第2話後編「知のタイタン」
・エンシェントドラゴン”焚火”
あらゆる魔法を極めたタイタン族ですら恐れたのが七余りの旧神。中でも世界の破滅を予感させた”更新の灼熱”程、未知で恐ろしいものはなく、至上の封印が施された。
『敗北の代償、まつろわぬ対価として、最も火の扱いに長けるあなたに監視して頂きます』
最も賢しいことを自慢にする知の者ですら打つ手無い中の苦渋の策として”焚火”を番人にせざるを得なかった。あれがそもそも火であるかすら分からないまま。
『言いつけ通りに見て来たらね、蓋が錆びて穴空いてたよ』
■■■
半死人による襲撃のある一波を皆殺しにて防いでから少し。知神本殿を守る砦、あの近衛隊が強行軍で駆けつける場所までもう一息の位置にて難民の一行は小休憩を取る。小川の水にて枯れた喉を潤すが、暖はおろかまともに噛める食べ物も無い。
道を知る難民の一人が「あと少しで砦があるぞ!」と明るい声を出す。一時の宿か、ただ通過するだけになるかは不明だが、一口でも食べ物が分け与えられれば幸運だなと、ここ最近の不幸から慎ましやかな夢が見られる。
折りと時間と距離が丁度良いのはここだとシャハズは確信した。
「追跡の確認に行ってくる」
シャハズは無口の彼に行くよ、と手招きして、難民指導者ヒューネルに一応断りを入れる。
これは今まで何度かやってきたこと。半死人は五感が優れているわけではないが、並に知覚出来る程度の痕跡を辿っては常人を求めて疲れ知らずに、不思議に仲間意識を持って下半身が壊れるまで走り続ける。能動的な殿にて一個体であろうとも討伐し、対処し切れなくても別方向に誘導して散らし、追跡群の形成を妨げることが肝要と経験則が語る。
「ならば私も、いくら手練れのお二人では危険が……」
「ダメ」
シャハズは背伸びをして、良い子だから言うこと聞きなさいとヒューネルの頭を撫でた。
「仕事はあっち」
指差し、お前の責務はあっちだと、疲れ果てた難民達を見ろとやる。あれの尻を叩いて歩かせるのは今や彼等の指導者となった若者の役目である。
「旗は頭、尾じゃない」
「それは……御尤も」
一瞬でも時が惜しく、頭領の了解を得たのでシャハズは駆け出す。無口も何も言わずに了解と追従。一行と別れた。
シャハズは難民達の手前封じていた精霊術を使い、足場を形成して高所を取って周囲を確認し”焚火”の軍勢を確認すること。砦への襲撃まであと三日程となれば斥候が近くにいるはずで、光と音の精霊術の組み合わせで広範囲に探りを入れ、発見した。
魔の砂漠での難業を思い出し、薄い金属の掴む翼を作って風に乗せて滑空してそこまで目指す。
突如空からやってきたエルフにリザード兵が戦闘態勢。シャハズは雑兵に目もくれず、木の精霊術で近くの立ち木の一本を急成長させてから焼いて目印にし、精霊術が他所で行われていないか反応を見ながら、音の精霊術にてまた広範囲、しかし軍勢の移動方向に限って『”焚火”どこ?』と問いかける。
外観と術の使い振り、悪魔と語ることが出来る魔法使いのエルフ、我らが知らぬ小魔女か? とリザード兵は対処に困る。敵か味方かまだ分からない。
シャハズの音の探りにてリザードに混じり、人型のものを感知した。そちらへ疾く出向けば困惑気味の森エルフの末裔、想像上の魔女を模倣した怪しげな恰好の野人エルフの小魔女であった。
『何者?』
『あんた達が呼ぶ魔女、ロクサールくんの先生。”焚火”はどっち?』
『魔女様? 確かに同胞のようだけど』
『知のタイタンが英霊召喚を完了するまで時間が無い。早く』
『タイタンを知る?』
シャハズはここに至って問答が面倒臭い。
『”焚火”どっち』
小魔女の目線の動きから方向を特定。極限まで飛ぶよう工夫した鏑矢を精霊術で作り、また同様に術で遥か彼方まで、推定”焚火”の方角へ飛ばした。
