第2話 百面相

「はぁ……」


 シャワーを浴びていると、知らず知らずのうちに溜息が流れるのは、この前のことを思い出すからなのだろうか。

 冴島と関係を持ってから1週間が経った頃、私達は初めて2人でホテルに行った。初体験だが血は出ず、快楽はあったものの、それがむしろ私の不快感を駆り立てた。

 気分が悪くなり、私はさっさと身体を洗い、お湯は張ってあるもののお風呂には浸からずに浴室を出た。

 

「あら、有紗ちゃん」


 母親が笑顔で、目だけが笑っていない笑顔で私を見る。今日は彼氏と出かけていたから食べて帰ってくるのだと思っていた。しかも、頬が紅潮しているということは酔っているということ。最悪の状況だ。


「お、おかえりなさい……早かったんですね……」


 わざと竦ませた声でお母さんにそう言うと、痛みと共に軽快な音が鳴る。私が叩かれた頬を気にする間もなく、彼女は私の髪を掴み、強制的に目線を合わせさせられる。


「演技で私の気を逸らそうとしたの?」


 私は彼女の今にも人を殺してしまいそうな目に敗北を悟る。


「……すいません」

「この親不孝者!」


 私の頭が床に叩きつけられ、鈍い痛みが身体を走る。そのまま彼女は私の胸ぐらを掴み、再び目が合う。


「ねぇ、有紗ちゃん? 貴女は誰のお陰で生活できてると思ってるの?」

「身寄りのない私を……お母さんが引き取ってくれたからです……」

「そうでしょ⁉︎ 食事を作るだけ! 貴女は母親であるこの私のたったひとつの頼みすら聞かない! 調子に乗ってんじゃないわよ!」


 そこまで言うと、再び私の頭を放り投げ、倒れた私の身体を数回蹴り、ようやく悪霊が抜けたように大人しくなる。


「……外で食べてくるわ、今日は好きにしなさい」


 お母さんはそう言うと、足早に家から出た。

 彼氏にフラれたのだろう。最近は彼氏が長続きしていたため、安心していたのだが、完全に油断していた。


「げほっ……はぁ……はぁ……」


 血は出ていない。私は痛みに耐えながら立ち上がり、いつも通りキッチンの包丁を取りに行く。

 私は包丁を持って自室に入り、クローゼットに入っているクッションをひとつベッドの上に置き、上から包丁を振り下ろす。


「……あの男狂い! 淫売女! 誰が頼んだ! お前の娘になるだなんて誰が言った! お前なんか! 私が殺してやる! 死ね! 死ね! 死ね!」


 夢中になって包丁でクッションを滅多刺しにしていると、中に入っていた綿が飛び出し、宙を舞ったところでようやく私は我に帰る。


「……また、買い換えなきゃな」


 こうでもしないと私はお母さんを刺し殺してしまいたくなる。必要な犠牲なのだ。


「これもあと一年で終わるの……あと少し……」


 私はそう思い切りをつけ、包丁をベッドの上に置いたまま、机に向かい、今日の放課後に回収した依頼書に目を通す。今回は前回よりもしっかりした字、恐らく男だろう。名前は『雨宮桜』と『不二崎哲也』。

 これがなくては私は私でいられないのだろう。


「ふふっ……楽しみだなぁ」



 翌日、私は標的である不二崎哲也と雨宮桜を見に行く。彼らは2年生なので、面識はないが、先にSNS上で顔写真だけは確認しておいたため、すぐにわかるだろう。


「おい! 桜! 早く来い!」


 昼休みに2年生のフロアに行くと、教室を覗き込み、大声を上げる生徒を見つける。体格は大きく、雑な髪型をしているが、それを跳ね返すような強烈な存在感、不二崎だ。


「もう、やめてよ! 恥ずかしいでしょ⁉︎」


 これまた良く声の通る女子が教室から出てくる。限界まで折られたスカート、見事すぎる茶髪、校則を守る気など全くなさそうな派手なピアス、雨宮桜だ。


「ほら、お弁当作ってきた! 私だってできるの!」


 お互い怒気を孕んでいるような声で言い合いながら、彼らは去っていく。その声からは隠しきれない幸せの雰囲気が漂っていた。


「……憎たらしいですね」


 私は自分の教室には戻らず、そのまま冴島がいる教室に入る。冴島は教室の隅の席で寝ていたため、すぐに分かった。


「冴島君、起きてください」

「……岸波……?」


 冴島は眠そうな声ながらも、私のことはしっかり認識しているようで、ゆっくりと顔を上げる。

 滅多に来ない3年生がきているのに教室内がざわつかないのは冴島がクラス内で、もはや認知すらされないほど影が薄い証拠なのだろう。


「頼んでおいた物、用意できましたか?」


 私が呟くように問いかけると、彼は自分の机からクリアファイルを机の中から取り出し、私に渡した。


「案外堂々と渡すのね」

「コソコソしてる方が怪しまれるだろ」

「それもそうね、また追々連絡するわ」


 私はそう言い残すと自然な足取りで教室を去り、誰もいない屋上でクリアファイルの中に入ってる書類に素早く目を通す。書類には標的である『不二崎哲也』と『雨宮桜』はもちろん、彼らの友人など10人近くの情報がA4用紙の両面8枚に渡って書き記されていた。

