第5話前編「海のタイタン」
・海
陸地以外の部分で海水に満たされたところ。
この世界と異界とを分け隔てる畏怖すべき非日常。陸上の生物が生きるべき場所ではない。
この大陸は海によって閉鎖されている。海の果ては知られず、海神は決してそこから出さない。そしておそらくは何物も受け入れない。
愚かな海洋冒険家の全ては今、海の底で腐り果て循環し微塵も無い。
■■■
神々の守護領域ですら犯し、破壊する魔女とエンシェントドラゴン等邪教の軍勢。その快進撃も湾の国までとなった。
彼等は船という容易に撃沈されるような不安な木細工は用いず、島や岩礁、浅瀬伝いに土の魔法で壮大な突堤を築いて強引に海から逃れ、海洋宮地上部を目指していた。だが鉄壁で済まぬ、絶海の結界に守られる海神本殿その一角に迫るだけでも無謀であった。
不死宰相エリクディスを継ぐ帝国頭脳の最高峰、帝国大学士に指導、編制された鉄火艦隊は露払いの洋上鉄壁と化した。土のドラゴンによる岩獣の投擲を、海神秘蔵の希少金属を惜しげも無く使った軍艦は受ける。しかし重厚な石と木と土で出来た湾の国の大城壁を砕いた程度では通用しなかった。
宰相最期の兵器であるゴーレムの獣の設計を借りる各軍艦は強固。そして搭載される純オリハルコンの長身大砲は強力。極大の高圧、並の鋼鉄なら破裂する炸薬量に難なく耐え、熱で歪まない。鉄の砲を扱ったことのある砲兵ならば驚く程に狙ったところへ飛び、手入れが要らない。どんな散弾を撃っても砲腔が削れない。
岩獣など相手にならない。土のドラゴンも負傷から戦場から姿を消す。築いた沿岸拠点など着工したところから叩き潰す。海ならず沿岸、大河の通商破壊も行って邪教の軍勢を前線で維持させない。そして津波が土木工事を押し流す。
商神硬貨も消え去り、多くの神官が呪いの病に人事不詳となっていく中、海神の御手を煩わせない僕の鑑である。艦隊所有権は希少金属の提供から、西帝国の崩壊もあって既に海神の手にあった。
西帝国領壊滅はほぼ確定の事実である。唯一壊滅していないと言えるのは山越の国ぐらいだが、かの地はそもそも壊す物が無い。馬の背に統領が乗ればそこが首府である程に粗放。
東帝国、副王国はエンシェントドラゴンの侵攻を受けつつも国土を維持していると、陸路と違い安全な海路から情報が伝わる。そして東の各本殿に副都、旧都が共同し、一大反攻作戦それから一大救世作戦、その双方が講じられているらしい。
これまでは奇襲ということもあったが神々は手を取り合わなかった。これからは違うという希望がある。
まだ希望の段階。商神と手を取り合うはずだったが出来なかった海神の元にいる人々は通常の生活が送れなくなっていた。大陸から海を渡れた難民は数少なく大勢に影響しない。人口流入が原因ではない。
商神硬貨に依存する貨幣経済が崩壊した。各本殿一の盛況を誇った大人口を物々交換で支えるには限界があった。また流通に才ある者は全て怠惰の病にて人事不詳、対処も出来なかった。
海洋宮地上部は流通の拠点ではあるが生産の拠点ではない。海の守りは万全、しかし外からの流入はその守りにより封鎖されている。邪教徒達がどんな手で侵入を図るか知れたものではない。疑わしきは入れず、出さず、孤立した。先の希望の情報とは最後の船が最後の商品と共にもたらしたものだ。
貧窮からの混乱、皆が求めるような救いに海神は応えない。海は危険を冒す者に恵みを与えるが、また一方的に奪うもの。
