2.Bisque Doll

「なにを話しているのか、気になるだろう?」

 わたしと木製のやや軋みがある机を挟んで椅子に座っている人形がそう話しかけてきたのは、わたしがあの鐘を備えた時計塔のある広場にあるカフェで、差し迫る雨の気配を目と鼻で感じながらも動けないまま、とりとめのないままに広場で遊ぶ子供たちを眺めているときだった。

 わたしは午前に二つの仕事を終えており、昨夜の復活祭で行われた秘儀めいたあれの影響もあってひどく眠かった。わたしの手元にある仕事の量はすでにわたしのキャパシティをはるかに超えており、すぐにでも家に帰り少量のアルコールで硬直した心身をふやかしてベッドに倒れこみたかったが、午後にも仕事があったのでカフェで昼食をとろうと思い、店に入ったのだ。

 だが注文をしようとメニューを開いたところで、午後の顧客から今日の商談をキャンセルしてくれないかと連絡を受け取り、数分まえに言ってくれていたらわたしはすぐに家に帰っていただろうが、すでに腰を落ち着けていたので、ボイルした大振りの海老をパイ生地で包んで焼いた料理と一杯のグラスワインを注文した。家に保管してるワインがこのカフェにスライドする漠然とした映像未満の映像が脳裏によぎるなか、わたしは鞄から両手にちょうどよく乗るほどのビスク・ドールをわたしに対面する椅子に座らせた。型は完璧にデザインされていたが、まだ彩色はなされておらず、虹彩までもが丹念に作りこまれたガラス製の目も白いままで、見ようによっては男性にも女性にも若者にも老人にも見えた。口元から薄く覗く前歯は作り手のきわめて強く、そして厄介な執念によるもので、いわば作者がそこには宿っており、わたしはこの前歯を見ると言いようのない緊張感に襲われる。

 これは売りものではなかった。作り手がわたしに対する感謝の念を形にしたいと言って作られたものであるのだが、このビスク・ドールの内実はわたしという器からこぼれて余りあるもので、正直持て余しており、そのためもあって名前をつけていない。だが、たまにこうして外に連れ出し、椅子に座らせるくらいのことをしている。誰かにそれをとがめられたことはなかった。一方で、いくら出してもよいからこの品を譲ってくれと頼まれたことは何度かあった。

 ビスク・ドールを椅子に座らせ、簡素な白のドレスを整えたところでグラスと皿が運ばれてきた。


 自分でも驚くほどワインは進んだ。パイのなかの海老がチリパウダーに包まれていたことがその原因だったが、これはメニューを見ても予想ができないものだった。パイ自体はとても美味い。軽めの生地にスパイスですっかりと装飾された海老がよく合っていた。大きな海老というのは触れられていないキャンバスのように大味になるもので、それならばスパイスで埋めてやろうという意図だろうか。

 それにしても辛いので、軽く噎せたところで店員がやってきて、冷たい水をコップに注いだ。わたしはもう一杯ワインをオーダーした。先ほどと違うものを勧められたが、メニュー表のワインはどれもわたしの知らない銘柄だったので、お任せでとだけ言う。

「お連れ様はいかがしましょうか」

 と店員はビスク・ドールの方に顔を向けた。すこし間があき、ええ、承知いたしましたと店員が言って離れていく。軽いジョークだったがすこし奇妙でもあった。だがわたしはそれについて考えることはせずに広場を見た。先ほどから三人の子供が広場の中央あたりで話しこんでいた。傍らには二つのボールが午前中のうちに降っていた雨の残滓のうちに転がっており、子供たちがそれを気にする様子は見られない。

 ずいぶん熱心な様子で、一人は大きな身振り手振りが会話の合間にはさまる。険悪な雰囲気では決してなく、むしろ和気あいあいとしているのに、崖の淵での決闘のような危うさがあった。初めはどの遊戯にするかという議論なのだろうとあたりをつけていたが、議論自体が遊戯なのではないかと思うようになった。そのとき、

「なにを話しているか、気になるだろう」

 と声があった。辺りを見回す必要はなかった。声の主は明白にわたしの前に座るビスク・ドールだった。

「あの子らが一体、なにをあんなに熱っぽく話しているのか、あなたは気になっているんだろう」

 どういう機構なのかと喉と口元を凝視するとビスク・ドールの口の周囲が靄がかかっているように微かに揺らいでいた。その揺らぎで口が開閉しているように見える。わたしの頭のなかでわたしの声がアルコールの摂り過ぎだと言った。わたしもそう思う。

「あの子供たちはこんなことを言っている。『あの男の視線を感じているかい? 彼は最近よくこの広場を訪れるようになっているんだ』『人形売りだそうね』『危険な橋を渡るね』『お守りが必要。そうだよね?』『そうだわ』。

 どうだ? 心当たりがあるかな?」

 わたしが応えないままでいると、ビスク・ドールはつづけた。「これは忠告になるが、子供の会話に耳を傾けるのはとても勇気が必要だ。あるいは諦観が。つまり、あなたは後ろ髪をひかれるようにあの子供の会話を気にしている。だがよっぽどでなければ止した方がいい。彼ら彼女らの言葉には共鳴反応を引き起こさせて、聞く者に会話への参加を促す性質があり、あなたは今その淵に立っている。そう、崖の淵にいるのはあなたの方だ――」

 ビスク・ドールの言葉が終わるまえに、時計塔の鐘が鳴りだす。ところどころにひずみがあるのに、全体では澄んで聞こえるという特徴は、この街の特徴そのものだ。鐘は鳴り続け、二つ鳴り、三つ鳴り、この時間ならまだ続く。

「お待たせしました」

 と今度は背後から声がした。店員が立っており、右手には皿が一枚のっている。湯気が立っているのが見え、店員はビスク・ドールのまえに皿を置く。ようやく来たねとビスク・ドールが言う。皿には赤く澄んだスープがある。

 鐘は鳴り続く。スープには波紋が浮かぶ。

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