第13話 ゼロの距離

 沖田さんの腕の中にいるのがとても信じられない。でも、確かにいる。彼の心臓の音が間近に聞こえているから。夢でなければいいのに、いや夢でもいいや。私はそんな気分で目を閉じた。彼に私の全てを委ねて彼の規則正しい心音を聞いていた。今だけ、今だけでいい。

 このまま時間が止まればいいのに。


「香川」

「はい」

「こんなときに悪い。八神さんのこと、好きなんじゃないのか」

「いいえ。好きとかそう言う対象ではありません」


 私は抱きしめられたまま答えた。本当は顔を上げて目を見て話したい。でも、私が体を少しでも動かそうとすると、沖田さんは腕に力を入れる。


「じゃあ、他に好きな人はいるのか」


 好きかもしれない人はいる。それを今、口にしていいのか迷う。好きになっていいのか、その人の立場を考えると口にすることがためらわれる。

 沖田さんが私の気持ちを察したのかは分からないけれど、彼は腕を外して今度は私の頬を持ち上げた。私の顔は自分の意思に反して、彼を見ている。目の前にはあの、不機嫌な沖田さんの顔が映る。

 綺麗に整えられた眉、美しい瞳がぼやけるくらい近くにある。

 息を呑むってこう言う事なのかと、思った。こんなに近づくことなんてないから!


 私の顔に添えられた彼の長い指は、私のうなじまで届いている。その指が触れるとぞわぞわした感覚が背中まで伝わった。こんなふうにされたのは初めてで、恥ずかしすぎて、私は彼から離れようとした。

 その瞬間、さらに顔を引き寄せられて視界が暗転した。

 沖田さんの額と私の額が触れ合ったからだ。


(やだ、どうしよう! くっついてるっ)


 そして、とても小さな声で彼は言った。


「もし、俺の事が嫌いだったら俺の腹、殴っていいから。俺、こんなに他人を気にしたことがない。君は俺の心をいつも掻き乱すんだ。なんでだよ」


 沖田さんの言っていることがなかなか理解できない。でもこうしているだけで、心臓はダッシュをし続けて、体はとても熱い。


(これって体調の、せい?)


「俺、知りたいんだ。もっと香川のことが知りたい、だからっ」

「んっ」


 それは予期せぬできごとだった。沖田さんの唇が私の唇と重なった。彼の唇は少し低い温度で、想像以上に柔らかくて、そしてとても優しい触れかただった。

 キスって、こんな感じなの? 妙に冷静な自分が過去の自分に問いかけていた。

 ほんの少し触れ合って、沖田さんの唇は離れていった。ちょっとだけ、寂しさを感じてしまう。


「嫌だったか」

「イヤ、じゃなかったよ」


 沖田さんの問いかけに、私は一生懸命に首を横に振った。でも、恥ずかしすぎて沖田さんの顔を見る事ができない。ただ高鳴り続ける胸の鼓動に耐え切れなくなった私は、思わず両手で心臓を押さえた。


「香川っ、具合が悪いのか!」

「違いますっ。ちょっと驚いただけです。心臓がずっと煩くて、私、こういうこと慣れてなくて」

「それって、初めてって、こと?」

「うん。いや、そのっ。キ、キスは初めてではありません!」

「キス、は?」


(バカ! なに墓穴ほってるの。これじゃまるで、キスから先は経験がありませんって、公表しているようなものじゃない)


「っ、えと」

「嫌じゃなかったってことは、俺は香川に受け入れてもらえたのか?」

「受け入れるって? えっ、沖田さんは私のこと」

「好きだよ。多分これは好きと言う感情だ。でも、無理強いはしない。君が俺のことを受け入れられないなら、もう触れないし近づかない」

「そんなっ」

「でも、ブルーインパルスのシッポは辞めないで欲しい」


 初めてあったあの日から、彼はいつも不機嫌だった。私が見るのはいつもツンとした横顔ばかりで、まともに話をしたことなんてない。それでも私の心には、必ず彼がいて、空を見上げれば彼の飛行ばかり目で追いかけていた。


「辞めませんよ。ブルーインパルスは私に夢を見せてくれた飛行隊ですから。それに……」

「それに?」

「沖田さんのこともずっと見ていたいです。本当にツバメが空を飛んでいるように見えるんです。ブレイクする時なんて、誰よりもしなやかなんです」


 何機かで編隊飛行をしたあと、次のフォーメーションに移るために隊から離れる。そのブレイクがとてもなめらかで美しい。


「そうか。パイロットとしては受け入れて貰えてるんだな。でも、個人としてはまだまだってことか」


 沖田さんは自嘲気味に笑ってそっと私から距離を取った。ほんの少ししか離れていないのに、その距離がとてもさみしく感じる。

 彼との距離感がおかしくなってしまったのは、私が彼を好きだからかもしれない。


「私が好きになってもいいのでしょうか」

「は?」

「私は沖田さんのことを、好きになってもいいですか?」


 私がそう言うと、沖田さんはまた眉間に皺を入れて黙り込んでしまった。いつも見る不機嫌な顔に戻ってしまう。やっぱり私は彼を不機嫌にしかできないみたい。


「香川!」

「はいっ」

「君は本当にバカだな。俺はさっきっ」

「ご、ごめんなさいっ。えっ、わっ!」


 沖田さんにとても怖い顔で抱きしめられた。彼は何度も何度も私を引き寄せるように力を入れ直す。もっと近くに来い、ちゃんと俺の気持ちを分かってくれと言われているみたい。


「沖田さん」

「俺はさっき君のことが好きだと言っただろ。なのに、好きになってもいいですかは……ないだろ」

「ぁ……」


 そういえば、言われた。でも、その後まくし立てるように嫌だったら離れるとか、ブルーインパルスのシッポは辞めるなとかいろいろ言うから……。


「俺、八神さんには負けない。パイロットとしても、男としても負けないから」


 しばらくしてやっと腕の力を抜いた沖田さんは、私の顔を覗き込んだ。濁りのないその瞳は、まっすぐに私を見つめている。そこに嘘はない。


「沖田さんは負けていませんよ。私の中ではあなたがブルーインパルスのエースです」

「香川っ」

「ふ、んんっ――⁉︎」


 さっきの触れるだけのキスとは違うい、少し怒ったようなキスが私を襲った。唇で唇を食むように、食べるような彼の動きに私は翻弄された。

 熱くて、苦しくて、だけど少しだけ心地良い。沖田さんとのゼロの距離はぜんぜん嫌じゃない。


「香川、鼻で息をしろよ」

「え、鼻っ? っ――!」


 聞き返したのがいけなかった。私の口の僅かな隙間から、沖田さんの温もりが滑り込んできた。驚きと興奮が入り混じって、私は彼の制服の袖を強く引っ張った。

 正直にいうと、こんな大人のキスはしたことがない!


「ちょっ……あのっ」

「ごめん。こんなこと、弱った人間にしちゃいけなかったのな」


 彼は申し訳なさそうに、私から離れた。別に謝らせたいわけではない。本当に驚いただけだから。


「沖田さん、いいんです。本当はびっくりした気持ちのほうが大きいけど、でも、嬉しいって思ったから」

「香川」


 沖田さんは私のことを今度は優しく抱き寄せて、子供にするように私の背中を何度も撫でてくれた。


 私たちは恋人同士になったのかな。

 なった、んだよね? きっと……。


 恋愛の手順が分からない私は、困惑と喜びと少しの不安で胸がいっぱいだった。

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