鏑矢の響きを頼りに音の精霊術感知の距離を伸ばしに伸ばし、尋常の生物ならざる巨体を察知するに至ってそこまで声を『知のタイタン殺す、すぐ来て』と飛ばす。反応があった。
小魔女とリザード兵に囲まれながら、先ずは無口の到着を待つ。彼は殺さず、盾殴りにリザード兵達をいなしてやって来た。
そして気温の上昇、大気を掻き混ぜる翼、地を揺らす着地。木々より大きな、とろ火に燃える黒炭の身体。エンシェントドラゴン”焚火”である。
『遅い』
シャハズは”焚火”に、話し辛いからこっちに頭を下げろと手招きする。
巨大な頭が下がり、吹いた鼻息がシャハズ周辺の草木を焼いて白煙を上げる。これで焼け死ぬなら話し合う価値もないとの試しである。
『お前があのエルフのシャハズか』
『英霊軍団召喚まで時間がない。指示に従って』
『見てきたように言う』
『見て来た』
『ほう?』
『時の精霊術』
『ほう! 呪われて姿を消している間に習得したか! タイタン共でもまともに扱えるのは数える程しかいなかったぞ。そうかそうか!』
笑う”焚火”の纏う炎が伸びて火の粉を舞わせ、小魔女にリザード兵が焼かれてはたまらぬと逃げ出した。
『そこのダンピールはなんだ?』
『”秩序の尖兵”』
”焚火”は堪らず、首を振り上げて天に炎を吐き出し、正気を取り戻し、いかん、と翼で仰いで散らした。
『”抹消”め、遂にやりおったか! 永く消えておったからそのまま影にでもなったかと思ったわ。そうかそうか!』
シャハズは手を二回叩く。
『時間が無い。この先の砦は無視して前進、真っ直ぐ本殿に突撃して儀式を破壊して英霊軍団召喚を防がないと負ける』
『なるほど、負けたのか。知の者の紙束ならば我が焼けるぞ。お前の置き土産のおかげだな』
『うん?』
『”更新の灼熱”の封印、腐らせただろ。力の一端、借り受けた』
『あれ』
シャハズは覚えがある、と指を一本立てる。金剛石ゴミを投棄しようとした時に腐の精霊術を封印の蓋にかけたのだ。そして長い時を経て穿ったということだ。
『後はどうする?』
『リザードの兵隊は足手纏い、戦後に使って。火のドラゴンも予備。後は”焚火”が私と尖兵と木のあの子を乗せて全速力で本殿突入、初撃が大事。後はタイタンを追い詰めて本性出させる』
『心得た。では乗れ』
”焚火”が広げた手を地面すれすれまで降ろす。シャハズは精霊術で焼けないように冷気を纏わせた鳥の巣もどきを作って乗り、無口も続き、木の小魔女も主に遠慮がちに礼をしてから乗り込んだ。
そして”焚火”は配下にシャハズの助言から導き出した指令を幾つか飛ばして準備完了とする。
『飛ぶのと走るのどっちが早い?』
『愚問、二つを合わせる』
”焚火”は鼻先から尾先まで平行にして翼を広げ、風に乗せるようにして駆け出した。半ば飛びつつ足は大地に木々を蹴って焼いて抉り、姿勢は伸ばした尻尾の曲げで安定させる。巨体を思わせぬ、巨体だからこその凄まじい瞬足を見せた。風切り火の粉が足跡をなぞり降って、巻かれて火災旋風を巻き起こす。
まだ砦に到着していない難民一行が騒ぎ立てるのが聞こえて、直ぐに抜き去った。
砦の灯りが見えて、直ぐに過ぎ去った。近衛隊は勿論、まだ到着していない。
『本当に魔女様なのですか?』
会った時よりも雰囲気が大分しおらしくなった木の小魔女が遠慮がちに声をかける。
『称号はないけど、魔女って呼ばれてるから”魔女”シャハズ』
『魔女のシャハズ様……』
シャハズは木の小魔女に手招きし、頭を撫でた。
『お名前は?』
『野人エルフにはありません』
『野人じゃなくて森エルフ』
『森エルフ』
『名を授ける。”樹林”メセルフィティ。称号は得意の精霊術から、名は森エルフ伝統の名前。私の先祖の一人。木の精霊術を使った姿は前の時間で見た。お上手』
『私に名前……』
才ある同胞には優しいのが森エルフである。ましてや遠い孫弟子である。