奇跡は起きた。しかし海洋宮の大半は津波に飲まれ、引き摺り込まれた多くの者達は呪いそして一方的な祝福により新たな、しかし麗しのセイレーンもどきですらない、異形の海産人と化して海中生活を余儀なくされる。命は救われたが陸上生物としての尊厳は全て奪われた。今や地上に出ることはかつての海中へ潜る苦しみが伴う。
ヒューネル、チャルクアム、アジルズ、エンリーの一行はそんな一方的な神の御業が過ぎ去った後の海洋宮地上部に到着したのだった。
一行は少なくとも命の保障がされた住人達を哀れむことはなかった。海面の下は見えない。わずかに見える痕跡では惨劇を部外者に感じさせない。人死には無かった。
彼等の疲れ切った酷い顔は数日休んで治るものではなかった。エンリーは然程ではないが、ヒューネルなど長い間食うや食わずで心身共に削る体験を長く続けており、故郷の知人と再会したならば声を聞かせるまで気付かれぬ程の変貌だった。
そして南の陽と潮風を浴びながら、貴人の接待に相応しい設備が整備された青の海が光る景勝の保養地にて食べ寝放題していれば痩せた身体も肥えて戻る。戻った気力に肌艶、筋肉と脂肪から力強さが生まれる。
十分に休まれば目指すは副王国、アジルズ王太子の故郷。洋上ではほぼ無能の一行が世の為何か出来る足掛かりはそこである。
海神が当面の世話係として付けてくれたのは、湖の国出身の黒い肌のナーガ女。姿は尋常ではなく言わば海蛇のセイレーンで魚の下肢と違い長くしなやかで中折れに立てて陸上を這える。
しかし黒い彼女、下働きなど似合わぬ巫女様である。貴人を歓待するためには相応の立場の者、ということであれば素直に納得出来ようが、別の意図が見えそうだった。
「私は副王殿下の下へ帰らねばならぬのだ……しつこいようだが。行けぬならばその理由と、解決方法を提示して頂きたい。確かに今、商神硬貨の消失から出港税を支払えぬのは確かだが、後払いなり現物払いなり柔軟に対応して下さるはずだ」
「申し訳御座いません。警備上の理由に付きお答え出来ません」
船の手配はつかない。巫女は落ち着いた喋りながらアジルズに対して否応も無い。このような貴人の抗議を愛想笑いで軽く平謝りに受け流せるとしたらやはり立場が必要か。
強引に船を出すことも出来ない。一行は船を所有しておらず、副王国の資産は到着前の津波により海へ接収された後。船を盗み、密出領となれば出港税の代わりに魂が危うい。
説得も望み薄い。あの地上の太陽の出現を思い起こせば当面の理不尽な警戒体制にも理があろう。出る分には良いのではないかと思われるが、仮に敵の諜報員が居たとして、それに同じことは言えまい。
沈黙は金、雄弁を銀としても如何ともし難い。口回りの良さそうな奇跡の男エンリーに任せておきたいところだが、頼むとの視線にゴブリンは首を振り、アジルズにまた胸倉を掴まれた。
「アジルズ様が副王殿下で在らせられるのならばどうにかしてでもお国に戻って貰わなければなりません。しかし貴方は今まで留学の身であり、居なければ困る要職に御座いません。ここで無理を通してご不興を買うことはありません。何か早急に手を打つには時期尚早でございます」
一々道理の正論はエルフの貴人の心を傷つけた。ゴブリンもわざとそう言うのは一々胸倉を掴んで八つ当たりをする者への嫌がらせである。
耳長同士の仲良しを耳短は食わぬ。ヒューネルとチャルクアムは次に備えて岩を剣で叩き潰す近衛オークの修行に励んでいた。
そして帝国大学士様は陽を浴び多色の髪を輝かせ、蠱惑な肢体を仰向けに寝そべりながらくつろいでいた。潜る特別の船は入渠中である。
「サナン、お茶」
「はい」
「サナン、按摩」
「はい」
「サナン、髪梳いて」
「はい」
「サナン、お腹空いた」
「はい」
「サナン、面白い顔」
