受け流しクイーン

柿尊慈

受け流しクイーン

 自分からはお酒を飲まないので、もはや僕の部屋に置かれている酒類は彼女専用になっている。ボトルキープと言ってもいい。

 そして彼女も飽きっぽいので、しばらく開けられていない飲みかけのボトルが溜まってきた。処分をしなければならないなと思うものの、まさか流しにそのまま流すようなもったいないことはしたくないので、結局は彼女のための料理やデザートに使うことになる。

 そういうわけだから、大学入学時にほとんど自炊をしなかった僕は、大学を卒業してから数年経った今までに、料理のレパートリーが妙に増えてしまった。それでいて、一般的かつ初歩的な料理は全くできないので、結果的に僕も偏食になっていくのである。

 料理ができると豪語できるような腕前――というかバリエーションの多さ――ではないので、料理の苦手な独身女性の心を鷲づかみにすることもできず、サタデーナイトは彼女のために空けてしまうので、誰ともフィーバーすることのないまま僕は20代の半ばに突入しようとしている。歳上の彼女はつい先日25歳になったが、困ったことに出会った頃の5年前よりも若々しく見えるような次第で、酒のせいか甘い香りを漂わせ、僕の理性をただ酔わすのだ。

「部屋が広くないと、お手洗いがすぐ近くにあるから便利よね」

 やや下品なことをぽつりとこぼし――遠回しに僕の家を小バカにして――彼女は立ち上がって僕の家のトイレに向かった。黒髪のショートヘア。毛先はややウェーブがかかっている。レースのついた黒い服は、結婚式に着て行くのが正しいような上等なもので、これを私服として着こなしていることに、感動を通り越してやや引いている。玄関の電気はついていない。狭く暗い廊下に、彼女が消えていく。

 バタンとドアがしまり、換気扇の回る音がする。彼女が腰かけていたクッションが、彼女の軽い体重で少しだけ凹んでいる。僕はそれを手に取って、一瞬やましい思いに駆られながらも、頭を振ってからそれを裏返しに置き直す。彼女が戻ってきたときに、クッションのふわふわ感を味わってもらうためだ。彼女があまり好きではない、濃い青のクッション。5年前から彼女に使い倒されている。実は2年ほど前に中身を全部抜いて新しい綿を詰め直したのだが、それに彼女は気付かないし、結構な手間だったので、もう買った方が早い気がした。

 ブランデーケーキの載っていたふたつの皿。彼女の使っていたフォークの先がきらりと光る。彼女は食べ方も綺麗で、出会った頃から、そこが彼女の魅力のひとつだった。少し大きめにつくっておいたケーキは、彼女がぺろりとたいらげてしまい、ほとんど僕は食べていない。彼女がたっぷりと残していった酒をふんだんに生地に練りこみ、1週間寝かしこんでいたもの。土曜の夜の彼女との時間にしかほとんど金を使っていない僕が、社会人2年目にしてちょっといい冷蔵庫やオーブンを購入し、それを駆使してできた力作だった。

 僕は皿とフォークを持ち上げて、台所に置く。ごとんと音がする。少しだけ水を流す。既に洗剤の染み込んでいたスポンジで、濡れた皿の表面をなぞる。フォークの先をスポンジで挟む。こする。

 などとやっていると、トイレから彼女が出てきたのがわかった。トイレの水の流れる音がしたからだ。彼女はゆっくりとクッションに腰かけて、グラスに残っていた赤ワインをこくりと飲み干す。

「赤よりも、白の方が好きなんだよねぇ」

 不満めいた言葉を漏らしつつも、その顔はほんのりと赤らんでいて、嬉しそうにも見えた。気持ちよさそうに酔うところも、彼女の魅力のひとつだ。

「あなたが残していくのが悪いんですよ」

 少しだけ言い返して、蛇口を捻る。食器の表面から洗剤を洗い流す。指先でこする。水の音の奥から、キュキュっと皿のこすれる音がした。ぬめりがなくなるまで洗う。以前、皿から洗剤の香りがすると言われたことがあり、その日から僕は、念入りに皿を洗い、念入りに拭くことにしていた。食器を拭くための白いタオルは、100円ショップで買った安いものであるが、できるだけ食器を清潔にするべく、使ったらそのまま捨てている。もちろん、これは彼女が来た夜に限っての話であって、毎日ぽんぽんとタオルを捨てているわけではない。

 水を止めて、僕は振り返らずに言った。

「水、飲みますか?」

 酔った彼女への気遣いだ。

「ううん、いらない」

 そして、彼女は毎回それを断る。少しだけ枝毛のある前髪。その隙間から、ひそめられた眉が見える。頭が痛いというメッセージ。それなのに彼女が水を拒むのは、その痛みがクセになっているからだ。