ようやくここで強行軍中の、腰みの一丁の近衛隊と遭遇する。心得た”焚火”は足元に火炎を吐き出しながら減速せずに走り抜け、近衛隊のほとんどを焼き轢殺して通り抜ける。一〇〇〇年の伝統も数十年の研鑽も、神代からの怪物の前では意味が無かった。
『ぬ、誰ぞ一太刀入れおったわ』
あの一瞬の殺戮の中で反撃を加えた近衛兵がいたようだ。駆け抜ける火炎の煌めきの中では誰であるかなど確認する暇も無かった。
そして前の時間、難民と鈍行で逃げ込んだ知神本殿へと到着する。
距離はそこそこあった。比較的長距離と言えよう。しかし”焚火”のドラゴンの身体を活かした走り込みは術に頼る瞬足自慢も超えて地上最速を思わせた。
『熱上げる、突っ込むぞ!』
黒炭から赤熱、白熱青炎に加熱した”焚火”は都市城壁より手前から地盤沈下と地震のような踏み込み跳躍、翼も使って高度は可能な限りに低く抑えて速度を殺さず、ほぼ滑り込みの状態から市街地に着地して都市区画を基盤毎幾つも抉って散らして焼いて溶かして土砂溶岩津波に破壊を撒き散らせながら尻尾で次いでに広範に薙ぎ払いつつ、蹴り足を本殿に叩き込んで地上部を崩壊させ、三人を握り込んだ拳を本殿に叩き込み、指を開いて地下部の禁書庫へと送り出した。身体の保護はシャハズが請け負い、問題無い。
地上部は大衝撃と灼熱で準備も吹っ飛び儀式どころではなくなっている。対抗焚書の呪術写本も”更新の灼熱”の力を借りる、都市を舐め尽くし洪水のように都市外縁にも溢れる火炎で灰となり、その呪力が論理を飛躍して同種の原本写本もその場に無くとも同じ運命を辿る。知のタイタンの書庫は灰燼に帰した。
『焚書とは良いものだな! 色々燃やして来たが本より気分の良い物は無い!』
”焚火”が盛大に笑う。余程、一〇〇〇年は優に越える古い鬱憤があったに違いない。
知のタイタンの呪いの力の源は知識である。本殿書庫の消失はかの者にとって大打撃。
それでも滅びぬ呪いに守られし大辞典が瞬間的に用意出来る最大戦力、記録から呼び出された旧ロクサールの機動要塞で対抗する。
残るタイタン達もこの危機に対応し、過大な呪力の消費と対価に大奇跡を連発して機動要塞を軸に反撃を開始した。
■■■
禁書庫迷宮は地上の大戦とは裏腹に静謐そのものであった。対比するなら嵐の海上、静かなる深海。外と内を隔てる呪術で守られている。
迷宮は本棚で脇が埋まっている。蔵書には現代語が無く、悪魔の言葉とされる古代語がわずかにあり、あとは未知の言語ばかりが幾種類もある。
未知の言語はこれまでタイタン達が都合が悪くなったと判断して滅ぼして来たものだろう。旧五大帝国から更に遡って存在した様々な文明の記録がここに死蔵されている。歴史家にとっては不敬に垂涎であろうか。
メセルフィティが興味ありと本に手を伸ばし、シャハズが『ダメ』と手を掴んで止める。
『何の呪いがあるか分からない』
『そうです、ね』
迷宮はシャハズが先頭に立って進み、道の調査から暗記から待ち伏せ警戒からほとんどこなす。
メセルフィティは中間位置で、そわそわしながら歩くだけ。
無口は殿にて後方警戒である。
シャハズは音の精霊術による迷路看破を試みるが反応が悪い。対抗焚書の呪術が掛かった禁書の壁が反響を阻害しているのだ。直線上の突き当り、その脇にある横道、その界隈辺りまでは分かる。
迷宮を彷徨う。メセルフィティは地上の、ここからでは気配も窺えない戦いが気になって何の変哲もない天井を見やる。埃の一つまみでも揺れで落ちて来れば動静程度は掴めるが一切不明。
『敵』
シャハズが止まり、静かなる禁書庫においては場違いな荒い足音が始まる。そして道の角から姿を現したのは全身を紫に塗ったような、記録から作られた限りなく本物に近い偽物、”大”チャルカンの英霊。鉄岩剣を片手に担ぎ、腰みの一丁。その広い背中の陰には巫女が補佐についていた。”焚火”の焼き討ちの体当たり直前に応急対処したものだろう。
