第5話 反省会はなしのようです
胸を突き出して大友隊長が笑う。
その姿と言ったら、まるで狼が雄叫びをあげているように見えた。他のパイロットも整備員も驚いた表情でその場で固まっている。
(どうしよう、この後の空気がどう変わるのかが怖い!)
ひとしきり笑い終えた大友隊長は、息を整えながら私の方へ近づいてきた。なぜか後ずさってしまうのは許してほしい。
大友隊長は含み笑いを見せたまま、私の目の前で立ち止まった。
「香川!」
「は、いっ」
大友隊長は大きな仕草で私の肩をポンと叩く。驚きすぎた私は、思わず目を瞑り肩をすくませた。隊長はそんな私に構うことなく通る声でこう言った。
「作業服で俺たちを追いかけるのか。広報なのに?」
「できればの話です。忘れてください。申し訳ございません」
「いいよ。着替えておいで。十分で再集合だ。行ってよし!」
「え? え? 十分……あ、はい!」
1広報室のロッカーまで往復10分かかったような気がする。もう走るしかない。私が隊長に背を向けた時、追い討ちをかけられた。
「おい!」
「はい!」
「廊下は走るなよ。学校で教わっただろ」
「っ……はい」
大友隊長は腕時計に目を落とす。
彼は本気でタイムを測るつもりだなのだ。
(私は試されているのよね!)
言い出したのは自分だけれど、わけの分からない任務を与えられて焦った。まさに身から出た錆。
やるしかない。
廊下以外なら走ってもいいよねと勝手に解釈し、私は屋外から広報室を目指すことにした。
渡り廊下を飛び越えて、建物の外側をぐるりと回って中庭に出た。広報室裏手の入り口にたどり着いたので、履いていたパンプスを脱いで手に持って、超急ぎ足で室内に入った。
「香川です。入ります!」
「もう終わったの?」
鹿島さんの驚いた顔が目に入ったけれど、なんせ時間がない。
「いえ、着替えに戻っただけです。失礼します」
それでもいったん立ち止まって礼をして、ロッカールームに駆け込んだ。
(うわぁぁー! 急げぇぇ〜)
ガチャ、ガチャ、ドン、カタン……バタンッ。騒がしいなと自分で心の中で突っ込みをいれつつ、作業服に着替えた。最後にキャップを被り着替え完了。
再び来た道を同じように急ぎ、外に飛び出てあとはひたすら走るだけ。
遠く後ろの方で「え! 香川さん?」と鹿島さんの慌てた声がしたけれど、振り向く余裕などなかった。
「か、香川天衣っ。はぁ、はぁ、戻りました!」
大友隊長の前にきをつけの姿勢で敬礼をした。でも、息が上がって肩が上下に揺れるのは止められない。
隊長はおもむろに時計を確認し、私の作業着姿をチェックしなが私の周りを一周した。
そして、ゆっくりと私の正面に戻った。
「五十二秒か……死んだな」
「えっ」
「一秒たりとも遅れてはならん!」
「はいっ! 申し訳ありません!」
「行くぞ」
「えっ?」
「離陸前チェックをする。見ないのか?」
「見ます!」
隊長はふんっと鼻で大きく笑い、ついて来いと指で合図をした。私は追い返されなくて良かったと安堵した。でも、五十二秒オーバーした事が悔しくてならない。与えられた任務を遂行できなければ、自衛官どころか、パイロットなんてなれるはずがないからだ。
◇
機体にエンジンがかかっていた。キュイーンという甲高い音がお腹に響いた。
乗務前の点検を終えたパイロットたちが、次々と乗り込んでいく。彼らはフライトスーツの上から耐Gスーツを装着している。戦闘機に乗ると最大9Gの圧力がかかるそうだ。それを軽減するためのものだ。
あの細身の体でGに耐えながら高度なテクニックを披露しなければならない。
コックピットに乗った彼らは自分が担当する番号が入ったヘルメットをかぶり、マスクを装着。整備員とパイロットはジェスチャーで飛行前の確認作業を行う。
ようやく離陸準備が整い、六機の機体は滑走路への移動を始めた。
私は仕事でここに居るという事をすっかり忘れ、あの夏、初めてブルーインパルスを見た日に意識が飛んでいた。持ってきたノートを胸に抱えたまま、ただじっと見ているだけ。
六機の雄々しい後ろ姿は何度見ても、胸が熱くなる。
「一番機、オッケー」
「二番機、オッケーです」
「三番機もオッケーです」
「四番機、いつでもどーぞっ」
管制官からの許可が下りれば滑走が開始される。六機の後方には残りの二機が待機中だ。
―― Now let's go !