 感心しながら読み進めていくと。ある項目に目が留まる。


「へぇ……依頼した可能性がある人物ですか……」

 

 予想以上に彼は有能らしい。



「……自分で動く?」


 放課後、いつもの公園に呼び出した冴島は私の提案に納得いかないのか、受け止めきれないらしく、複雑な表情をしていた。


「はい。今回の依頼者はどうやら男性のようですし、それなら、傷が残るのは男性である不二崎の方が都合が良い。ですので、私が直接不二崎を落とし、その不貞証拠を雨宮に突き付けることで破局まで持ち込もうと思います」

「そんなに……堂々と略奪して大丈夫なのか? この仕事してるのがお前だって、バレる可能性も十分あるぞ?」

「ああ、その点はご安心を。変装しますから」

「変装?」

「女子の化粧は文字通り化けますからね」

「そう……なのか」

「それと」


 そう言って、再度冴島に目を合わせる。


「場合によっては、私は不二崎に抱かれるつもりです」


「……正気か?」

「はい。効率が良いですから」


 冴島はそれ以上追求しない。共犯者と恋人を混同しない、つくづく素晴らしい男だ。


「計画の実行は来週の金曜日です。空けておいてくださいね」


 私は最低限の情報のみを直接伝え、公園から去り、ファミレスに向かった。




 ファミレスの前に着き、私は自分の鞄から手鏡を出す。鏡に映る私の顔は死んでいる。冴島に会うと、良くも悪くも自然体でいられるようだ。

私は笑顔を作る。口角を上げ、目に光を入れ、ファミレスに入る。


「おーい!有紗ーー!こっちこっちーー!」


 入るなり、霞が恥ずかしげもなく、私を呼ぶ。私は店員さんに軽く頭を下げ、小走りで彼女がいるテーブルに向かう。


「いやぁ、今日は急だったのに来てくれてありがとね。最近、有紗と喋れてないなぁって思ってさ」


 言われてみれば、最近は霞と話していない。冴島のことで頭がいっぱいだったのだろう。


「その……ありがとね」

「もーー……有紗ったら可愛いところあるんだから」


 霞はからかうようにそう言うと、メニュー表を私の前に叩きつけるように置く。


「今日は私が奢ってあげるから好きな物食べて!」


 遠慮しようと思ったが、どうせ霞に押し切られることが見えていたため、私は素直に食べたい物を頼む。


「それで? 最近例のストーカーは大丈夫?」

「うん、心無しか最近はあんまり見ない気する」


 そのストーカーと肉体関係を持ったなど口が裂けても言えない。


「私は心配だよ、有紗可愛いし」

「そんなことないよ……」


 自分の魅力など、私が一番わかっている。だが、どうしても皮肉に聞こえてしまうのは霞も負けないほどの美人だからだろう。


「そうだ、有紗」

「ん?」

「『呪いの百葉箱』って知ってる?」

「……うん、名前だけはね」


 動揺はしたが、お茶を吹いたり、咳込んだりはしない。自然に返答する。


「あれ凄いらしいね。なんでも破局率7割超えてるとか」


 7割か……我ながら良くやってるものだ。


「でもさぁ……ちょっとできすぎじゃない?」

「そう……かな?」

「あれさぁ……実は呪いに託けて裏で実際に破局させてる人がいた。なんてことあったら面白くない?」


 相変わらず、感の鋭い人だ。わざわざ私に言うということは少なからず、疑われているのかもしれない。


「わざわざそんな面倒なことする人いるのかな?」

「うーーん……それもそうかぁ……」


 疑いを晴らせたかは分からないが、それ以上の言及はなく、彼女も手元の携帯を見始めたため、私は胸を撫で下ろした。


 そうこうしている間に料理がテーブルまで届けられ、何気ない会話と共に食べ進める。


「ねぇ……有紗」


 一通り食べ終わり、霞はやけに緊張したような声で話しかけてくる。今までとは違う声色に私も身構える。


「あのさ、私好きな人できたみたいなんだよね……」

「へ……?」


 私は驚きのあまり持っていたフォークを皿に落としてしまう。それも仕方がない。彼女は女子高生とは思えないほどの男嫌いであり、クラスでも男子と話している様子はほとんどないのだ。


