第10話前編「竈のタイタン」
・鬼女法王ヤハル
唯一世界帝国の要とは誰かと問えば現人神たるガイセリオン一世皇帝陛下? さにあらず、鬼女法王ヤハル。不死宰相エリクディスと双璧を成すものなり。
全土の稚拙な古代祭祀を正し、神祇官を育成派遣し、全臣民不足無く参拝可能な分殿を築き、遍く信仰の機会を作りたる偉業は唯一無二。
いと敬虔にして神々の祝福を遍く介すは最高神祇官ヤハル。帝国の黎明より天下泰平を祈願してきた姿は正に国母であられる。
今日の世界の惨禍を嘆き、帝国最後の民達を天国にて守り給えと護国祈願をするものである。
■■■
シャハズとチッカは”生命の苗床”の呪術で果物を作っては食べている。何度も試し、今度はしょっぱかった。嗜好品としては落第で、塩分供給源としては非常な合格点を叩き出す。この珍しい逸品の出現は海上に居ることと関係があるだろうか? それともこの座っている白く細かい鱗のせいだろうか? 呪術は奥が深いのか、どうしようもない論理が働いて制御が不可能なのか判断がつかなかった。
えぐさすら感じる塩味に口をすぼめつつ、薄い白鱗に浮いた青く柔らかい静脈を面白く弄った後、後味が失せてからもう一つ果実を作ってみて黒羽根鳥の人のような半ドラゴン”風切羽”へ手渡し、食べさせた。
『クロくん』
シャハズが味はどうだ、と尋ねた。
『甘いですよ』
『ふうん』
『でもどろっとしてしつこくて、水が欲しくなります』
『分かった』
シャハズは指先から水の精霊術による水鉄砲を発射してその口内へ直撃、”風切羽”は咽て反射的に震えて羽毛が逆立つ。
これは面白かった。また射撃してしまう。
『シャハズ、もういいです!』
また射撃。
『こら!』
怒られた。
『その力! 無駄にするなら私に寄越せ!』
そう大声を出すのは耳の長いシャハズの同族、野人エルフの末裔である小魔女。エンシェントドラゴン”流血”の下に身を寄せている大変元気が良さそうな子である。
『うん』
シャハズは杖先に呪術ランプを引っ掛け、小魔女に放り投げて渡した。使えるなら使ってみろ、との挑発というより、やってもいいよ、という善意。どう受け取るかはまた別である。
受け取った小魔女はうぬぬ、と眼力に手力も加えて出でよ緑、と念じる。念じ踏ん張り、汗を掻き、頭に血が上り知恵熱。頬が膨らんできてチッカに、なにこれー、とつんつんされてから涙を流した。
『何でよ!』
『直接会ってないから?』
シャハズはチッカと目を合わせ、どうかな? と目線で問い合って良く分からないと首を同時に傾げる。
『どこにいますか!?』
『あっち』
シャハズとチッカが指差す先、山渡りの巻き起こした大陸津波により崩れ掘り返され、膨大な泥の海にそびえ立つ攪拌土砂岩石の山とも言えぬ大質量の混ぜ物である。それは天国の傘の下にあり、斜め横から陽光を浴びて見せる姿は以前とまるで違う。また大質量物は日々天国へと吸い上げられており、わずかずつだが痩せて細っている。エンシェントドラゴン”流血”の一党が最早可住に適さぬと捨てたタイタンの箱庭だったものでいずれ消え去ると見られた。海中に没した後の旧神がどうなるかは知る由もない。
『ふええん』
小魔女はへたり込んで声を上げて泣き出した。その様子が大変面白いのでシャハズは頭をよしよし、と撫でる。
『止めて!』
振り払われたので頬を指で突っつく。
『止めてよ!』
面白いからやってしまうのである。またこれ以外の触れ合いの仕方は然程に心得ていない。
白鱗が割れ、小さな蛇頭が出血と共に伸びる。本来の大頭の方は現在海面下にあって不便なので、新たな会話用器官として”流血”が己の一部を便利に変じたものだ。強者弱者の論はさて置き、他のエンシェントドラゴンとは一線を画す。