『オークさんオークさん、やっほー聞こえるかい?』
「問答無用」
わずかな期待を裏切って現代語を話す”大”チャルカンが剣を大上段に構えて迫る。道幅は狭く、その脇から抜けられるものではない。正面から行けば叩き切られる。並でも強い”秩序の尖兵”と言えどもどうにもならぬ猛者ということは見て分かる。
シャハズが必殺の荒れ狂う複合精霊術をぶつければ、その一過の後に無傷のオークが見えてくる。あの大得物だけ吹き飛ばすわけにいかない様子。
『逃げる』
しかなかった。三人は走り出し『そこ右』『そこ左』と指示を出して適切な退路を選択して迷宮のオークから逃げる。
背後から迫る鉄と肉の塊、強い足音は精神を削る。遠くから術で一方的に攻めれば余裕のメセルフィティも、追われる兎となれば乙女のごときに高い声が口から出る。そうすれば呼吸が乱れ、体力無尽蔵の最強勇士の健足に間もなく捕まる距離に至る。
『足止めの茨枝……あと……歩く木の人も同じ!』
本棚は一般的に木製。長らく材木として死んでいた木が息を吹き返して異常成長し、枝葉を棘にして壁を成し、一部は木材不足からか前の時間のような巨体ではないが、小人程度の樹人が出現する。本が崩れて道を塞ぐ。
「無駄ァ!」
鉄岩剣の一振りが樹人に枝葉を叩き潰し、そこへ分け入る紫粉に守られた肉体は傷一つ付くことなく精霊術によって偽りの存在を消滅させて足を衰えさせない。本は遠慮なく蹴り飛ばされる。
『今の繰り返して』
『はい』
足止めにもならぬ茨枝に樹人が三人の退路を塞ぎ、物ともしない”大”チャルカンが雪崩の本を蹴って突き進む。
『この道なりにずっと術展開』
『はい』
『次、右』
『はい』
シャハズに策があり、成功した。茨枝で視界不良のチャルカン、その障害の先に獲物がいると勘違いして突き進んでしまったのだ。
かの勇士は猪突に見えて頭を働かせる。その働く分を誤魔化したのは、三人の足音を消し、そしてその足音を模倣する音を障害の先で鳴らした結果だ。かつて導いた術で誤らせた。上手に真似が出来たのだ。
進んだオークの背中を見送るように元の道に戻り、三人は退いた道を戻り、息を荒げて「うー、早いよぉ」と情けない声を上げて走り疲れている巫女を発見。
「あ」
問答無用。シャハズが放った矢がその額を突いて割り、射殺した。何もさせなかった。巫女は特に戦上手ではない。生来の気質としてはのんびりなのだろう。
「何処だァ!?」
”大”チャルカンが罠に気付いた。
『走る』
今度は道を戻らずに、奥を目指して逃げつつ進むのだ。
変わらず茨の枝と樹人で道を妨害し、真似音にて行き先を誤魔化して行く。”大”チャルカンを近くに感じることは少なくなったがしかし、諦めのない追跡は続く。
そして「ぬぅ? こっちか、こっちじゃない、こっちか!」と、独り言が聞こえ始め、一挙に距離を詰めて来るようになった。痕跡を探る手立てを見つけたらしい。
足跡か? 床は埃一つ無い。体臭は有り得る。考えられるもう一つは正解の道を戻ることだ。
『殿を、します! さようなら!』
メセルフィティが足を止めた。息も荒く、これ以上走ることも難しかった。
シャハズは見送り、無口は担ごうとした手を寸で引っ込めた。
そして茨の枝どころではない、木の根の渦が小魔女の身体から突き破るように現れて爆発的に膨らんで通路を侵し、潰し始めた。
距離としては近くから発せられた、ウガァ! という雄叫びも遠くに霞む程にそれは分厚く禁書庫内を侵食していった。
意図して精霊憑きとなり、その身を終わらせて災厄とすることにより、個のオーク剣術と祓魔の紫粉では対応出来ない飽和の足止めである。
ただの足止めで終わる可能性はあったが、残った二人は相当な距離を進んだ。
■■■
『待ちなさい、もう少しで出来ます』
