第17話 俺に甘えておけ、練習だ

 こんなに泣くつもりはなかったのに。何だか頭がぼーっとしてしまい、ここがどこだったのかをすっかり忘れていた。幸い平日ということもあり、通り過ぎる人はいない。


「車に、戻るか」

「はい。すみません」


 私は沖田さんに肩を抱かれ、俯いたまま駐車場に戻った。

 車に乗り込むと、沖田さんはすぐにエンジンをかけた。


「俺の部屋で話を聞かせて」


 私は無言で頷いた。


 窓を少しだけ開けたら、松島湾の潮の香りがした。ツンと鼻の奥が痛んで、胸に染み込んで行く。

 私はどんなふうに沖田さんに話そうか、そればかり考えていた。



 ◇



 官舎に着くと、沖田さんは借りた車を返してくると言う。


「これ俺の部屋のカギ。先に入って待ってて」

「うん」


 手に乗せられたのは彼の部屋の鍵。飛行機のキーホルダーがひとつだけ付いた、とてもシンプルなものだった。


 鍵を開け部屋に入ったものの、どうしたらよいか分からず、取り敢えずカーテンを開けてみる。朝は天気が良かったのに、今は雲が広がっていた。


「はぁ」


 沖田さんがいないのをいいことに、大きくため息をついた。

 空模様は私の心とおんなじだ。

 医師から告げられた言葉は何度も脳内で再生される。


『溶血性貧血でした……おすすめしません』


 戦闘機に乗ることをすすめないのではなく、パイロットそのものすすめないと言う言葉だ。

 パイロットにかれなくても、いつかはという甘い期待、夢、それを目標にしていた自分。生えかけた翼は引抜かれ、再生不能になった気分だった。

 病気持ちはこの世界では歓迎されない。いざ、という時に役に立たない者は足手まといだ。国家を守る自衛隊ならなおさらだ。


(ウイングマークは私には下りて来なかった)


「天衣」


 沖田さんの声がした。どんな顔をして振り向いたらいいか分からずにいると、彼は私を背中から抱き締めた。彼の匂いが私を包み込む。


「千斗星……」

「今は俺に、甘えればいい。な?」


 沖田さんはそう言いながら私の肩に顔を寄せ、ぎゅと腕に力をこめてくれる。彼の優しさに我慢していた心が悲鳴を上げた。

 彼の問いかけに応えるように手を重ねると、彼は顔を少し起こして私のうなじにキスをした。


 優しい優しいキス……甘い痺れが全身を包み込んだ。


「あっ……」

「嫌なら蹴っていいから」


 沖田さんの片方の腕が私の腹部までおりてきて、ぎゅっと引き寄せらる。蹴っていいの言葉とは裏腹に逃げるなよと牽制されているように思える。

 そして、もう片方の手は私の頬を覆い横を向かせる。


「んっ」


 彼の端正な顔があっという間に距離を詰め、私は唇を奪われた。

 男の人の唇って、柔らかくて程よく潤っているのね。なんて分析をしながら必死に冷静さを保とうとした。でも、そんな思考を許さないというように彼の唇は私を攻め立てた。

 顔を横に向けたままの濃厚なキスは、経験値ほぼゼロの私には刺激が強すぎる。うまく息継ぎをできないよをいいことに、彼はその隙を確実に狙ってくる。もう立っているのがやっとだった。


「は……ぁっ」

「あい」


 吐息混じりに名前を呼ばれたらもう降参だ。膝の力が失われて、フローリングに膝をついた。

 でも、沖田さんの支えのおかげで、膝への衝撃はほとんど無かった。彼はそんな私と向かい合うように態勢を変えた。

 私は吸い込まれるように、彼の胸に抱きついた。


 沖田さんは人の感情にとても敏感な人だと思う。単に私が分かり易いのかもしれない。でも、こうして解かろうとしてくれる気持ちが嬉しい。


「天衣」

「うん?」

「お前が飛べないなら、俺がそのぶん飛ぶ。そんなんじゃ慰めにはならないって知ってる。けど、それしか俺には出来ない」

「千斗星。ううっ、私っ、貴方が見ている空を――」


 それ以上は言えなかった。いや、言わせてもらえなかった。彼の唇が再び私を覆ったから。

 私の背中を慰めるように優しい手つきで、何度も撫でてくれた。キスは唇だけでなく、頬も耳もそして首から鎖骨へと下りていった。それはとても温かくて、うっとりしてしまうほど甘かった。