『虐めるのはそのくらいにして貰おうか』
シャハズはチッカと目を合わせ、虐める? と目線で問い合って良く分からないと首を同時に傾げる。チッカはそれからそんな心算は無かったよ、と小魔女の肩に座り、かつての手の平大ではないので体勢が崩れて滑って落ちる。落ちた後はその腹の下に頭を捻じ込んだ。そして機嫌直してー、とぐるぐる回る。唖と言えどもチッカは触れ合いの仕方を多数心得ていた。
『その呪術を使いこなす力、可能性がある』
『うん』
『我々は天国とやらの、タイタンの手の平へ無理に移ろうとは考えない。異大陸を新たな故郷にする。そこで繁殖して幾つもの亜種に派生させよう。そこは荒野かもしれない。我々に辛いかもしれない。デーモン共は何とかしたようだが、我々がどうにか出来るとも限らない』
『まあ』
『だから”生命の苗床”に”精霊の卵巣”の呪術で環境を作ってくれないだろうか。せめて住み慣れる余地がある土地にして欲しい』
『地の糞も同じこと言ってた』
『では嫌か。相当な労力が……旧神の呪いに引かれる危険は看過出来ぬだろうから……』
『いいよ』
まつろわぬシャハズ、地のタイタンの説得にはいまいち、と刃を添えて返しておきながら、この労も呪いも厭わぬとの返事である。
この魔女は大義などではなく気分で動く。気分により今、世界は破壊からの困難な再生を迎えてしまっているが、勿論のことそれに責任や呵責など微塵も感じていない。基本倫理は適者生存である。
『そうか』
『うん』
『シャハズよ、お前は物事を好き嫌いで判断しているか』
『さあ』
『タイタンのことは嫌いか』
『糞殺す』
『そうか』
空が見えて来る。天国の傘の下を抜けた。陽光はもやに遮られて弱く、寒い。壊れたタイタンの箱庭が如何ほどに暖かだったかが実感される。
シャハズは立って杖を両手に持って掲げる。”風切羽”に掴んで飛べという合図である。小魔女の腹の下から頭を出したチッカはその首の後ろに抱き着く。
『私も行く!』
小魔女が同行を願い出た。チッカの捻り込みが功を奏した可能性もあるが、一番は破壊の術を心得ていながらその機会が今日まで無かったことにある。憎き敵がいながら手に術があり、一度も振るわず隠居などというのは滾る戦士の血が許さない。
『役に立つはずだ』
”流血”の推薦。シャハズは小魔女の胴へ跳び付き脚挟み、遠慮無く子供か恋人のように圧し掛かる。
『え』
『たぶん大丈夫』
”風切羽”はシャハズが大丈夫というのなら大丈夫、と掲げられた杖を掴み、三人同時にぶら下げて羽ばたく。離陸の直前で今まで言葉を発していた”流血”の小蛇が分離し跳んで小魔女の足に絡んで這い登り懐へ入った。送りの土産である。
”風切羽”飛翔。小魔女は見てくれ通りに小娘のように叫んでシャハズの胴に腕を回す。
高くから周囲を見渡せば、隊列を成して無数に泳ぐ”流血”の一党。ドラゴンにヒュドラがいて、その背に馬具のような物を拵えて乗り、また船を牽引させる。そこに座ったり寝たりするまつろわぬ者達が見える。彼等の本拠地である半島には各地から流れ者が集まっており、他のドラゴンの配下や、タイタンへの信仰より我が身を優先した者も多く混じって多様な移民集団と化している。
今まで足場だった白鱗の床が傾き、蛇に似たエンシェントドラゴンの岩礁程度の大頭が傾き持ち上がって大口を開け、腹の底から震える声を並で出した。
『待っている』
■■■
和平交渉とは武器を下げた平和なものではない。どちらが現時点で強いか見せつけ合うものである。
