第6話 黒瀬の呪い

 世の中には役者という仕事がある。黒瀬有紗はとてもませている子どもだった。周りの友達がアニメを見ている中、早々にドラマを見ていたからなのかもしれない。


「パパカッコいいでしょ?」


 テレビを見る度、母は私にそう自慢げに語りかけた。


「うん!ありさもパパみたいになる!」


 私は誰よりも自分の父親が誇らしかった。


 私が3歳の年、私は急に子役になった。理由はよく覚えていないが、言われたことをやって、褒められるのがとても嬉しかったことだけはよく覚えている。


 黒瀬父娘の名は芸能界に轟き、私も天才子役として持て囃されるようになった。一部からは親のコネという説も出ていたらしいが、当時の幼い私にそんなものは分からなかった。


 私と父の活躍に母はいつも嬉しそうにしてくれた。そんな母親が私は大好きだった。


 たまにライバルも現れた。しかし、名前すらよく覚えていない。今思うと、私の役者として素質はずば抜けていたのだろう。子役は子役として終わることが多々あるが、私はそのまま女優への道を歩み続けることができると、一部からは言われていたらしい。


 そんな日々が3年ほど続き、私が6歳がなった年、事件が起きた。


「ねぇ、どういうことか説明してよ!」


 夜眠っていると、母親の怒鳴り声で目が覚めた。私は恐怖と好奇心に駆られ、恐る恐る部屋を出て、扉の隙間からその様子を見た。すると、そこには土下座をする父と、よく分からない紙を握りしめて、わなわなと震える母がいた。


「本当に申し訳ない……」

「私はね……謝って欲しいわけじゃないの。いつからやってたの? どういうつもりでやってたの? ねぇ!さっさと答えてよ!」


 見た事のないような母親の形相に私は耐えきれなくなり、バレないように、音を立てないように部屋に戻った。

 大丈夫、きっとこれは夢だ。あの優しい母があんな怒り方をするはずがない。そう言い聞かせてベッドに潜っても、下から怒鳴り声が聞こえてくる。音が聞こえないように、必死に布団の中に潜り、私は不安と恐怖の中で長い夜を過ごした。


「有紗、おいで」


 次の朝、着替え終わった私の腕を母が強く引く。その反対の腕には大きめの鞄があった。

 私は抵抗する間もなく、引きづられるように外に出る。すると、そこには地獄のような光景が広がっていた。


「奥さん! 今の気持ちをお願いします!」

「黒瀬貴之さんは中にいらっしゃいますか!」

「黒瀬有紗さんの今後はどうするおつもりですか!」


 凄まじい勢いで飛んでくる言葉と眩しいフラッシュ、その隙間から見える大人達は見た事のないほど醜い表情をしていた。

 しかし、母は歩みを止めることはせず、何も答えないまま、私を車に乗せる。


「奥さん!少しだけお話を!」


 呼びかける男達を無視し、母は車に乗ると、勢いよく発進させる。


「ママ……どこに行くの?」


 ようやく、声が出る。


「新しい家よ」

「パパは……?」


 引っ越すのなら、なぜ家族である父がいないのか、幼い私に理解できるはずがなく、純粋な疑問を母にぶつけてしまう。


「今はその話、しないで」

「なんで……ママ怒ってるの……? パパ……カッコいいよ……!」

「その話しないでって言ってるでしょ!」


 母に一際大きな声で怒鳴られ、私の目から涙がこぼれる。だが、慰めてくれる母はそこに居なかった。

 なぜ怒るのだろうか。いつも、母は父のことが好きだったはずなのに、私がカッコいいと褒めると自分のことのように喜んでいたというのに。分からない。当時の私にはどうしても分からなかった。


 その日から、母は変わった。いつも不安定で、私にも日常的に暴力を振るうようになった。週末には男の人を楽しそうに鍵をかけた部屋の中で過ごし、ご飯を作ってくれない日も多々あった。以前は褒めてくれた演技も、それらしいことをすると、一際強い暴力となって返ってくるようになった。


