!』
「俺も天衣のことが好きだ。天衣だけを愛してる」
『ち、ちとっ……』
「頑張ろうな。俺たち、頑張れるだろ?」
『うん! もちろんよ!』
天衣の真っ赤にした顔が目に浮かぶ。
その熱くなった頬に手を添えて、愛してやりたい。
互いがもう少し成長すれば、願わずともきっと叶うだろう。
俺は天衣がいる東の空を見上げた。
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