エンシェントドラゴンを討伐せしドラゴン殺しクエネラはその交渉のために天国まで、柱を齧るドラゴン”百足”切断の夢を中断させられてまで交渉の場へ召喚された。
クエネラに力は有る。見せつけるだけ有り余っており、まつろわぬ移住者達に一撃見舞ったものの致命打には到底至らず、ほぼ見せただけで終わった。
和平の内容、両者の面子こそ立てるものの技術優位のまつろわぬ移住者達へ栄えある帝国の最後の一握りがほぼ服属する形で決した。これは神前契約であり、破るは極限に難い。
属という言葉の語調が強いと訂正するならば、雇用主と労働者の関係に近い。奴隷に農奴とは言わぬが、行く宛ての無い小作人程度である。ドラゴン殺しの武力を見せびらかせてこの結果である。
まつろわぬ移住者達の圧倒的な戦力を前に真に隷属するまでに貶められなかっただけ大戦果ではあるものの、名誉に悖るならば総員討ち死にとなれ、というような戦士の気風には沿わない。
この不満は戦士だけが我慢すれば良いこと。これから腹が大きくなっていき、お産の苦しみを味わう女達にやや先んじただけ。そう鬼女法王ヤハルが説教して一先ずは帝国の矛は収まった。しかし言葉で足りぬ者はヤハルが相手つかまつり、手っ取り早いものから全て仕合いにて叩きのめす撃剣説得を敢行。今、最後の一人と全霊にて撃する。
吠えるクエネラは剣を振るい、ヤハル法王は敢えて受け流さずに直に受けて止める。オーガの豪腕、爪で踏ん張る蜘蛛八脚は不動に粘る。そしてアラクネの足腰遣いからの撃ち返しは異形相応に重く、続撃は怒涛に終わらない。体重乗せる足止めの震脚に突進が合わさる八本歩法は二本脚の理解を越える。
これは殺し合いではない。敢えて受け、受けられるように撃ち込んで筋骨を震わせ痛めつける儀式だ。
「殿下はあの者達がお嫌いですか」
「聞くまでもないでしょう!」
「特に?」
「刺身ババア死ね!」
「海が近かったら今晩はお造りしてあげたんですけどね」
「奴で作れ! 下さい!」
「儀式により彼等も身内と受け入れられます。もう大きな悪いことは出来ません」
「あの寄生虫共が!?」
「旧神にも限界があります。正確にはその力を借りる限界です」
「それが計れると!?」
「御柱様が仰います」
「今まで……ええい!」
怖ろしい言葉が戦乙女の口から出掛けた。
「その通り負けて来ましたが、その分御覚悟、対策、決められております」
「糞!」
ヤハル法王はあっさりと怖ろしき、神々の負けを口に出した。かつてなら呪われたような不敬の言葉だがそれを気にする余裕は神々にはもう無いのだ。畏怖を振り撒く矜持も失われるほどに追い詰められた。神々という言葉もそろそろ事実にそぐわない。もう竈と戦の二柱しかおらず、その竈神も自らを生贄にするというのだ。かつてなら機密や神秘とされてきた物事すらも下々が知る時世。
クエネラは憂さ晴らしに剣を撃ち込み続ける。雑魚相手なら汗すらかかぬヤハル法王も顔が苦しい。
士気が崩れ、平穏に身を委ねれば破滅してしまうクエネラには常に刃が注がねばならない。最も今は意中の糞女がいるためその必要は無いが、憂いを発散せねば結んだ和平を激情で破りに行きかねず、ままに耐えれば脳が高圧で破れるかもしれなかった。また不意の危機に慢性脳溢血の狂戦士を繰り出すのは不安であろう。
しばし撃ち合いを続けた後にヤハル法王が諸手を上げて降参する。その腕は治療が必要な程に痛め付けられて痙攣、手の皮が破れて流血、指は脱臼、骨も折れて腫れ始めた。流石の狂皇女といえ、竈神の奇跡で治療すれば綺麗になるとはいえ、目上の古い彼女の姿を見れば血圧が下がった。
そうしてから和平交渉を纏めた外交官エンリーの出番である。ともすれば言い訳無用に脳天を割られる可能性があった。古来、外交官は言葉に対して剣で返されることも少なくない。己の意志に拘わらず人柱とされる名誉職である。