「うーん……はい」
「可愛いと何しても可愛いとか思っていない」
「いえ、姐様」
学士様は巫女をサナンと気軽に名で呼んでは下女のように面倒を見させて大層優雅であった。青の四面眼鏡を顔に乗せたまま視線もくれずに指示するとは上と下の立場が見えている。
帝国と神殿の役職はこのように上下関係を直接反映させる関係ではない。ならば個人的にそれが有るのだろう。
学士の彼女には誰かと違ってお立場有る要職者なのに大層暇に見えた。仕事は全て部下に割り振って何事もする必要が無い段階に達しているのだ。遠征中の鉄火艦隊などしばらく指令すらまともに受けておらず報告書を上げているだけ。それで健全に回るならば何事もない。
ここは今まで一行が経験した惨劇の地とは無縁の、最後の楽園のようであった。
「お二人ともどうぞ」
稽古上がりに、多少の異形とはいえ黒の美女が手拭いとお湯に果実を絞った飲料を優し気な笑顔で用意までしてくれるのである。
「ヒューネルさんはこっちの酸っぱくないのね」
「あ、どうも」
「いえ」
好みを覚えて気まで利かせてくれる。帝都の失敗が無ければ既に若さ故から転んでいただろう。
しかし座敷牢のようでもあった。海神にとって一行を飾るに何の価値があるだろうか? しかし何物でも奪い、深海に落として腐らせるのがその神性である。
■■■
空に白い太陽が輝く。これが、これの偽物が一瞬でも地上にあったことは理としておかしいと見て分かる。両手両脚を広げ、海面に揺られるヒューネルは学が無くとも確信する。
一行は加護された海で水練を行っていた。海神の法である海中落下物拾得期日制限を気にするまで潜水出来る能力は地上生物に無い。
高貴なるアジルズなどは初めの内は泳げず、耳の穴を水に浸すことを常軌を逸すると表現していたものの、今やチャルクアムに手を引いて貰うこともなく、ヒューネルにどちらが早いかなどと挑戦するに至っている。
太陽の一部を隠す黒い影が見えた。その形、太陽の加減、ついで水の加減で上手くあちらとこちらが見えぬは服を脱いで高飛び込みをする学士様であった。見過ごした、否、見ることは失礼と浮くのを止めて立ち泳ぎの姿勢へヒューネルは移行する。未だ初心である。
水泳時でも四面眼鏡を――紐でわざわざ固定――外さぬ学士様、何やら不敵に微笑みつつ獲物を狙う肉食魚のようにヒューネルの周囲を達者に、海面を掻き回すこともなく泳ぐ。逃げても振り向いても何度も背後を取られては背筋に力が入った。優劣は決まった。
「眼鏡は外されないのですか」
沈黙を破るのは負けであろうか。
「目が悪いのよ」
当たり前のことであるようで、何かが違う。
「ご用は」
「何かしらね」
埒が明かぬ。ヒューネルも鉄の男、明けよと足を掴み引っ繰り返した。が、それは熱帯色の巨大な魚の尾であった。動揺している間に背後を取られ、抱き着かれる感触は柔らかいで済まない。言わば、ふにょんふわん。
「どうして、セイレーン!?」
「人間だったはずなのに何故、と君は気付いてしまったのね」
首を腕で絞められ口に海水が入り、変身の奇跡か何か、とすら言えなかった。
「秘密を知られたからにはただではおかないわ」
鉄の男は海の男ではない。淡水泳には親しみ、海水泳は覚えたて。深く足がつかず、見慣れぬ海の異様な光景の中にて急転直下に増え続ける水圧を目鼻から受けては太い筋肉も無様に足掻いて何も成さない。
ヒューネルの体から学士が離れる。水中なのに哄笑が響く。
必死に水面へ向けて手足を動かし、意趣返しのように足首を掴まれ引っ繰り返され頭が海底を向く。