シャハズは、あいつが一体何なのか初見では理解が出来なかった。
禁書庫の最奥部、ここもまた本棚に囲まれた図書館のように広い書斎。そこには頭がやや大きく長い型のタイタンが中央にある机に齧りついて必死に、呪術も使わないで墨のにおいまでさせて筆記していたのだ。戦時の光景ではなかった。
『私を殺すのでしょう。書庫は焼かれた、呪術も効かない、格闘も敵わない、本気を出せば”秩序の尖兵”が力を出す。全くこうなったら終わりです』
『ふうん』
シャハズは仕込み杖を手に歩み寄る。するとあの大きな頭の額に脂汗が滲み出る。存外、生物らしかった。
『まだ待ちなさい。この本には今”更新の灼熱”のような真に怖ろしい存在に対処するための知識を記しています。旧神の正体不明加減はシャハズも知っているでしょう。分かっているところだけでも教えます。呪術の写本は死んだら消えてしまう。だから今、消えぬよう実際に書いているんです』
命乞いならぬ知識乞い。知のタイタンとまで呼ばれただけはあったかもしれない。
今まさに、何の罠も無ければ死に瀕しているというのに宿敵は白紙の多い本に向かって筆を走らせ続けている。命のやり取りの最中の出来事としては滑稽であり、火の精霊術で本に点火した時の慌てようは道化芝居の如きで、シャハズがその巨体を足場に蹴って上がりエーテル刃が難なく首を切断した時も、喉と繋がらぬ目と口が忙しく動き回っていた程だった。
シャハズは距離を取り、”秩序の尖兵”は苦しんで跪く。
胴体と首が分かれた知のタイタンはその人型を失い、融けたように崩れながら身を膨張させて本性たる姿を取った。その姿、ぬめり光る皺だらけの頭足類。考える脳であり動く筋肉といった様相。大型でこそあるが、死のタイタンの本性のように動くだけで何物も破壊するような超常の怪物の如きではない。
『何てことを!? 旧神のことも、昔の出来事も言葉も文字も記録も永久に失われるのですよ!』
動く脳みそは戦意の欠片も見せず、異形からも分かる絶望の声で書斎を這いずって逃げ出す。良く知ればこそ己の絶望的な状況が手に取るように分かれば抵抗する気力も湧かぬのだろう。
無限の知識もそれだけでは無に等しく、それを参考に有効な力が整えられてこそ意味を為す乗数となる。暴力と速度の乗数へ対抗するには、今回は足りなかった。知のタイタンはこれを理解している。
危急の事態であればこそ知より蛮が輝く。哀れ討ち死にとなろうとも、理屈もかなぐり捨てて一矢報いれば誉であるとするのは戦士の美学。この戦士ではない、今際のタイタンの考えて逃げる様は非常に知的で心底見苦しかった。
『要点だけでも口頭説明しましょう! 旧神は……』
逃げて時を稼ぎ、言葉を吹き込む努力をする。嫌が応でも知識を伝えたいのだ。そんな最後の希望を消し去るように”秩序の尖兵”が獣のように咆える。倒す方法が他に無いため仕方がないが、わざわざ激痛に苦しむ無口の彼も大義である。
『うるさっ』
シャハズは耳に指先を突っ込んで塞いだ。あらゆる術を使うタイタンを想定した紫粉塗しで。
達した点が高ければ高い程落ちる底は深い。悠久の時を無限のような記憶力で生き抜いて来た知のタイタンがこれから迎える死によって失う知識、情報の量は計り知れず、狂えぬ知性はそれを自覚し、他のタイタンにも理解されぬ程に怖れをなして乙女のような叫び声をあげた。この天地開闢以来最大の勿体の無さを、知に最も献じて神を名乗った者が痛感したのだ。尋常ならば即憤死に達する無念だが、巨体と釣り合う程に頑丈であった。
知のタイタンは出来る限り伝えようと声を上げる。死んでも知識さえ、例え宿敵と言えど遺産として残せたらならば悔いは少ない。知識は共有されればこそ永遠に不死である。耳を防いで口を開けて『あー』と声を出す一見幼稚にして最期の希望を適確に断つシャハズの仕草は完成していた。