 ふらりと立ち上がり、彼女がグラスを持ってくる。自分で洗うためではない。僕に洗わせるためだ。

 グラスを受け取って、僕は蛇口に向き直る。手を伸ばした瞬間、締め付けられるような感覚。柔らかい感触を背中に感じる。彼女が、僕の腰に手を回していた。彼女の額が、僕の背骨に押し付けられる。抱きついている、なんて優しいものではない。

「やっぱり、首のあたりを冷やした方がいいですよ。保冷剤あるんで」

 水道に伸ばした手を引っ込めて、シンクのふちに手を置く。僕の言葉に、彼女は何も返さない。ただ、抱きしめてくるばかりであった。……そう、まさに「しめる」と呼ぶに相応しい力で。

 毎回、こんな感じだ。彼女が僕に抱きついている間、僕は動けない。グラスを洗ってしまいたいところだが、この状況で水を出して「うるさい」と文句を言われたことがある。振り返って抱きしめ返すでもなく、僕はただ手元のグラスを見つめる。赤紫の液体が、グラスの底に少しだけ残っていた。グラスのふちに、赤い口紅がついている。

「この感じがね、胸がきゅんとする感じに似てるの」

 僕は続きの言葉を待つ。10秒ほどの沈黙。

「恋をして、ああ、この人のこと好きだなって思ったときに、抱き絞めたくなるような感覚があるでしょう?」

 ええ、僕が常々感じていますとも。

「ああいうときって、胸の奥がきゅんとして、抱きつかないではいられないような愛おしさを感じるんだと思うの。そのときの感じが、お酒を飲んで、頭が痛くなるときの感じに似てるんじゃないかなって思って」

 似てるんじゃないかな。

「確信は、ないんですか?」

「私はそういう気持ち、一度も感じたことないから。抱きしめられる側になったことは、たくさんあるけど」

 過去の男を匂わせる発言に、胸が痛む。かつて彼女を好きなだけ抱きしめることができた男性たちへの嫉妬と――何をしても、何を言われても、僕が傷つかないと本気で思っているであろう彼女への、怒りに似た、赤黒くメラメラとした感情。

「顔を洗ったって、目を瞑ったって、横になったって、この頭痛は収まらない。だけどこうして、誰かに思い切り抱きつくことで、この痛みを受け流すことができている気がするの。抱きつかざるをえないような切ない痛みを」

「胸の痛みと頭痛とじゃ、痛む場所が違うじゃないですか」

 僕の小言は、彼女に届かない。それどころか、彼女の腕の力は強くなる。もう少しで、喜びや嬉しさよりも痛みの方が勝ってしまうだろう。

 僕の腹のあたりで重なる彼女の手に、自分の手を重ねたいという衝動に駆られる。銀色のフォークよりも輝いて見える細い腕。酒のせいで少しだけ赤くなっている、熱を持った指先に、この手を絡めたいという熱情。

「ちゃんと恋愛、すればいいじゃないですか」

 聞こえるか聞こえないかくらいの大きさで、僕はぼそっと呟く。

「好かれるばかりで、ドキドキされるばかりで、私が胸キュンを感じることはない。ドキドキするのは相手で、私じゃないの。私の人生だってのに、私は感情を引き起こすための材料のようなものでしかない。そんな恋愛するくらいなら、お酒を飲んで頭を痛めた方がよっぽどいいわ」

 痛みを、恋の痛みに似ているものだと思いこむことができるから。そしてその痛みは、何かに抱きつくことでやわらげることができて――それがまるで、自分が今までされてきたような、どうしようもない、抱きつきたい衝動を感じているかのように錯覚できるから、彼女はこの「土曜の夜」を止めることができない。

「どうして、僕なんでしょう?」

 中途半端な欲求の捌け口にされている、僕の気持ちなど考えもせず。

「あなたは私に、何もしないから。一方的に私を好いたり、愛そうとしたりしないから」

 どれだけ僕が、自分の気持ちを抑え込むのに必死でいるのか、彼女は考えもしないのだ。

 彼女のいう「一方的に好く」というのは身体的な接触の話で、僕の内面は明らかに片想いの――「一方的に好いている」状態だということが、最高に皮肉が効いている。僕は彼女に好意を受け取ってもらえないために――恋人のような関係になれないために、痛みを受け流す相手として認めてもらえるのだ。