せめて死に際に一矢報いねばと目標を捉えようにも海中では視点もぼやけ、相手は踊るように素早く、手は伸ばせても踏み込みも効かず距離を縮められない。揺れる尾鰭が憎たらしい。
意識が終わりそうな中、対面に来た学士が眼鏡をずらしてヒューネルを見た。そして途端に海中の視界が明瞭となり、飲み込んでしまったはずの海水から肺が生き返り、咳き込んで空気を吐き出してしまい、楽になってきた。彼女を介す海神の奇跡と理解される。
ヒューネルは海中では喋ろうにも声にならないが、学士は違った。
「私だけ秘密を見せてずるいわね」
腕を大きな乳房で挟めば男の知能指数は奈落に落ちる。これは従うしかないと短期に教育されてしまった。実際に、視界も呼吸も楽にはなったが海中運動がまるで改善されない。
ヒューネルは腕に意識が取られぬようにと、取られて海中都市を眼下に眺めることになった。
海洋宮の海中部。今の更に小さくなった地上部とは比べ物にならぬ広大さを誇る大都市である。住人は魚が人型になったような屈強なサハギンと、新たに海の仲間となったかつての地上の民、海産人が暮らす。
貨幣経済の崩壊の影響は海中にまで達していたようだが、赤珊瑚や真珠、そこまで貴重ではなくても宝貝などの代用物は幾らでもあり既に市場が形成されている。
建物の構造は屋根側に玄関が見られることが地上から見ると珍しいか。後は石造りで変哲も無い。枯れ葉掃除の代わりに壁の付着生物を擦って綺麗にしている。
海産人は老いも若きも、魚類、甲殻類、多少の姿形の違いもあるがそれぞれの日常が新たに作られていた。地上で衰退した分の賑わいが海中へ降りてきている。地上の悲惨を思えばこれも一つの新しい生活の答えなのかと思わされる。
通りがかる美しい――一様に美しいのは神の手によると聞く――セイレーンの姦しい一行がヒューネルを引く学士を見て、姐さん新しい男? と囃し立てて笑う。この海中にて陸の二本脚はヒューネルしかいなかった。恥ずかしいと腕を振りほどこうとすればこう脅される。
「私から離れると呼吸だけじゃなくて水圧や血液中の反応で死ぬわ。あと異物として排除されるか、珍品として攫われちゃう」
言うことを聞くしかなかった。頭上の水面に映る白い太陽は、空の高さに比べれば何程も潜っていないのに遥か遠くにあった。
地上の太陽は恐ろしかったのに水上の太陽は恋しい。浅瀬に属する海中都市を通り過ぎて海溝へと進む。主導権はヒューネルに存在しない。
「暴れちゃ駄目よ」
溝から落ちる深海は暗く、寒く、何がいるか分からず怖ろしい。地上、川や湖に浅瀬でも見ない不気味な姿の海産物が時折、薄っすらと気配を出す。そうかと思えば目前に現れるまで気づけない。
巨大な鱗と爪の手が足に触れた時、ヒューネルは海中に響かぬ悲鳴を上げた。
「あっち行きなさい」
四本腕の巨体のサハギンが興味本位に近づいてきたのだが、それは学士に尾鰭で追い払われる。
剣と鎧無くばただの小さな裸猿は、豊満とはいえ細い女にしがみ付いてしまった。
「あらあら、あら?」
海中に響く衝撃、骨が鳴る。何が起きているか陸の者には分からない。暴れる水流が伝わる。
弱肉強食だけはどこの世界でも変わらない。近く、暗闇の向こう側で巨大な何かと何かが食い合っている。
「うーん、泳ぎ辛い」
するりと学士は腕から抜け、恐怖から足掻くヒューネルの首を背後から絞めて更に潜る。暴れる気力も削げるような沈降速度、旋回運動も加えて疲れさせる。
ヒューネルが生きる気力も失って脱力したところで遂に灯りが見えた。床下に玄関があるようなそこは海中にあるまじき、空気もあって地上の者が暮らせる空間だった。知る家具から見知らぬ家具もあった。あの潜る船の中に似て配管複雑な機械仕掛けの赴きがある。