「殿下、残る大敵、エンシェントドラゴンは二つ、そして魔女と飛翔する魔王城がございます」
「うむ」
拳ではなく声が出た。まずは姫のご機嫌麗し。
「こちらに切り札として一つ、そちらに三つお譲りしたいと考えましたが、これまでの戦った手応えからもう一つ、必要か率直にお聞きしたい」
エンリーは手の平にエーテル結晶の奇跡の指輪を四つ乗せて見せる。不条理な戦いに希望を見出す切り札だ。
「それは増やせんのか」
「都合が良過ぎる願いは反動が怖ろしいものでございます。単純に増やすだけなら不都合が無いかもしれませんが、しかし何を見落としているか分からないと考えればそのような願いは避けるべきと考えます。古来、奇跡には対価が伴い、対価を厭えば別の形で返って来るものです」
「勇気で補え」
「それも道理です。しかし一つを二つにと半端が二つになるのはまだよろしいでしょうが、無駄になれば取り返しがつかず、やはり意図せぬ奇跡が怖ろしいのです。はっきり申しまして私は博打をしません。一発の伸るか反るかの勝負を致しません」
「そのくせゴブリンで統領だったのか」
「あれは当時の候補者が馬鹿で醜かったのです。衆愚の隙を的確に突きました」
「奇跡に隙は無いのか?」
「試す勇気がございません」
「私が試す」
クエネラが寄越せと手を広げて差し出した。奪わぬあたり法王の頑張りが出ている。
「私ではお止め出来ませんのでお譲りしますが、推奨は致しませんよ」
「埒が開かん」
「僭越ながら、二つにするのではなく三つ以上に。一つ消費されれば無駄になります」
「うるさい!」
クエネラが一つ手に取った奇跡の指輪、おそらくこの世にこの四つしかない。その貴重品を、大敵との戦いに決定的な影響を及ぼす切り札を手にしてクエネラは勇気か蛮勇か、躊躇わずに三つに増やせと祈って握り込み、開けば二つが収まっていた。
「どうだ!」
久し振りに勝ち誇って破顔するクエネラへ、エンリーが二つの指輪を見せた。
「移動しただけのようで……」
「何だと!? じゃあ四つ!」
クエネラの手の平に三つ、エンリーの震える手に一つ。小賢しい小技使いのゴブリンが手品で転がしているわけではない。
「来い一〇個!」
「ひぁ」
道理、法則を越える正に奇跡中の奇跡が願われ、ゴブリンは悲鳴を上げた。そしてクエネラの手の平に四つ、エンリーの震える手には無かった。落した様子は無いが思わず下を見渡す。
「どういうことだ!?」
「私達が考える奇跡の指輪はこの四つしかこの世に無いということでしょうか」
「同等の物が増えないのか、作れないのか」
「この様子では極限に困難かと。がらくたをこさえただけとなればもう……耐えられません」
「ええい! 一つはそっちだ」
「は」
脂汗が滴るエンリーの手に奇跡の指輪が一つ返された。
クエネラに休息は不要。不動こそが破滅なれば即座に動き出す。
ハラルトは常に侍る。何なら歩きが遅い、と荷物と共に下げられている。
フェアリーはクエネラの懐の避難所から出たり入ったり自由気まま。久し振りの花の匂いを楽しむことが多い。
アジルズは転生すれど弟分に代わりは無い新婚のヒューネル夫妻を祝福に旧都宮殿へ出向いていた。
宮殿では使徒様、殿下様と歓待され、大扇に煽られたり、傷んだ羽根に油を塗られてはお繕いいたしましょうと、久方振りでいてその身に生まれて初めての良い気分に浸っていたが、風雲急を告げるが如く、並足にも拘わらず床を粉砕するように乗り込んで来た完全武装で遠慮の無い姉貴分に喉元掴まれ、呆けている暇は無い行くぞ、と怒鳴られた。