「え、誰? 同級生? 同じ学校の人?」


 私は動揺のあまり、畳み掛けるように質問を投げかける。


「誰かとは言えないけど……同級生。クラスの人だよ」

「えぇーー!」


 私の口から歓喜の声が飛び出るが、演技なのか素なのか、自分でも分からない。


「え、どんなところが好きなの?」

「普段は元気なんだけど、1人でいると静かなところとか、凄い頭が良いところとか……あと……顔が……」


 霞の美意識は異常に高い。そんな彼女でも認めるような男が私のクラスにいたとは……私は余程クラスメイトに興味がないらしい。


「告白するの?」

「うん……本当は受験終わった後にしたいんだけど、抑えきれなかったら、わかんない」


 そう言いながら、綻ぶ顔を隠せない彼女は紛れもない乙女だった。


「大丈夫だよ、応援してる」


 意外だとも思ったが、羨ましいという感情もあることに驚いた。




 1週間経ち、金曜日。私は珍しく都会の街に赴いていた。理由は単純、不二崎らが参加する合コンがそこで行われるという情報があるからだ。


「私はここら辺の地域はよく分からないからナビゲートお願いね」


『情報通りなら、その突き当たりを曲がったところにある居酒屋だな』


 独り言のようにそう言うと、イヤホンから冴島君の声が流れる。危ない人にでも間違われそうだが、イヤホンをしているため、別に違和感はないようだ。


「居酒屋?」

『合コンだからな、居酒屋は鉄板スポットなんじゃないないか?』


 一応未成年だというのに、平然と居酒屋に入れるのは一周回って評価できる。


『そこの交差点を左だ。曲がってから少ししたところで1回止まってくれ』


 私は素直に了承し、言われた通り少し歩いてから止まる。冴島は私のかなり後ろを歩いているため、見失うと面倒なのだろう。


『この付近だ』

「悪趣味なところね」


 20分ほど歩き、表の大通りとは少し離れた狭い道にある居酒屋に辿り着く。近くには持ち帰ってくれと言わんばかりのラブホテルが立ち並んでいた。


 窓越しから遠目で中の様子を見ると、中には男女3人ずつで座っている人達がおり、その中の一人に不二崎もいた。


「情報通り、不二崎がいる。お手柄ね、冴島くん」

『それはなによりだ。接触するのか? 合コンの写真だけでも、十分決定打になると思うが』


 淡々と言っているようだが、少なからず、心配もしているように聞こえる。極力私と不二崎を接触させたくないのだろう。


「一旦様子を見ます。近くまで来ておいてください」


 私はイヤホンをワイヤレスの方に変え、髪で隠してから、堂々と店に入る。

彼らの近くのカウンター席に着き、自然な口ぶりで注文すると、普通にお酒が私の目の前に並んだ。化粧様々と言ったところだろうか。


 彼らとは背を向けているが、携帯の反射で姿を見える。その中に映る不二崎は特に会話に参加する様子はなく、ふんぞり返って、酒を飲みながら携帯を弄っていた。


「随分つまらなそうね、不二崎は」


 恐怖心がないわけではないが、今の自分が女としてどこまで通用するのか、試したくなった。


「冴島君、動くわ。ホテルの前まで行ったら、動画なり写真なり、撮っておいて」

『…………分かった』


 冴島の無理矢理出したような声を聞き、電話を切る。


 10分ほどすると、不二崎が席を立ち、お手洗いに向かう。私もそれから2分ほどズラして、そこに向かうと、予想通り、丁度彼が出てくるタイミングだった。

 すれ違う直前にわざと脚をふらつかせ、彼に抱きかかえられるように倒れる。


「あっ……ごめんなさい」


 咄嗟に離れると、彼の顔は赤くなっている。見た目とは裏腹にまだまだ初心ウブらしい。


「ねぇ、貴方これから暇?」

「暇……ですけど」


 普段の不二崎達からは考えられないようなたどたどしい返答が返ってくる。


「良かったら、私に付き合ってくれない? 1人で飲んでたら、人肌恋しくなっちゃって」


 私は再度彼に近づき、身体を密着させ、上目遣いで見る。私にできる精一杯のアピールだ。


「ダメ?」

「もちろん……良いけど……」


 経験がありそうとはいえ、高校生。慣れないシチュエーションに押され、不二崎は了承する。


「そう、じゃあ……先に店の外に出とくわね。貴方もさっさと抜け出して来て」


 普通なら、お手洗いまで来た意味を考えてもおかしくないが、今の彼はそこまで頭が回っていないだろう。

 私はそのまま自分の席に戻り、会計を済ませると、荷物を持って、外に出る。数分すると、不二崎も追うように店から出てきた。店の窓を見ると、先程まで不二崎と共にいた男子らが私達の方を見ていた。