力尽きたヒューネルは床へ、強い尾撃で海中から投げ出される。そしてその脇を、二本脚の学士が歩いて部屋の奥へと行った。
■■■
ヒューネルは目が覚める。配管と機械的な天井が見えた。
身体は乾いており、潮臭くなく、しかし全裸。
「やっと起きたか」
学士の声ではない。尋常の声ですらない。目覚めの一声は人の喉から出た声ではない。
部屋にいたのは直立する蛸のような、やはり蛸であろうか。地につけば液体のように潰れてしまわない筋はある様子。このような極端な異形、使徒であろう。ヒューネルにはどれ程の立場であるか想像するしかなかったが、少なくとも逆らう気は一瞬で冷める姿だ。
部屋には温かい食事の用意からきちんと折り畳まれた着替えの用意までされていた。学士がやったとは思えなく、であれば蛸の触手による。
「何を見ている、文句があるのか」
「いえ」
「サハギンにやれると思うのか」
「いえ」
海産化した人々も地上では息も出来ぬというから無理だろう。
蛸が単眼鏡を嵌めて近寄り、値踏みするようにヒューネルを見た。粘液塗れではなさそうだが、地上生物と違う肌の大きな塊にヒューネルは恐怖と拒否を覚える。触れてもいないのに肌がざわつき、筋が強張る。
「私をどうされます?」
「祝福されしガイセルの血統、絶やさぬことだ」
「と言いますと」
「当面はセイレーン共の種付けだな。御柱様が決められた」
「は、はあ?」
「何、おかしなのは寄越さん。地上で世話役につけた者を初めにやろう。知らぬ仲であるまい」
「しかし、私は殿下達と副王国に参らねばなりません!」
「海中落下物拾得期日制限は人間にも適応される。生きている者はお前が初めてだがな。くれぐれも! 逃げようなどと思うな。もう御柱様の所有物だ」
口うるさい蛸はそれで用は済んだと床の玄関から暗い海中へ音も無く、飛沫も上げずにぬるりと没していった。
海中に落して日を跨いだ物を拾ってはならないという神の法がある。ヒューネルはそれが適用された。学士におそらく、間違いなく売られたのだ。
欲を使命感が優越する若者は気持ちの整理が付けられない。
腹は減る。蛸の料理は海鮮系で、地上で良く食べた物とほぼ同じ。とりあえず腹が減っては何も出来ぬと食卓を目指そうとしたら部屋の天井板が開いた。
軽やかなほぼ無音の着地と、岩でも落ちてきたような衝撃が一つずつ。
何の断りも無く食事に手を付け始めたのはあの魔女で、岩かと見えたものはあの父の仇に似た有角の鱗男であった。
ヒューネルは使命感が勝っている。魔女に鉄拳を振り下ろせば鱗男に捕まり、背後から抱かれ、座った股の間に収められる。まるで動けない。
ヒューネルは食いしばりから歯ぎしり、言葉にもならぬ唸り声をあげる。血管張り出る身体を捩って拘束を解こうと鼻息を荒くし、顔から赤くなっても何にもならない。魔女に抗う力とは何だったのか。
魔女は無感動にそれを見ながら口を動かし、無言。食べ終わって一言。
「お腹減ってた」
そして床に寝転がった。まるでヒューネルなど相手にもならぬ子犬かと思っているような無防備さ。そして悪魔の言葉を発し、己の腕を枕に寝始めた。
ヒューネルは吠えるが魔法により言葉は音にならない。鱗男は岩と化したように固く動じずどうにもならない。
全裸で無力。泣くしかなかった。この災厄の元凶を前にして手も足も恨み言すら出せないのだ。
見た目だけなら邪気の欠片も無い魔女の寝息、生物の気配が薄い鱗男のわずかな鼻息しか聞こえない深海の部屋の中。いよいよヒューネルも泣き疲れて寝てしまいそうになったところで床の玄関から学士が戻って来た。