 なんとまあ、無様なことか。




 痛みが引くと、彼女は僕のベッドに倒れこみ、そのままシャワーも浴びずに寝てしまう。僕はそれを確認してから、洗いものを片づけて、彼女が起きぬよう静かにシャワーを浴びて床で寝る。これが、土曜の夜のルーティーンになっていた。

 起きた後の彼女は、メイクを落とさないまま寝ると肌に悪いのにと、口癖のように呟く。しかしそれを治そうという気は見られず、毎週そんなことをしているのに、彼女の肌は荒れるどころか、むしろ会う度に綺麗になっているような気さえした。

 普段の彼女の仕事を、僕はよく知らない。彼女は僕の家で静かにお酒を飲むだけなので、自分のことを話してくれないからだ。ただ、たまにぽつりと呟く言葉から察するに、男性との出会いがないわけではなく、声をかけられることは多いらしい。しかしそれゆえに、自分が誰にも「ときめかない」ことに対してのフラストレーションが積み重なっていき、土曜の夜の「頭痛」への期待が高まってしまうのだろう。

 金曜の夜に酒を飲まない理由は、仕事の疲れのせいで、痛みを味わおうという意欲よりも眠気が勝ってしまうからだそうだ。だから彼女は、わざわざ土曜の夜に私服に着替えて、僕の家を訪れる。お酒を飲むためだけの私服。綺麗な服を僕に見せて喜ばせようという意志はない。彼女に「どうしようもない痛み」を与えられるのは、アルコールだけなのだから。

 抱き枕の購入を提案したこともあったが、あまりいい反応は得られなかった。僕が自分用に――というていで――購入して、それに彼女が抱きついてみたこともあったのだが、反発力の面でお気に召さなかったようだ。目一杯抱きしめても形を変えることなく受け入れてくれる、ということが重要なので、力を加えると少しは変形してしまう抱き枕では、彼女を満足させることができなかった。

 この「週末の習慣」は、いったいいつまで続くのだろう。……いつまで続けることができるのだろうか。当分そんな日は来そうにないが、彼女の容姿、あるいは僕の彼女への想いが衰えて、抱きつかれることに何の喜びも見出せなくなったとき、学生の頃から住み慣れているこの家に、彼女を招こうと僕は思わなくなるのだろう。もしくは、僕の体が衰えて、そこらの抱き枕よりも抱き心地が悪くなったなら、彼女は僕に対しての関心をなくし、土曜の夜の習慣も終わりを迎えるはずだ。




「毎週、いいお酒を買われてますよね」

 リカーショップのレジで、会計済みの酒が袋に詰められているのをぼうっと眺めていると、突然レジ打ちの女性店員に話しかけられた。

 顔をあげる。やや茶色がかったロングヘアを、首の後ろで束ねている女性。ツヤのある、さらりとしたストレート。

 女性はやや恥ずかしそうにしている。見覚えのある顔。なるほど、毎週彼女がレジを打っていたのだろう。そりゃ僕も彼女もお互いに見覚えがあるはずだ。でも名前がわからない。エプロンの名札に目をやるが、どうでもいい情報だと脳が認知しているのか、記憶に刻みこまれなかった。

「私も、お酒好きなんです。お客様とも、お酒の趣味が合いそうで……。もうすぐシフトが終わりになるので、もしお時間あれば、このあとどこかで一緒に、お酒でも飲みませんか?」

 なるほどたしかに、酒が嫌いだったら酒の専門店で働くのは難しいだろう。

 学生か、フリーターか。どちらにせよ、この女性は僕よりも、いくつか年下であるような気がした。

 言葉は悪いかもしれないが、逆ナンというやつだろう。通い慣れた酒屋で、女性の方から声をかけてもらえるとは、まあ随分とドラマチックな展開じゃないか。

 だが、しかし……。

「すみません。僕、お酒飲まないんですよ」

 女性は、ナンパを断られてショックを受けているというより、僕の素っ頓狂な返答に驚いているようだった。じゃあ、その高い酒は何なんだよ。掘り下げられる前に、僕は購入した「彼女のための酒」を持って店を出る。

 若い娘だ。メイクや髪の毛も綺麗にしているし、おそらく気持ちよく夜を過ごせるだろう。気にするほどの歳の差でもない。かわいらしいし、純粋でやさしそうな雰囲気もある。

 だが、しかし……。

 酔った彼女に抱きしめられているとき、胸の奥から湧き出してくる、あのメラメラとした熱情を、あの店員に抱くことはできそうになかった。

 僕はどうやら、あの屈辱的でどうしようもない苦しさが、クセになってしまっているようだ。


 なんとまあ、無様なことか。

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