私は胸に抱えたままのノートが歪ほど強く握りしめていた。
先発の四機が同時に一定の間隔をたもち、同じスピードで走行。そして滑走路中央部分にてそれぞれが離陸した。
ダイヤモンドテイクオフ、成功。
振り向くと五番機が滑走開始、直ぐに機体が浮いて低飛行のまま目の前を通過。滑走路が途切れる瞬間に機首が上がり、グインッと急角度にて上昇。その後、ほぼ垂直姿勢で空を突き抜けた。その姿はもう肉眼では見えない。
「ローアングルテイクオフ……すごい」
次に六番機が離陸。車輪を出したまま回転(ロール)して急上昇した。ロールオンテイクオフ。
低い位置で車輪を出したまま回転をするなんて、見ているだけなのに手汗が止まらない。
なぜか見ているだけなのに息苦しくなる。
練習とは言え、絶対に失敗は許されない。その失敗は、彼らの死を意味するからだ。どんなに練習を重ねても、どんなにベテランでも、いとも簡単に命は奪われてしまう。実際に過去、展示飛行中の事故で亡くなった隊員がいる。
空の広報を担った彼らは、自らの命を賭けて空を舞う。かつてはその姿に憧れて目指したパイロットたちだろう。しかし、そこまでしてブルーインパルスは必要なのだろうか。そんな事を未熟な私は考えてしまうのだ。
空に舞うドルフィン。
白の機体に青色のペイントが入った空飛ぶイルカは、白い雲を突き抜けて太陽の光をキラキラと反射させて泳いでいる。
「どんなに苦しかろうとも、ここから見えるあなたちちは、とても楽しそうなのよ……」
着陸するその瞬間まで、少しも気が抜けない。汗でぐにゃりと歪んだ表紙を見てやっと我に返る。けっきょく、何も記録に取ることができなかった。全機体が着陸すると、安心からか肩が重くなった。
妙な虚脱感を払拭するため、私は気合を入れ直して、パイロットたちの戻りを待った。
◇
訓練が終わり降機した人から順にパイロット控室に戻って行く。私はその一番最後をついて歩いた。
これから
「全員戻ったか」
「「はい」」
大友隊長が乗務した隊員たちを一通り確認して「あとは各自」と一言うとそのまま部屋を出て行ってしまう。
その後を追うように、橘さんと三井さんが静かに席を立った。
「じゃあね香川さん。今日は楽しかったよ」
橘さんは素敵な笑顔を見せて退出。
「あの?」
残ったのは若手の三人だ。
椅子の背もたれにのけ反るように座るのは八神さん。沖田さんは足を組んだままの姿勢で窓の外を見ている。相田さんは腕組みしたまま目を閉じていた。
(もしかして、これがデブリーフィングどういう事ですか?)
私はこの状況をどうしたらよいのかと、困惑していた。部屋を出るにも出れず、ただ立っている。見かねた八神さんが声をかけてくれた。
「アイちゃん。おじさんたち、もう戻って来ないよ」
「そうなんですか。えっと、このあと皆さんはどうされるのでしょうか?」
「それぞれだよ。シミュレーターに乗るか、筋トレするのか、
「てっきり私はデブリーフィングをするのかと思っていたのですが」
「ああ、このチームはしないよ。そうか。アイちゃんは室長から追っかけろって言われてたんだっけ」
「はい」
「じゃあさ、俺と一緒に行こうか。今日はフルコース回るからさ。シミュレーターに筋トレ。どう?」
シミュレーターと筋トレは、パイロットがする基本コースなのだろう。それは絶対に見学するべきだと思う。
「俺もそっちのコース行こうかな」
初めて相田さんの声をきいた。人懐っこそうな笑顔でそう言う。タックネームは確か……ファルコン。
そんな笑顔で見ないでほしい、ファルコンというより
「えー、来んなよ。俺、アイちゃんと二人がいいんだけど」
「なに言ってるんすか。また橘さんから言われますよ。基地の女隊員を泣かすなって」
それを聞いた私は思わず声を漏らしてしまう。
「えぇ……」
八神さんって何人の女性隊員を泣かせたのだろう。こんな噂はそう簡単には立たないはず。
すると、窓の外を見ていた沖田さんが無表情のまま席を立った。この人はいったい何を考えているのだろうか。チラリと目をやると一瞬だけ目が合った。
『ギラギラした奴らばっかりだからね……気をつけな』
そんなことを言われたなと思い出す。
「あの、沖田さんはどちらへ」
「散髪」
無愛想に答えた沖田さんは、ドアを開けてそのまま出て行ってしまった。
(もう、本当に感じ悪い)
戦闘機のパイロットは全員短髪で脱色や染色は認められていない。身だしなみは陸海空関係なく厳しい。だから、空いた時間に基地内にある理髪店で髪を切ることを許されている。
因みに私も今はショートヘアだ。
「アイちゃん、どうする?」
「あ、すみません! お供させてください」
今日は八神さんと相田さんのトレーニングを見せてもらう事にした。隊長たちを追うのは後日にしよう。まずは基本コースの観察だ。
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