「姉上、ここで一緒に暮らしましょう。儀式が終われば天は閉じます」
皇太子ヒューネル、寸鉄も帯びず夏に着るような軽い平服の一丁のみ。地神御隠れの時より錆朽ちてしまった始皇帝の剣と甲冑を身に帯びることは無いにしても短剣程度は持つべきであるにも拘わらず無手である。
既に平和に呆けているとも取れる。成った和平を代表して体現している姿でもある。既に身重となった妻サナンの側で光り物をぶら下げたくないという心情もあった。
ヒューネルは竈神の最終儀式のため、その御力を高めるため婚姻の儀式を行った。それは準備万端。月の巡りを計算に入れた食餌療法に始まり、皇太子の結婚式典、そして相思相愛処女童貞による公開の初夜、儀式性交からの血の付いた床入り証明の敷布の掲示から一撃着床の御神託という最高の信仰力を発揮。
父になれば顔つきも変わるものだなとクエネラは感嘆しつつもその額を掌底打ちで張り倒した。
「弱い!」
常人の首なら圧し折れていた。
「弱いお前のような者を残して誰が剣を置けるものか!」
腹を蹴飛ばして転がす。厚い筋肉を纏っていなければ常人ならば腸が破れていた。
「死人に人間の幸福は無用、この身は戦神に捧げられた。そして馬鹿者め、姉をあのような者の手に預けようと言うのか」
「いえ、それは」
「分かれ!」
「はい!」
「良し」
和平交渉の折にまつろわぬ移住者達の代表、刺身ババアと呼ばれた最後のセイレーンがクエネラに対し戦神の呪い解いて上げましょうか、と提案していたのだ。
それは帝国の戦力を削ぐという目的は露骨。しかしこれから訪れるであろう平穏無事な生活を前に、獣も逃げ出す狂戦に身を捧げてきた未婚の皇女は余りに哀れ。新婚の皇太子夫妻と比較すれば尚更であった。
だが戦士は剣を握って死ぬ。授乳服などに袖を通す気は無い。
クエネラは旧都を出た。一度、竈神を捧げる最終儀式の祭場へ向かって最敬礼する以外は未練の振り返りなどしない。そして地上へ降りるため、広がり続ける天国の地平を目指す。
竈神の最終儀式、御大が自らを生贄に捧げて為そうとするのは天国と地上の分断である。ただ空の大地が閉じるだけではなく、排外に分けられる。
竈神の神格は家の守り。外と中を分け、排外し分断するもの。家族と客を部屋で暖め、その他を凍える外に追い出すこと。外から要る物だけ奪い、内に蓄え閉じ込めること。
分かたれた地上と天国の間は永遠に何者も通じ合うことを許さぬという奇跡に隔たれる。
地神が大陸で天国の傘を形成したように、竈神は全地上から要る物を全て奪い尽くしてから完全に蓋をする。
■■■
”風切羽”にぶら下がったシャハズ等三名、かつての山々を越える高さの天国に降り立った。
途中までは極端に寒く空気も薄かったのに、この天上の大地に至った途端に暖かであった。息を吸い込めば美味、活力沸かすも寝転がって陽光を布団にするも自在の心地良さ。
誕生間もないはずなのに十分に茂る草木に花、虫に鳥に獣と生態系まで整えられており驚愕の一言である。そしてこの光景、崩壊前の地上でもありそうで無かったような常春の楽園に見え、実際その通りであった。
身を害すような生物が一切とは言わずともほぼ無かった。毒虫毒蛇、人を食うこともあるような肉食獣は見当たらない。怒らせれば分からない動物はいるが、基本的には空腹から噛み付いて来る類は無かった。
タイタンの呪術、改めて生半ではなかった。逆にこれ程の力を持ってして古代より続く狭量さは何なのかと疑問に思える程。
『魔女様、これ乗っ取りましょうよ』
『うーん』
『何がまずいんですか?』
『さあ』
考えると面倒臭そうだから考えない。シャハズの思考は今これである。