「それじゃあ、行きましょうか」


 私は不二崎に視線を戻し、そう言うと、わざとらしく腕を絡ませ、ラブホテル前まで移動する。

 ここから律が写真を撮るまで時間を稼ぐ必要がある。


「綺麗な指輪ね、彼女がいるの?」


 彼の右手に光る指輪を見て、私は自然な口ぶりで尋ねると、露骨に彼の顔が曇る。先程の合コンを楽しんでいなかったことからも考えて、不二崎も雨宮のことを相当気に入っているのだろう。


「そんなこと関係ないだろ」

「そう? 少なくとも私は少なからず興が覚めちゃったけど」

「……なに?」


 酒が回っているということもあり、彼の顔に怒りの感情が湧き上がっているのを感じる。だが、負けずに毅然とした態度で接する。


「浮気するような男に身体を任せるほど、落ちぶれてはいないわ」

「……んだと?」


 彼は先程とは打って変わって機嫌が一気に悪くなり、私の胸ぐらを掴む。


「お前から誘ってきたんだろ? だったら約束は守れよ」

「酒飲みのやることは変わらないわね」


 今の不二崎は私の母親とそっくりだ。今にも殴りかかってくるような形相に私も押されているのを感じた。



「おい、そんくらいにしとけ」



 不意に彼の背後から低めの声が響く。不二崎は私から手を離し、声の主、冴島の方を向く。


「んだぁ? てめぇ」


 冴島は殴りかかってくる不二崎をいとも簡単に避け、彼に携帯の画面を見せる。


「未成年飲酒、暴行、女性への性的暴行未遂。俺が通報すれば、タダじゃあすまないぞ?」


 冴島は鬼のような形相で不二崎を睨みつけると、彼も睨み返そうとするが、さすがに分が悪いと思ったのか、足早に立ち去って行った。


「……なんで来たの?」

「どうせ来るって知ってたから、不二崎にあんなこと言ったんだろ?」

「バレてましたか」


 念の為、来る前に冴島にもメイクさせ、いつものボサボサの髪も整えさせておいた甲斐があったというものだ。


「でも、正直確信はありませんでしたよ? 相手はあの不二崎ですし」

「惚れた人が抱かれそうになるのを見てられるかっての」


 彼が少しキレ気味にそう返してくるので、私は彼の頭にそっと自分の手を置く。


「ありがとうございます。今回は助けられました。優しいところもあるんですね」

「思ってもないことをわざわざ言うな」

「あら、酷いですね。割と見直したのですが」


 正直、あの状態が続けば私もかなり危険だった。この言葉に嘘はない。と言っても、彼にはきっと伝わらないのだろう。


「それで? 写真は撮れました?」

「ああ、バッチリだ」


 彼は携帯を取り出し、得意気に撮った写真を見せる。私と不二崎がホテル前にいる写真や合コンの場の写真も収めてあった。


「上出来です。ですが、必要ないかもしれません」

「そうなのか?」

「はい、あの場にいた女子は他校生でしたが、男子は皆、私達の学校の生徒でした。彼らのことです、勝手に噂を流してくれますよ」

「そうか」

「ですが、一応雨宮さんにだけは送っておいてください。連絡先がなくても、匿名で送り付ける機能もあるそうですし」

「分かった。やっておく」


 仕事が終わり、気が抜けたのか、私の口から長い溜め息が出る。


「凄かったぞ、お前の演技。高校生だとは思えなかった」

「そうですか? 照れますね」


 学校での私や冴島の前での私と、先程までの私は顔も性格も違う。素人目にもそう感じさせられたなら、良くやった方だろう。


「天才ってやつかもな」

「……困りますね。努力を才能と一纏めにされるのは」


 本音がこぼれてしまったことに気づくまで、数秒かかった。冴島は失言をしてしまった後悔からか少し顔が暗くなってしまっている。


「あっ……ごめんなさい……つい……」

「……目指してるのか? 女優」

「憧れているだけです」


 そう言いはしたものの、自分でも答えが分からなかった。


「さて、帰りましょうか。律」

「冴島呼びはやめたのか?」

「今回頑張ってくれましたからね。ご褒美です。……嫌ですか?」

「いや……普通に嬉しいけど……」

「なら良かった。これからもよろしくお願いしますね。律」


 それから数日した頃、不二崎と私、もとい謎の女性との浮気未遂は校内中に広がり、不二崎と雨宮という学年でも有数の有名カップルは雨宮の大激怒という形が破局に終わった。

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