第10話 未発達な乙女心
六番機が離陸。
滑走後の離陸までの短さは、これまたテクニックのいる仕事だ。車輪を出したままのローリングはバランスを取るのがとても難しい技。
「うん。相田さんもいつも通りだ」
六機が空で合流して編隊を組んだ。優雅に空を舞う姿は本当にイルカのショーを見ているようだ。彼らの機動はいつも通りに安定していた。
果てなく広い空をところ狭しと舞い、鮮やかな白の噴煙が美しい線を描いた。
「かっこいいー」
「マジすげえ、なんでぶつからないの!」
来場客は彼らが繰り広げる空のショーに魅入られていた。
いよいよフィナーレだ。六機はそれぞれ旋回をしながら散っていく。最後の目玉は、空をキャンバスに見せて絵を描くのだ。
発射した噴煙が消えないうちに描き終わらなければならない。計算されたタイミングと飛行は僅かな狂いが命取り。
私はコクンと唾を呑み込んだ。
(成功しますように! 風、吹かないで!)
「おお!」
会場がどっと湧いた。
なんと、防府の空に見事なスター☆が現れたのだ。
「よかった。私が描くよりキレイだね」
そう呟かずにはいられなかった。
ブルーインパルス、本日の展示飛行は無事終了した。
◇
防府基地航空祭の余韻はあっという間に消え去り、またいつもの日常が戻った。
でも、一つだけ違う事がある。
「テール! ちょっとこれ持っててよ」
「おいテール、ちゃんと飯食ってるのか」
「テール。遅いんだよぉ」
何かあると、いやなにもなくても一言目に「テール」「テール」だ。それはパイロットだけでなく整備員までもが、私をテールと呼ぶようになった。勿論、ブルーインパルス内だけでの事だ。他の部隊が絡む時は香川三尉とよそよそしく呼ばれる。
「お疲れ様でした。香川、帰ります!」
今日も慌ただしく一日が終わりやっと基地を出た。門の警衛所の隊員に敬礼をした外に出ると、後ろから誰に呼び止められた。
「アイちゃん!」
この呼び方をするのは一人しかいない。八神一尉だ。なんだか急いでいる様子だ。
「はい。なんでしょうか」
「一緒に帰ろうよ。でさ、飯食いに行こう」
「え⁉︎ 飯食いにって、え?」
良いとか悪いとかなんの返事もしていないのに、八神さんは私の手を掴んで基地から離れていく。
(え! どうなっているの!)
「あのっ、八神さん! 待って下さい」
「待たないよ。待ってたらアイちゃん逃げちゃうもん」
(八神さん! あなたはいつもこんな強引にっーー)
「しかし!」と反論すると眩しすぎる笑顔が上から降ってくる。どうにか足を止めようとあれこれと声をかけてみる。
「もう諦めなよ」
(諦めなよって、えええー)
そんなやり取りをしている間に官舎に帰り着いてしまった。
それなのに、八神さんはまだ手を離してくれない。
「あの、手を離して下さい。夕飯は分かりましたからっ、だから!」
「よかった。逃げないでね? 逃げたら……」
「に、逃げたらなんですか?」
「くくっ。襲うかもよ?」
(ひっ、この人はっ、何てことを言うんだ!)
「ジョーダンだよ。さすがに同意無しでそんな事しないよ。塚田二佐から嫌われたくないからね。じゃ、十五分後に再集合ね」
「わ、分かりました」
じゃあ後でねと手を振られたけれど、私は見ないふりをして逃げるように自室に帰った。
ドアを開け玄関に入るとすぐにカギを閉めた。心臓がバクバク鳴って全く治まる気配がない。
八神さんは人との距離が近すぎる。間違いなくこうやって、たくさんの女性隊員を罠にかけ、そしてあの手に堕ちて行ったのだろう。
「恐ろしい」
そういえば十五分後と言われたけど、女性に十五分は短過ぎるではないか。これが一般の女性なら足りないし、とうてい無理な話である。
しかし悲しいかな、自衛官である私は五分の余裕を残して部屋を出てしまう。日頃の訓練がこんな所で発揮されるとは思わなかった。
別に可愛く見られる必要もないし汚れや乱れがないかだけ気をつけて、言われた通りに官舎の門に向かった。
でも、早かったかなという心配はいらなかった。八神さんはもう先に来て待っていた。
(なにアレ、無駄に格好いいんですけどー!)
私を見つけると、彼は爽やかな笑顔で手を上げた。ここだけの話、私はまともな恋愛や男性とお付き合いをした事がない。部活と勉強に必死だったというのが理由だ。
もちろん学生時代には好きな人もいたし、告白だってした事もある。ただ、デートをした事がないのだ。
(待って、これはデートじゃないから! 仕方がなく、脅されて、食事に行くだけよ)
「へぇ。アイちゃんの私服って、可愛いね」
「か、可愛くなんかないですよ!」
「そんなことないよ。行こうか? お酒は飲める?」
「まあ、多少は」
(こんなことで心を掻き乱されるなんて、訓練が足りないんだわ。しっかりするのよ! わたし!)
◇
官舎を出てからずっと構えていたけれど、八神さんはとても紳士的だった。お酒を無理強いしてくることもなかったし、夜九時には官舎にかえしてくれた。
「ありがとうございました。ご馳走様でした」
「どういたしまして。いつも頑張っているテールちゃんにご褒美だから、気にしないで」
「ありがとうございます」
「俺たちのブルーインパルスの任期は今年までなんだ。来年はみんな何をしているのか分からない。スクランブル待機かまたは教育隊か……。でもそれまでに、アイちゃんの気持ちが俺に向くよう頑張るよ」
ブルーインパルスの任期は約三年となっている。それが終われば皆、どこかの基地に異動する。それまでに、私の気持ちが向くように……。
(え⁉︎)
「アイちゃんってさ、ほんと可愛いよね。じゃあ、おやすみ」
(今、八神さんはなんと言った? 私の気持ちかが八神さんに向く……ない、ない、ない、ないっ!)
ドキドキと勝手に高鳴る胸を押さえながら、私は自室に向かった。私は知らぬうちに八神さんに思わせ振りな態度を取っていたのかもしれない。これは、私が悪いんだ。そんなことを考えていた。
もう少しで自室につくときだった。角を曲がった廊下の先に、細長い人影がある。私は驚いて体を硬直させた。
(誰かいる!)
私の部屋のドアに、背中を当て腕組みをした男。
「沖田さん!」
私の声に振り向いた彼の顔に、航空祭の時に見た笑顔はなかった。口を引き結び眉を歪めた怖い顔。
初めて言葉を交わした時のあの顔だった。
「あの、何かありましたか?」
「香川っ」
「ひっ」
沖田さんの厳しい声に体が
それにしてもなぜ、彼は怒っているのだろう。
そんな事を考えていると、突然、俯いていた私の顔は上を向いていた。
沖田さんの指が私の顎に添えられている。彼が私の顔を上向かせたのだ。
(どうして! 私、めちゃくちゃ睨まれている!)
彼は鬼のような形相で、私を見下ろしていた。
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