1.路面電車の運転手

 ハロウィンがあるのか、ということがぼくが最初に気になったことだった。

「ない……いや、あったかな? いやいや、兎も角きみがそれを気にする必要はないね」

 と、ぼくの前で路面電車の点検をしながら男が言った。運転手としての制服は傍らにきれいにたたまれている。男はこちらを見ない。明らかに忙しそうだったけれど、ぼくに対する声にうっとおしいとか、あっちに行けとか、そんなニュアンスはなかった。もうすぐ終わるから、待っててくれと男はつけ加えた。

 ぼくがこの街に来たのは、ネットで話題になっていたからだった。ただその話題のなり方というものがちょっと異常だった。この街について話すひとはとても多かったけれど、そのどれもが少しずつ食い違っていた。たとえば、

『あの街には入れない』『あの街は、入ったら最後帰ってこれない』『そんな街はない』『ある。しかも複数確認されている』『うどん屋がミシュランガイドに載っている』『そんな事実はありません』『われわれの時空間からは切り離されていて、つまり、まあ、あれだ。異世界みたいなもんだな』『お話のなかの街だろう?』

 とか。すべての話題はカバーすることはできない。ぼくがその話題をひとつ読むあいだに三つの話題が追加されるからだ。兎に角生産スピードが異常であり、これはどうもおかしいのではないかとぼくは興味を持った。

 ――ぼくがこの街に来る過程は、ぼくの記憶にはない。

 前後の記憶はしっかりとあるのに、その中間がすっぽりと抜け落ちているというのはものすごく奇妙なことだとわかっているけれど、なんだか実感がなくて――いや、実感が近すぎてうまく情報を処理できていない。

 街のほうは、あまり異常な感じはない。やたら尖った城が逆さに立っているようなことはなかった。基本的に建物は石で出来ている。川が流れている。時計塔が目立つ広場がある。路面電車が移動には便利だという。他にとりたてて言及したいことはない。

「それで、ほかに訊きたいことは?」

 路面電車の運転手はすべての点検作業を終えて、ぼくの近くにまで来ていた。汗が額に浮かんでいるけれど、暑苦しさよりも壮健さが強調されている。

「すいません、あの、ぼく、ここに来るあいだの記憶がなくて……」

「そんなこと」運転手が笑う。「いや、大事なことだな。笑って悪かった。だが、まあそのことにあまり意識を向けすぎても良くない。何人か記憶を取り戻すことに躍起になって、結局は発狂した知り合いを何人か知っている」

「この街の出入り口はどこに?」なんだか手札を出し渋るみたいな話し方だったので話題を変える。「そこから街を出られる?」

「出入り口はない」と男はきっぱり言った。

「なければ、ぼくはここにいない」

「それは道理だな」男が頷く。「あまり役に立たん」

「ぼくもここに来たばかりだから、いろいろ見て回りたいと思っています」

 話題を変えるのが良いと判断。この判断ができるようになったことは、旅を繰り返すぼくの成長だと思っている。

「それがいい」

 男はほっとしたような表情をした。

「いまは季節が良い。空気が澄んでいる。道に迷ったら路面電車が道をガタゴトいわせている音の方向に進め」

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