”風切羽”が偵察のために上昇し、直ぐに降りて来た。
『シャハズ、もう見つかっています』
『うん』
『帝国の奴等とあのテレネーの軍隊、協同しています。裏切られました』
『ふうん』
『姉もです』
『へえ』
シャハズは座り込んだ。観念したわけではないが、草原に指を突っ込んで穿り出す行為は何とも頼りにならない。
『どうするんですか?』
『うん』
『具体的に』
『うん』
『逃げるとか攻めるとか何とか言いなさいよ!』
小魔女に怒鳴られてもシャハズは何処吹く風。しゃがんだチッカは指が根本まで地面に入るのを観察中。
『あれ』
シャハズが小魔女へ手を伸ばし、何か寄越せとやれば”流血”の分身が小魔女の袖口から飛び出して乗る。そして蛇頭が地面の穴に差し入れられた。
『呪術?』
『待つ』
果報は何とやら、シャハズはそのまま寝転がって目を閉じた。
チッカは差し込まれて大人しくしたままの分身をつつき、嫌がるか何かで尻尾が右左に曲がるのを楽しむ。
『え?』
『待つぞ』
シャハズを信頼する”風切羽”も座ってしまう。
敵軍到来を待つにしても迎撃準備など覚束ない小魔女は初陣の不安からそわそわとするしかない。シャハズが寝ながら投げて渡した”生命の苗床”産の変な果実を齧って、何か動いていると吐き出して投げ捨てる。
寝て待つことしばし。
上空には有毛ワイバーンの群れとエンシェントドラゴン”吹雪”の後継、一際巨大な”恒風”お姉ちゃんが現れ、空を抑える。
鋼のゴーレム銃兵戦列とオーガ族弓兵の戦列が万を数えて三方より進軍、正面両翼から三人一匹を捉える。
開戦前の口上を述べに、竈のタイタンの巫女にしてアラクネに変じたオーガ、死滅した巫女達の長、帝国最高神祇官、古代より生き永らえしヤハル法王が知の呪縛から解放された状態で前に出る。包み隠さぬ憤怒の相であった。
『魔女シャハズ! あのエリクディスの弟子が、何故そうも分別が無い!』
タイタン側が封じたはずの古代の言葉を法王が発した。状況はこの戦いの始まりの頃より大きく違う。一部の者は全事情を把握している。
シャハズは起き上がって一言返す。
『分かんない』
生来の性分を事細かに説明するような頭をシャハズは持たない。
『何を教わったか言ってみろ!』
古く、付き合いの長い魂の友とも言えるエリクディスが、知のタイタンの呪縛以前に最高の弟子と自慢していた者の成れ果てがこれではヤハルは納得出来なかった。せめて巨大な邪悪の化身であれば良かった。また何か知られざるべき世界の秘密が潜んでいれば良かった。
『うーん、分別?』
シャハズが直接教わったのは当時の、今となっては古代の常識などである。魔法に関しては、精霊術の初歩知識以外は自力で学び、開眼したものばかりだった。精霊術にも応用可能な錬金術はアプサム師を紹介されただけであって直接教わったわけでない。記憶の中から選んで強いて言うならばその分別であった。
『よくも抜け抜けと!』
『えー?』
シャハズはこのような複雑な応答が苦手であった。挑発の心算も無かった。問答無用で一撃入れない分、友好的でもあった。
ヤハルの背後には”火炎舌”のベロちゃんに”金剛体”のゴロくんに”振動剣”のブンちゃんもいた。視線は敵対、惑っている風も無い。手を振ってもこれという反応が無い。
『あっれ?』
珍しくシャハズは困り顔である。冷酷な魔女も可愛い子ちゃん達の豹変は、おそらく術中であろうとも辛かった。
『あいつらおかしい。呪術か何かです』
『うん』
彼等の義兄弟とも言える”風切羽”が言うのならば尚間違いない。
ヤハルの次に四面色眼鏡が胡散臭い、裏切り者筆頭のテレネーが出て来る。裏で操るのが好きそうな人物が身を晒すとは余裕か誠意か。