 沖田さんはちゅっと、音を立てて唇を離した。そして、額と額をくっけながら乱れた呼吸を整えた。


「私ね。溶血性貧血だったって。でも、投薬で抑えられそうなの。普通に勤務できるの。ただ……」

「うん」

「前線に立つような任務は、できないって。コックピットには乗れないっ。それだけ。ただ、それだけだから大丈夫」

「天衣、言っただろ? 俺が乗せてやるって、俺が見た空を天衣にも絶対に見せてやる」


 沖田さんはどうやって私に見せてくれると言うのか。誰の許可もなくブルーインパルスのシートには乗れない。そもそも許可なんて、下りないよ。


「信じてないだろ」

「え、あ、いや……」

「ま、そのうち分かるよ。けど、そんなことより今は俺だけな。俺だけ見て甘えろ。天衣」


 甘ろ、甘ろと彼は言う。甘えるってどんな風にしたらいいの?

 そんなことを考えていると、沖田さんさ私の髪を手で梳き、耳をなでた。また痺れるように体が粟立つ。このまま彼の中に浸かってもいいかな。


 ふと顔を上げると、沖田さんの少し潤んだ瞳とぶつかった。この人の目は本当に綺麗だ。


「天衣の初めて、もらってもいい?」


(わたしの、はじめて――)


 今日いちばんに心臓が跳ね上がった。胸を破って出てきてしまいそう。


(私の初めてを、彼に?)


「いやか……」

「いやっ……じゃ、なぃ。けどっ」

「大丈夫だ。優しくする。無理だったら、止めるから」

「そんなの面倒臭くないの?」

「バカだな。すげえ、嬉しいことなんだぞ」

「ほんとに?」

「嘘なんて言わない。俺が天衣の初めてもらうから。二回目も三回目も……その先もずっと俺がもらう」

「なっ!」


 そんなにハッキリ言われると、どう返事したらいいのか分からない。

 慌てふためく私の様子を見て沖田さんは顔を緩めた。ちょっとだけ、悪い笑顔が現れる。


「えっ、ちょっとなにしてるの」


 彼は私を担ぎ上げたのだ。


「今日は最後までしないから。少し練習が必要だろ」 

「れ、れ、れ、練習⁉︎」


 私はベッドに下された。沖田さんが私を上からじいっと見つめている。それはそれは、とても優しい顔をしていた。


「あのっ、沖田さ」

「まだ、沖田さん? そうだな、沖田さんて言う度に、ペナルティをかそうか」

「ペナルティって、まさか腕立て伏せとか……」

「くくっ、そんな色気のないこと彼女にさせるかよ」


 沖田さんはニヤと笑って私の胸元に顔を埋めた。

 そして、


(舐めた!)


 驚く私の顔を見た沖田さんは、よほど嬉しかったのか目を細めて更に舐める。


「ちょ、ちょっと! なんで舐めるのよ」

「いい反応をするよな」

「そりゃ、誰だって舐められたらこうなりますよ!」

「そっか。じゃあ俺のこと舐めてみてよ」

「はいっ⁉︎」


 この人、もしかしてと思っていたけど……Sだ!


 言葉だけなのに追い詰められた気分になった私は、とうとう彼の首をちろりと舐めた。

 ほんの一瞬だったのに、顔を見ることもできずに私はうつ伏せになって、逃げた。


(恥ずかし過ぎて死ぬっ!)


「くくくっ。かわいいヤツー」

「う、え?」


 沖田さんは私の背中に被さった。そして「練習、な?」と耳元で囁いて、彼は私の体を弄った。


「ここ、善くなるはずたからさ。力抜けよ」

「え、いやだぁ。やだやだー」


(練習って、その言い方やだっ)


 外は雨に変わった。私の代わりにそらが泣いてくれるなら、私はもう泣かない。

 私には何ができて、どんなチャンスが残されているの?

 今はまだ、見つけられそうもない。

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