第14話 これからが始まり

 あれから夕方になると、沖田さんは部屋に戻る前に、私の所に顔を出してくれるようになった。しかも、必ず何かの手土産を持ってくる。


「顔色、良くなってきたな」

「うん。お薬と休養のおかげです。あ、どうぞ中に」

「ありがとう」


 夏の制服に切り替わったので、以前に増して爽やかさに拍車がかかっている。半袖から覗く鍛えられた腕に、つい目が行ってしまう。


(この間、この腕に抱きしめられたんだよね)


 ドクンと心臓が大きく跳ねた。


「明日、検査だろ?」

「うん。鹿島先輩が、付き添ってくださるって」

「そう。なら安心だな」


 沖田さんは基本的に無駄話をしない。だから、用件が終わると会話が途切れてシンという音が聞こえてきそうになる。

 でも、ここは自衛隊の官舎だから、訓練飛行のエンジン音が間を埋めてくれる。


「なあ、天衣あい、って呼んでもいいかな。二人の時だけ」

「はい、もちろん!」


 そう答えると、沖田さんはふっと笑った。


「ぁ……」


 思わず声を漏してしまうほど、その表情が素敵だった。自分だけに向けられた柔らかな表情に私は釘付けになる。


「口が開いている」

「あっ、失礼しました」

「くくっ。天衣って、面白いやつだな」


(わ、笑った! 沖田さんが、笑ったー)