 私も変わった。黒瀬有紗という名前が、岸波有紗という名前に。天才子役から虐待を受ける子どもに。以前の明るい性格は鳴りを潜め、人間不信に陥った。


 私は懸命に生きた。こっそり演技の勉強も続けた。そうすれば、いつか私は『黒瀬有紗』に戻れると思った。『黒瀬』に戻れたら、きっとなにもかも元通りになる。優しい母親、誇れる父親、理想の家庭が手に入る。そんな叶わぬ夢を抱き続けた。


 でも、歳を取るほど、その理想が如何に遠いかを知った。母親の暴力はエスカレートし、家事は全て私がやることになった。父親がなにをしたのかを知った。不倫だった。それも未成年との淫行。清純派として売っていた父にとって、致命的すぎるものだった。


 いつしか夢は薄れ、両親への憎しみと必要のない役者としての矜恃を持ち、他人の不幸をなによりも喜ぶようになった外道『岸波有紗』として生まれ変わった。


「霞……」


 そして、12年が経過し、私を『黒瀬有紗』だと認識する者が現れた。


「うーー、怖い怖い。そんなに敵意燃やさなくてもさぁ」


 純粋な友達であれば、秘密を知っていても言わない、という選択肢を取るだろうが、彼女は違う。私を『黒瀬』と呼ぶということはそういうことだ。


「いやぁ、それにしてもびっくりだねぇ。『呪いの百葉箱』が有紗だなんて。私の友達も結構被害受けてるのにさぁ」

「御託はもう良い。なにが目的?」


 顔は全く笑わずにヘラヘラとした声色でそう言う霞の言葉を遮り、強制的に本題に引っ張る。

 申し訳ないが、こちらは最初から霞の友達など、知り合いとすら思っていない。相手の手の内が見えない以上、妙な撹乱には乗らない。


「釣れないなぁ……でも、そういうところが好き」


 その『好き』という言葉に嫌悪感が湧く。女子が良く使う建前のような言葉ではなく、媚びるような甘ったるさがあったからだ。


「私前に言ったよね、好きな人ができたって。あれね、実は有紗のことなんだぁ」


 そう言う彼女の声はまるで恋する乙女のようで、どうにも気色が悪い。


「だからなに? それを言ったところで私は気持ち悪いとしか思えないけど」

「……あのストーカー男と付き合ってるんだから、誰でも良いと思ってた」


 甘ったるい声が引き、冷たく落ち着いた声で、霞は静かに告げる。


「申し訳ないけど、冴島君には恋愛感情を抱いてる」


 そう言うと、霞は急に笑い始める。


「なにが可笑しいの?」

「いや、だってさ、自分で気づいてないんだね」

「……なにが言いたいの?」

「本当は自分で気づいて欲しいんだけどさぁ……」


 霞は一度言葉を止め、笑みを完全に消す。


「有紗はまだ『黒瀬』になりたがってるんだよ」


「……ふざけないでよ」


 自然と声が出ていた。自分しか知らないところに土足で踏み込まれたような気がして、言葉にしようのない怒りが湧き上がり、私を覆っていた『演技』という名の仮面が剥がれ落ちるのを感じる。


「『呪いの百葉箱』をやってる理由は?」

「他人の幸せが崩れ落ちる様が堪らないからよ」

「冴島律と付き合っている理由は?」

「彼のことが好きだからに決まってるでしょ」


 取り繕うことも忘れて、私は自分の想いをぶちまける。だが、霞の表情は変わらない。


「他人より幸せでありたい、特別でありたい、誰かの意識の宛先でありたい。幼い頃、『黒瀬』でありたかったという願いは変貌して、今もなお、岸波有紗という人間を縛り続けている。そうは思わない?」

「思うわけが……」


 そう言おうとして、止まった。そして、頬に涙が流れた。


「どうして……」

「なんで泣いてるのか分からないの? それが有紗の本心だからだよ」


 そう言うと、霞は私を抱き締める。温かいのに、冷たく感じる。


「私が岸波有紗を『黒瀬有紗』にしてあげる。私が理解してあげる。一人になんてさせない」


 私を抱きしめているのは、きっと『黒瀬有紗』だ。私のことを唯一分かり、慰められる存在。あの日、母親に慰めてもらえなかった、過去の私に違いない。


「だから、有紗、私を愛して?」


 その蜜のような激毒を私は喜んで飲み干した。

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