『降伏するならそれなりに私が保護してあげるけど』
肩を並べて海のタイタンと戦った間柄であった。エリクディスとヒュレメの娘でもある。ただその上から目線で吐き出される言葉はどうも飲み込めない。その態度は決定的ではないが、やはりまだ二人も殺害目標がいるのだ。ややもすれば更に一人。
『うーん……あ、来た!』
シャハズが急に天を仰いだ。
『まさか!?』
驚く者はテレネー。彼女を確実に誅するとすれば”秩序の尖兵”でこの場に足りない”抹殺者”。あの賢しい帝国大学士が驚くとなればそれに驚く者達も天を見上げる。
そして何事も無かった。
その時既にシャハズは複合精霊術にて音と姿を消しながら仲間と共に地中へ潜っていた。
唯一飛び上がった”風切羽”は姉ちゃんなんか嫌い、とまた別の衝撃発言を食らわして”恒風”の判断力を奪い、世界最速の飛行で天国を脱する。
まさかあの魔女がそんな姑息な、と驚いた時には空地の軍は用を為さなくなっていた。
天国の大地に縦穴を掘り、シャハズとチッカに小魔女は術の勢いも借りて墜落するように降る。
直上から迫るように降りて来る影はあるがそれは敵ではなく、”流血”の分身を依り代にした”生命の苗床”の呪術による異形の森の根である。清浄なる天国に一点、特大の穢れを持ち込んでの撤退だ。呪術ランプを掴むチッカが世界樹の下にあった異形の森を想起して念を送り続ける。
この天国襲撃、竈のタイタンの姿を一度も見ず、憂さ晴らしの一撃も入れていないことに多大な悔いが残る。テレネーとドラゴンに、そして戦場に姿を見せぬがダンピールにも裏切りがあるとは想定外だったのだ。
この撤退間際に行った呪術には成果が望めそうであった。シャハズが得ている呪術感ではこれで天国形成の呪術に隙が出来ると思われた。再襲撃の機会を作れるに等しいと思われた。何分良く分からない呪術のことなので全て肌感ではある。
天国の大地は薄いようでいて無限のように厚い。大地の深さは深海より深い。
掘り開けられた横穴より地下戦の長ける”金剛体”が飛び出る。追撃だ。
『縦穴任せた』
『はい!』
熱の精霊術に長ける小魔女、掘った土を残すような掘削ではなく物体を蒸発させての穴開けを開始。身を焼き滅ぼす余熱は全て直下に偏向し更に深く穿孔。立ち昇る岩石蒸気は三人を前に冷え切って落ち、横合いから爆発的に上昇して地面から噴き出る。”金剛体”に続いて現れた地蜘蛛のアラクネ兵達は蒸気で焼き消える。
岩石蒸気を物ともしない”金剛体”はこれでも追って来る。シャハズは可愛いゴロくんを相手に、殺さぬ手加減の精霊術と杖捌きで対応。
『”調伏の回虫”』
と解呪の力を用いても彼へ掛けられた洗脳と思しき術には通用しない。本元をテレネーが宿している限りは通じないのかもしれない。
『出口!』
小魔女の精霊術、天国を貫く。そして寒くて空気の薄い天の底、極限の熱風で穴が開いた雲の中へと三人は落ち、”金剛体”は穴の縁で踏みとどまる。
そして身軽なればもう世界最速で迂回してきた”風切羽”が三人を掴まえて回収、減速する。
追手の気配は無くなり、天国により暗闇に閉ざされた旧地上とでも言うべき、散々に荒れ果てた大地の、岩礁の一つに四人は降り立つ。
チッカが飛んで、頭の上の高さで光の精霊術で照らす。
シャハズは小魔女の頭を撫でた。
『良く出来ました。ノージャという名前をあげます』
『え、はい。あの……異名も貰えると聞いているのですが』
彼女は野人エルフの直系に近しい末裔。伝統は先の世代にて断絶するも、かつては認められた成人の証としての異名がつくと知っていれば欲しくなるもの。他のドラゴン勢の小魔女達が立派な名を貰っていたと聞いていれば尚更である。