二本脚の裸の姿で、手には大きな瓶詰の知的な面持ちの魚人の生首があった。それは目が動き、生きている。
「あら、何時の間に仲良くなったのかしら」
魔女が起き、目を擦りながら卓上へ袋から土を出して撒き、魔法で何やら凹凸を作り出す。そして生首と悪魔の言葉で会話を始め、凹凸を高くしたり低くしたりを始めた。これが邪な企みであることは明らかだが変わらず手も足も出ない。意味も不明。
学士が眼鏡を外して髪飾りのように頭に掛け、前屈みになってヒューネルの目線に顔を合わせ、目と目が合う。その目は妙で瞳孔の中に何か泳いでいるように見えた。
「へえ、魔女に抗う力が欲しいって願ったの。何時のことかな?」
心を見透かされる、とは聞く話である。だがそれは見て来たように暴かれることではない。
「ふーん、前の、時間戻す前ね。義賊から貰ったエーテル貨一枚程度でそんな大層な力が?」
ぺちん、と鳴った。
「あら失礼」
魔女が学士の尻を叩いてあっち向けろと手を振る。繊細な作業中に尻の穴を向けるとは何事か、である。
学士はしゃがんだ。合う目線が上目遣いになる。
「何で裏切ったかって? 地上の太陽。あれを見てそう言えるのは学が無いからよ。あ、何でこんなにぺらぺら喋るかって? 私の目に見えてるでしょ、”調伏の回虫”って言うの。ヒューネルくんのその魔女に抗う力、解呪しちゃった。馬鹿でも予言者めいたことされると困るのよ。きっとね。それから今後は予言出来ると勘違いしたままになるから、きっと、でも良い仲間達だったし、優しくしてくれるわよ。たぶんね」
ヒューネルは吠えて、声にならず。同時に深海まで轟く高低合わさる奇怪な絶叫が響いた。海底も揺れる。
「穴倉覗いたついでに首一つ借りただけでやかましいババアねホント。ヒューネルくんのちんちん一本じゃ足りないって言うのかしら」
学士は下肢を魚に転じながら床の玄関から海中へ没し、鱗男もヒューネルを捕まえたまま同じく飛び込んだ。魔女と生首は作業を続けていた。
■■■
暗い深海が揺れている。海底は地震の様相、海中が大きくうねり、砂に泥が巻き上がって濃霧のようになっている。
「気に食わないから暴れるなんてババアかガキかどっちかにしなさいよね」
海中でヒューネルは無力。学士の呪いでまたも保護され、片足を掴まれてただ引っ張られるだけの無様を晒す。鱗男はどこかへ消えた。
「まあヒューネルくん、良い餌っぷりね」
海の浅いところへと急上昇し、海面に映る白い太陽が見えて来れば状況も見えて来る。サハギンと大烏賊の大群が深い所を埋め尽くしていた。群れを成す小魚のようにあの化物、私掠党がいる。海神の物となったヒューネルを取り返し、魔女と通じる不義を働いた学士を罰しに来たのだ。
また眼鏡を外す学士。
「はい使徒契約解除」
遠目から魚鱗の如きになっていた私掠党が乱れて揉み合いを始め、赤に目を凝らせば青い血がほんの薄っすら混じる。化物は全てただの獰猛な動物の群れに戻ってしまった。
「大漁」
続いて頭上に陰。巨大な船底が幾つも通りかかり、海中に急降下する物体を次々と投下。そして水中で泡と火と波を生じて爆裂。山育ち、海中を高速で引き回されるヒューネルにはほぼ理解不能だったがこれは爆雷攻撃。つまり鉄火艦隊は邪教に乗っ取られていた。
「よっと」
ヒューネル、急に抱きかかえられた。海中でも視界が効く呪いが捉えたのは目前で軌道を歪に反転させる円月輪。その戻る先には三叉戟を片手にする海蛇のセイレーン、サナンである。あの優し気な顔が眉を吊り上げ目を見開いて怒りの形相である。