「検査が終わったら教えろよ。みんな心配していた」

「あ、すみません。もう直ぐ次の展示飛行がありましたよね」

「ああ。順調だから安心して」

「はい」


 遅くなるといけないからと立ち上がり、沖田さんは玄関に向かう。

 私は見送るために彼のあとをついて行く。すると彼は靴を履いて、ゆっくりと振り返った。


「沖田さん。いつもありがとうございます」

千斗星ちとせ

「え」

「俺の名前。沖田さんより、そっちがいい」

「ち、千斗星さん」

「さんも要らない」

「ええっ……えっと。千斗星、ありがとう」


 余りにも恥ずかしすぎて顔を伏せた。一気に顔に熱が集中して、耳まで熱くなっているのが分かる。好きな人の名前を呼ぶって、こんな感じなんだ。

 私が顔を上げられずにいると、沖田さんは私を腕の中に収めた。

 ああ、やっぱり安心する。私は本当に五番機を操る、沖田千斗星が好きなんだ。


「じゃあ、また」

「うん」


 玄関のドアが閉まっても、トクトクと駆け足の胸の音が耳に残り続けた。



 ◇



 翌朝、鹿島先輩が市内にある自衛隊病院に付き添ってくださった。

 念のため前回の診断書も持参した。

 今は血液検査である程度の事はすぐに結果が出るようで、私達は病院屋上の喫茶スペースで時間を潰していた。


「あれから、体調はどう?」

「はい。処方された薬が効いているみたいで、以前と変わりありません」

「そう。よかった。私たちは女性はみんな貧血気味よ。ストレスも絡んだら厄介だから、この際きちんと治しておかないとね?」

「はい。皆さんにはご迷惑をお掛けして」

「あ、そうそう。沖田くんとはどうなの?」

「え!」


 鹿島先輩に沖田さんのとのことを振られて動揺した。先輩はにこにこ笑いながら「知ってるわよ」と言った。


「聞いたんですか? 沖田さんから」

「ううん。見たら分かるわよ。定時に上がって、香川さんの部屋に行くところ見ちゃったから」

「なるほど」

「それに、ね。八神くんが悔しがってたから」

「八神さんが?」


 鹿島先輩が言うには、八神さんが沖田さんに私の事を聞いたらしい。私を助けたのは彼で、その後一晩付き添いをした事もぜんぶ。

 私は沖田さんのこと、意外だと思った。そういうこと、隠さずに言ってくれるんだって少し驚いた。


「香川さん、すっかりブルーたちの心掴んじゃって」

「そんなつもりはっ」

「褒めてるのよ。彼らはなんとなく孤立した感じがあったから」


 どこに行っても歓迎されるブルーインパルスは、航空自衛隊の花形となっていた。それは時に内部からの妬みのタネともなることもある。

 広報担当者もどこか腫れ物を触るように遠巻きから見ていた。それを変えようと塚田室長が、新人の私を放り込んだんだと聞かされた。


「ならば尚更、恋愛なんて。ましてや現役パイロットと」

「それはそれよ。そういうのはコントロールできない。ダメと言っても、諦められるものではないでしょ」

「まあ……」

「それより、いい方に切磋琢磨して欲しい。沖田くんの良さが生かされるように」

「はい」


 そして、午後。検査結果が出た。

【溶血性貧血の疑い】

 何らかの原因で赤血球が壊れてしまうこと。

 症状としては、黄疸、脾臓の腫れ、悪寒、発熱、脱力などが現れる。症状が進むと「溶血クローゼ」と言うショック症状に陥り、命の危険さえも起こりうるのだと。


「まず、香川さんの今の状態ですと、薬での治療からで良いと思います。一度倒れたのは、疲労も重なっていたからだと推測します」

「これ、大変な病気ですよね?」

「まだ詳しく調べてみないと分かりません。ご家族にこういった症状の方はいないですか?」

「特に聞いたことは」

「そうですか」


 更なる分析が必要で結果まで一週間ほどかかるそうだ。

 聞き慣れない言葉に、私はどう気持ちを整えたら良いのか分からなかった。とにかく無理はせず、これまでのように生活を送ってくださいと言われた。

 大した事ないのか、重大な事なのかよく分からなくなっていた。


「とにかく、普通に過ごしましょう」

「はい。ありがとうございます」


 一週間後に予約を入れて、午後は基地に戻った。


 ◇



「室長。今回はいろいろとご迷惑をおかけしました。詳しくは、一週間後だそうです」

「そうか。取り敢えず、あと一週間は気を付けないとな」

「はい、すみません」

「体調はどうなんだ」

「はい。休ませて頂いたおかげで以前と変わりありません」

「無理はするなよ。体調が優先だ」 

「ありがとうございます」


 その日は休んだ分の書類の整理に追われた。次の展示飛行のスケジュールと展示内容の確認だ。

 次は美保基地。そして、その次が輪島基地だ。季節が進むに連れて天候との戦いとなる。輪島はいつも微妙な天気なのだと聞いた。


「てるてる坊主でも作ろうかな」

「香川、上がっていいぞ」

「え、もうですか?」


 時計を見ると、終業時間は過ぎていた。少ししか働いていないのに申し訳ない。


「五番機が待ってるんじゃないのか」

「ありがとうござ……え!」


 先輩方がにやにやしながら私を見ている。


(バレてる! なんで)


「香川っ……か、帰りますっ」


 真っ赤になっているであろう顔を隠すようにして退室した。なぜ、皆知っているの!

 逃げるように基地を出た所で人とぶつかってしまう。


「っあ、ごめんなさい」


 なんてそそっかしいのだろう。深く頭を下げた先にきれいに磨かれた靴が目に入った。基地の誰かとぶつかってしまったようだ。


「全く、相変わらずだな」

「あ」


 沖田さんだった。

 見上げた彼の顔は呆れているけれど、不機嫌な感じはなかった。


「お疲れ様です」

「お疲れ」


 私たちは並んで官舎まで帰った。制服を着ている間は先輩と後輩だから、つかず離れずの微妙な距離をたもっている。

 やっぱり会話が弾む気配はないけれど、嫌ではなかった。無言でもその空気は私の心を和ませた。

 沖田さんは不思議な人。


「飯は?」

「まだです。帰ってから適当に」

「じゃあ、俺の部屋に来いよ。検査結果も聞きたいし」

「え、行ってもいいんですか」


 そう聞き返すと、意地悪そうに笑って「ダメなら誘わない」と当たり前の答えを聞かされた。

 私は恋人との距離の取り方が分からない。どこまで遠慮して、どこまで踏み込んでいいのか。それが同じ職場の、しかも優秀なパイロットだというが余計に難しくさせていた。


 もっとちゃんと、恋愛しておくべきだった。

 今更ながら過去の自分にボヤいてみる。

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