『ノージャ。色々と魔法を教えます』
『え!? はい!』
魔女が”弟子”を育成すると宣言した。
■■■
竈神の最終儀式は完了して御柱様はお隠れとなる。今までと違い、万全が期されてその御力は天国に留まり続ける。忌まわしき過去をかつての地上、地下世界に封印し、これからの地上、天国は完璧ではないにしろ幸福に包まれるはずであった。
魔女の森と呼ぼう。あの世界樹の下、陥没して現れた異形の森に似て、それより遥かに怖ろしい呪いが天国に掛けられた。
森は撒かれた水のように広がり、清浄で豊かな大地を蝕んだ。
正体不明の新生の異形生物が溢れる程、枝葉より果実のように生まれ落ちる。それは何かと似ても似つかぬ姿で、多様に過ぎて同一個体が無かった。産まれ落ちては呼吸もままならず即死するような脆弱個体から、まるでドラゴンの再現かと思われるような凶悪な個体に、己の複製個体を出産し続ける当然のようでいて怖ろしい増殖特性を持つ個体までいる。
異形の群れを殺すことはこの新生天国軍ならば然程に苦労はしなかった。魔法も呪術も扱わないのならばその戦い、狩りは一方的。しかし森の拡大と異形の誕生の勢いは無限のように止まらず、狩りだけでは埒が開かない。
森なら焼き払えば、と儀式によりお隠れ後も燻る竈神の火矢をオーガ兵が放ち、ゴーレム軍団が火炎放射器を、まつろわぬ軍勢が火と風の魔法を扱い焼き尽くさんとして一時は成功し、以後中断された。
異形の灰は病毒であった。オーガ兵全てに疱瘡が現れ、それが熟した果実のように割れて全身から血が溢れた。肺病も同時に罹り、肺水腫にて溺れ死ぬ。
火と風の魔法から灰を被らなかったまつろわぬ者達の中からも肺病患う者続出。同じように肺水種で死に至る。
辛うじて軽症で済んだ者達も徐々に腹水が溜まり始め、最後には内臓がとろけて死に至った。
ヤハル法王は得意の竈神の御力を借りる奇跡にて治療を試みるも、陣頭指揮にて己も罹患しており間もなく病死。この奇病には竈神が残した御力での治療は通用しなかった。
呪いの病であろう。呪いとなれば解呪の力を持つテレネーならばと期待されたが、”調伏の回虫”による症状緩和は決定的とならず病状の進行自体は止まらない。
それからその場凌ぎの対策が打たれた。ゴーレム軍団のみによる森の焼却、異形の大量殺戮による抑制。そして大ドラゴン”恒風”による、その名の通りの常に吹き続ける風の術にて灰と煙を寄せ付けぬこと。
一応の光明としては上空から森全体を確認するにあたり、発生地点から円状に森が枯れて荒野を形成していることから、この天国の肥沃な大地の養分を根こそぎ吸い尽くした後は自滅を待つのみということ。
光明の影としては、森の進行を抑制する方角以外は全て荒野と成り果てるだろうと予測されたことだった。
奇跡の男エンリーが持つエーテル結晶指輪、使いどころが検討される。またこれと同等かそれ以上の災厄がある可能性に晒されたままで。
■■■
・魔女の呪病
魔女の森が迫り、旧都を放棄した後のこと。
帝国大学士テレネーの研究によればこの病、呪術と寄生虫を合わせた末怖ろしき複合型と判明する。灰や煙すらも呪いにて媒介物とした。
治療方法は解呪した後に適切な寄生虫治療薬を投与するという手順となる。治療薬は胃や腸に溜まった虫を下すような従来から知られる薬は効果が無い。
現状、蒸し風呂で体力の限界まで身体を熱したり、砒素や水銀などで血を汚染し相討ち覚悟で中毒症状に至るしか希望は無く、それも十分ではない。
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