「姐様、何をしているか分かっているのですね」
「一々そんなこと聞くの?」
サナン、猛進の突撃。学士は避けて、ヒューネルはくるっと回され、元から狂い通しの平衡感覚は消える。手放された。
逃げる学士の周囲を海中であるにもかかわらずマナの緑霧が覆ってその動きを鈍らせた。止めの円月輪が投じられようとした時、ヒューネルに掛った呪いが解かれて溺れた。手から離れても人質であった。
サナンの選択は武器の放棄。それからヒューネルの背後に回って首を絞めるように抱えて溺れて何でも掴みたがる腕を相手にせず、噛まれ髪を引かれる前に素早くその口へ口から空気を入れて気休めとし、急上昇して海面へ。
学士の哄笑、皇太子殿下万歳、と聞こえた。
海面は雨風も無いのに荒れていた。鉄火艦隊が爆雷を落しながら艦隊行動をしている余波もあったが、やはり何より深海で暴れる海神の暴力。駄々を捏ねているのか、あの鱗男と格闘しているのか海の下は知れない。その最中に小舟で漕ぎ出し、洋上で待機していたのは異種の友、仲間達である。
己を失って足掻くヒューネルをサナンがチャルクアムの剛腕に引き渡す。そして頭突きからの腕と胸による胴絞め、海水を無理に吐き出させての男の介抱で救われる。
一行は海洋宮の地上部へ戻る。洋上では何も出来ない。
小舟の行き脚が急に止まり、船首に触手が這ってから蛸の頭が這い上がった。
「それは御柱様の物だ。地上へ戻すことは罷りならん。船に置いていけ」
蛸の姿の陪神学芸員の仕事は海神の蒐集品管理である。その一つ、最後の皇統はそれは貴重品であった。海中の騒動もさて置くぐらい。
「いえお待ちください」
エンリーは頭の中で用意していた海神からヒューネルを正しく取り戻す長い言葉を紡いで祈り、八つの指輪の一つから輝くエーテルが消えた。
「もう、違います」
「小癪なゴブリンめ」
学芸員は己の領分を弁えて海中に没した。
一行は地上へと避難した。
海面の下で何が行われているかは知れない。鉄火艦隊は何処かへ去り、入渠していた潜る船はいつの間にか出港して姿が無い。
海中の大震動が終わってからも状況に変化は無かった。座敷牢のようなところで変わらずサナンに甲斐甲斐しくして貰い、飲み食いして一応の備えとして鍛錬を欠かさない。
変わったことと言えば学士の不在は勿論だが、ヒューネルが海へ入れなくなったことだ。足のつく砂浜の浅瀬ぐらいまでならばいいが、そうでないところだと全身が怖気づいた。海の中にいる得体の知れない何かがまた足に触れると想像すれば陸に逃げたくなる。海は怖ろしい。
しばらく、長く、変化の無い日々が過ぎ、忘れた頃にヒューネルは突然の眩暈に襲われる。
魚人の首と魔女が何かをしていたことを思い出し、それが何だったのか分からず、もう記憶も引き継げないと学士に言われたことを思い出した時には意識が変わっていた。
■■■
・種族創生
セイレーンとアラクネは人間の雄と番わなければ繁殖出来ない特性こそあるもののタイタンの呪術により人間から派生した新種族である。
昨今生まれた名称も決まっていない魚類、甲殻類等の海産人種も海のタイタンが改めた新種である。
人間もまた巨人たるタイタンから派生した小人であり、これも古いがしかし新種である。
森エルフが野人と、砂漠と草原エルフが混じって単なるエルフと呼称されることは新種の誕生に該当しない。
数多の種族が如何なる経緯で誕生したかは知のタイタン亡き今は記録に存在しない。記憶があっても語る口が無ければ無きも同然である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます