第16話 初めてのデートは潮の味
一週間はあっという間に過ぎた。
次の展示飛行のフォーメーションの確認や、予行練習の打ち合わせに移動日の天候調査に追われた。忙しくなったとは言え、常に訓練飛行ができるわけではない。天候に大きく左右されるし、他の部隊との調整もある。一日に三回のスケジュールを組んでいても、全く飛ばない日もあるくらいだ。
「お疲れ。明日は飛行は無し。休暇の者もいるが、それぞれでイメージを膨らましておくように。以上!」
大友飛行隊長が締めて、本日のデブリーフィングは終了。さすがに展示飛行のシーズンは練習後のミーティングは欠かさずに行われている。
ほんの少しのタイミングのズレは命取りだ。噴煙を出すポイントや、ターンをする時の角度、並列飛行の距離の取り方はとても重要となる。
特にブルーインパルスの編隊飛行は機体がくっ付いているのではないかと、疑うほど接近しているから。
全ての確認と復習が終わり、本日のブルーインパルスの活動は解散。私はみんなが出た後、念のため戸締り確認をして退出した。
「アイちゃん」
部屋を出たとき、八神さんが私のことを呼び止めた。
「八神さんどうしたんですか?」
「明日、病院だって聞いたからさ。
「検査結果を聞くだけなんですけどね」
「うん。でも、何かあったら言ってな。できることはなんでも協力するよ。本当はまだ、アイちゃんのこと、諦めたくないんだけどね」
「えっ……」
「そんな顔しないでよ。仲を壊そうとか、そいう面倒なことはしない。アイちゃんが幸せなら、それだけでいい」
「八神さん」
「じゃあなー!」
八神さんはそう言い残すと、爽やかに手を上げて去って行った。
彼は私に初めて声をかけてくれた人。私を励ましてくれた人。私を好きになってくれた人。
とても感謝しています。私は彼の背中に頭を下げた。
◇
翌日、沖田さんは約束の時間に私の部屋を訪ねてくれた。
私は初めて見る彼の私服姿に胸が高鳴り、顔に熱が集中していく。
(顔、赤くなってないよね)
彼は着痩せするタイプだろうか。全体的に筋肉質で腕なんてそれなりに太くたくましい。でもそれは、外から見ても分からない。いわゆる、細マッチョ。
(格好良すぎ!)
「おはよう」
「おはよう、ございます」
沖田さんは目元を緩ませて、柔らかな笑みをくれた。その笑顔に、まだ慣れない。
ドキドキして胸を掻きむしりたい衝動にかられる。
(どんだけ経験値低いんだろう、私っ)
「車、借りたから」
「車?」
「電車だと時間がかかるだろ。帰る頃には一日が終わってじう。久しぶりの休暇なんだ。ドライブくらいしてもバチは当たらないよな?」
「うん! うん! わたし、ドライブしたい!」
彼が運転する車の横に座れるなんて、過去の私が聞いたら卒倒するかもしれない。しかもお相手はブルーインパルスのパイロットだよ。
きっと私の顔はだらしないくらいに崩れている。でも、もうポーカーフェイスなんてできない。
「おい。病院が先だからな」
「うっ、分かってるよ」
ニヤけ顔が直らないまま、私は車に乗って病院に向かった。
◇
予約時間には余裕で間に合った。私は受付を済まして待合いスペースの椅子に座った。沖田さんも、隣に座ってくれる。
ここの自衛隊病院は、基本的に隊員やその家族しか受診しない。一部の自衛隊病院では一般に開院している所もあるらしいけれど。
「香川天衣様。第二診察室へお入り下さい」
「はい」
「俺、ここで待ってるから。しっかり聞いてこいよ」
「うん」
家族でも上司でもない彼は結果を聞くことができない。病名や症状はプライバシー保護の対象となるからだ。
私は深呼吸をして、診察してのドアを開けた。
「お名前をどうぞ」
「はい。香川天衣です」
「どうぞ、お座りください。体調はいかがですか?」
「はい。あれから特に症状はありません」
「そうですか。では、当面は服用で様子を見ましょうか。では、検査結果をお伝えします」
医師は検査結果が書かれた紙を私の方に広げて見せた。アルファベットと数字、見たことのない単位でなにかの数値が表記されている。
ぱっと見ても、じっくり見ても分からない。そんな中、医師は淡々とした口調で私にこう告げた。
「溶血性貧血でした。今の香川さんの様子ですと保存療法と投薬治療でよろしいかと思われます。しかし、これも今はとしか。まずは過度のストレスに気をつけてください。一度倒れていますからね。症状が酷くなるようなら、脾臓摘出手術も頭に入れておいて下さい。幾分かは改善されます」
「あ、はい……」
「あと、ご家族にこう言った症状の方がいないかも聞いておいて下さい。治療方法の参考にもなりますから」
私の病気は溶血性貧血と言うものだった。何でもないように医師はその事実を知らせてくれたが、今後はどうなるのか、治るものなのか分からない。
「あの。仕事は続けてもよいでしょうか?」
「もちろんです。今のあなたの勤務内容ならば、問題ないでしょう」
「あのっ。将来的にパイロットを目指しているのですが」
「パイロット、ですか……」
医師は私の顔を見ながら、しばらく考えていた。私への言葉を探しているようにも見える。そして少しの沈黙の後。
「おすすめしません」
そう言った。
その短い言葉が耳からゆっくりと脳に染み込むと、私の心は完全に折れた。
「そうですか」
「二週間ごとに通院をお願いします。ご家族の事もご確認ください。長い付き合いになるかもしれませんが、普通の生活はできます。あまり思い詰めないように」
「はい。ありがとうございました」
私はなんとか医師に礼を言って診察室を出た。
心のどこかで、女だから戦闘機乗りにはなれない。法律がそれを許していないからと逃げた時もあった。せめて、後方支援の部隊で操縦桿を握りたい。自分なりに都合のいい妥協点を探っていた。
でも医師は、パイロットそのものは諦めろと言ったのだ。
過度の緊張、それはパイロットには避けられない事だ。もしもコックピットで気絶すれば自分だけでなく、多くの人を巻き込んで大変な事故に繋がってしまう。そんなことは絶対にあってはならない。
私は人生初の絶望と言う言葉に襲われていた。
「天衣」
その声で私は、沖田さんもここに居たのだと思い出す。どうしよう、どんな顔して話せばよいのだろう。心配はかけたくない。
「お待たせしました」
「もう、終わったのか?」
「はい。薬を頂いて終わりです。二週間ごとに通院だそうです」
「そうか」
彼はそれ以上、聞いてこなかった。
私はできるだけ笑顔を絶やさないようにした。だって今から初めて外でデートするんだもの。悲しい顔はしたくない。
薬を受け取って、少し早めのランチを済ませた私達は『松島』に来ていた。日本三景と呼ばれている有名な場所だ。
私たちは福浦島に繋がる橋を並んで歩いた。赤でふち取られた
「やっと来れた! 歩いて島に渡れるなんて素敵。わぁ、潮の匂いが濃い。千斗星、連れてきてくれてありがとう」
「せっかく松島にいるんだから、一度は来ないとな」
「うん! 天気が良くてよかったぁ」
「俺たちはいつも空から見ているけど、やっぱり地に足つけて眺めるのがいいな」
松島湾に点在する島々を空から見られるのも、彼らパイロットの特権である。
「そっか上から見てるんだもんね。いいなぁ、私も見たいなぁ」
「パイロットになれば見れる」
「うん。そう、だね」
私は今、ちゃんと笑えているだろうか。
日本の空を護りたいと願ったあの日の自分は、こんな自分を見てどう思うだろうか。
美しいこの日本を、いかなる脅威からも護りたいと誓った私は、この現状をどう受け止めたらよいのだろう。
「天衣?」
「うん?」
不意に沖田さんから呼ばれて振り返った。
一瞬、顔を歪めた彼の表情が見えたけどすぐにそれは見えなくなった。
「我慢しなくていい。泣けよ」
沖田さんが私を腕の中に閉じ込めていたのだ。ぎゅっと力を込めて、「泣けよ」と私の心を刺激した。
「千斗星、わたしっ」
我慢していた涙が溢れてきて、喉の奥が熱くてヒリヒリする。それを抑えようとしても、どうにも飲み込めない。
私は彼の背に手を回し、子どものように泣いた。
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