5.ある日、一人の■が死んだ。

 響き渡る怒号のなかで生まれた男が話をするのだという噂に集まった人々は決して男には近づかない。ただ遠巻きに眺めるだけで男の声さえ届かない。そういった伝説で語られる現象があった。それは起こった。過去の出来事であり再現性のない出来事でありそれはつまりもう二度と起こらないだろうと考えられていた出来事であった。二度と起こらないだろう。きっと、多分、そういったことは起こりえない。そういうことは過去に何度も起こってきたということを完全に忘れてしまっている。それは必要な忘却だった。それによって同じ場所を永遠に回ることができるようになった。それはいつでも新鮮な景色だ。街は永遠に色鮮やかでいられる。必要な手続きに則って、繰り返しは繰り返しのなかで繰り返され続け、滑る床の上で前進を続ける。

 ある日、一人の■が死んだ。

 ある日、一人の■が死んだ。

 ある日、一人の■が死んだ。

 ある日、一人の■が死んだ。

 永遠に続けられることだ。

 ある日、一人の■が死んだ。周囲には人はいなかった。彼は一人で死んだ。自死した。傍らには大量の血とよく砥がれたナイフ。肉を切るためのナイフだが製作者はこのような使い方を想定してはいなかったはずだ。牛や豚を切るためのものだった。だが素材が同じなら切ることができる。そうしたことが証明された。

 発見したのはホテルの従業員だった。彼は日課にしていた早朝のランニング中に血の匂いを感じ、その匂いのするほうへ、つまり広場に面した石造りの建物の地下へと降りていった。その建物は従業員の働くホテルの隣だったから、その地下でなにが行われているかは従業員も知っていた。気味の悪さと奔放であることの憧れが、従業員がそこで行われていることへの所感だった。仕事の邪魔にはならないのでホテルの人間は誰もが見て見ぬふりをしていた。

 ホテルの仕事と言っても、従業員のすることはなにもなかった。毎日ホテルに行き、日中をそこで過ごす。簡単な掃除くらいはするが腕を捲る必要のあることはしない。街の住人がホテルと呼んでいるだけの場所だ。この街に旅人がくることはない。だからそのホテルに役目はない。ただ、従業員たちは自分たちをホテルの従業員だと考えている。そう思わせる程度にはホテルは機能している。

 従業員は降りていった。昨夜そこに確かにあったはずの羊水は朝の澄んだ風に砕かれたのか、もうなかった。地下には洞窟の入口があり、そこから風が吹きこんでいた。従業員は血だまりを発見し、ナイフを発見し、最後に死んだ男を発見した。そこでなにが起こったかは明らかだった。

 従業員は自分の目のまえに煩わしい大きさの箱が置かれているところを連想していた。見て見ぬふりできるサイズではないそれは、街のすべての住人が感じている、感じていながらも頭の片隅に押しやって忘れ去ってしまうものだった。起こるはずのないこと。起こるはずがない、と考えるときにはすでに遅いのだった。起こって初めて、起こるはずのないことを認識できるのだから。

 起こってからでは遅い。それはもう起こったのだから。回避不能だ。従業員はそう思った。右手が重いと感じる。見る必要はないのに、従業員は自分の右手を見た。いつの間にかナイフが逆手に握られている。

 その次になにが起こったのか。それはあまりにも明らかだ。


 ある日、一人の■が死んだ。

 その現場を発見したのはまだほんの子供だった。その子供は広場でよく同じような歳の子供たちと遊んでいた。ボールを使うことが多かった。ボールはよく通行中の人にぶつかった。くそがきども。その声は何度も聞いていたがそこには微笑みが混じっていた。街の住人は誰もが同じような態度をとった。だから子供たちには、街全体が毛布のように感じられた。自分たちを包み、体を暖める。暖まった体は何のためにあるのか。子供たちはそのことについて話し合うのが楽しかった。

 その子供たちのひとりが、血の匂いを嗅いだ。降りていく。子供の足に、地下への階段はそっけなかった。子供は何度か足を滑らせかけた。ようやく地下へ辿りついて、肩が上がっているのを落ち着かせるために深呼吸をする。

 進み出て、そこには死体が二つ。その子供は顔を一瞬歪めた。死体に対してではなかった。右手が重かった。


 ある日、一人の■が死んだ。

 ある日、一人の■が死んだ。

 ある日、一人の■が死んだ。

 ある日、一人の■が死んだ。

 永遠に終わらない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る