結晶化した旧神”秩序の尖兵”が知覚出来ぬ速度で動いて殺した。体当たりによる両断の一撃で、あの最強生物、最高の魔法使いのタイタンの一人が死んでしまった。シャハズの空想上では千切られても悲鳴でも上げながら分裂してしぶとく生き残るような感じであったが、繊細で高度な生物だと言わんばりの一撃死。
あまりに呆気なく、シャハズが『ええ?』と言っている内に役目を負えた”秩序の尖兵”は結晶化を解除し、倒れて全身から血を流してのたうち回り始めた。
無口の彼は成した大業に相応しいはずだが滑稽に対価を味わっている。その出血量、人ではなく馬か駱駝の首でも切った時のような溢れようで、見た目の体内量を越えていた。これはヴァンピールの城で見た合成獣の死に際にも似ている。あの抉り出しても動き続けていた心臓か、それに似た何かが彼の中にあるのかもしれない。種族のこともあり、ヴァシライエと関わりがあるだろう。
このダンピールの男は哀れな生贄なのだろうか? 使命に燃える刺客なのだろうか? 語る口が無い以上、伝わるものは欠片しかない。
『つんつん』
とりあえず杖先で無口を突けば、それどころではないと暴れ回っていた。叫ぶ口があれば喋る口もありそうだったが、意地悪だった。
『うーん』
書斎もを見渡せば棚を埋めていた本はわずかしか残っていなかった。呪術で作られた写本は全て力を失い消滅した。
『焼こっか』
残る原本は簡単に火の精霊術で燃えた。最期の未完の著も完全に灰となる。
あれらの本には何の罠があるかも分からなかった。知のタイタン、記憶を消し植え付けるようなこともする呪術使い。読んだ途端に精神を乗っ取られても不思議ではなかった。己が気を付けて読まなくても、誰か好奇心ある者が手に取ることは考えられる。知らぬ内に知恵者に復活されては対処のしようがない。
『うん』
それに人の苦労の結晶を灰にするのは楽しかった。シャハズの鼻も上機嫌に鳴る。森エルフは口伝こそするが書伝はしない。文化の違いである。
■■■
ヒューネル率いる難民一行は帝都を目指して進んでいた。飢え、眠れず、落伍者は日に日に増えていく。背後に追い縋るのはリザードの軍勢だった。
一行の戦力は乏しかった。戦える戦士は依然として少なく、有志も疲れ果てて雑兵の役目も果たせず、頼りの奇跡を扱う神官達は急に半呆けに記憶を曖昧にして混乱し、発狂者に自殺者まで出る。正気に近い者達は自我を取り戻すまで足手まといとなり、多くを残置せざるを得なかった。
まるで知神の呪いが神官達に降りかかったようだった。特に知神に仕えた神官達は酷く、声をかけても怯えて悲鳴を上げて逃げ出し、発狂しながら失禁するなど完全に手に負えなかった。高い知性の反動が急にやってきたかの惨状。これは後に半呆けから復帰出来た一握りの聡い神官達が話し合って確認したことだが、知神から授けられた多くの知識などがすっぽりと抜け落ちたせいで混乱したものと推定された。所縁の者程症状が酷いのはそういうことだろう。つまり知の神が死の神に続いて御隠れになられたのだ。
”焚火”と見られるエンシェントドラゴンの進撃以来、行く道全てが難民で溢れ返っていた。少し休めるか、食糧が調達出来るかと希望があった知神本殿都市だが、破壊の限りに溶解した後に冷えて一面の結晶体になっていて、何故か一本の大樹が立っていた。そして身体に火を帯びるドラゴンが何かの灰の山を喰らっており、リザードが到達する前から征服がされていた。
本殿都市の周囲も大奇跡の痕跡か、海水に浸され泥沼となっており、何度も巨大な何かに穿り返された跡となって郊外の村落も見当たらない。一行の案内役となった最後の近衛兵チャルクアムが天測にて方角を割り出さなければ何処に進んで良いか分からないほどに荒れ果てていた。道という道は存在せず、まだ余力があった者さえ泥沼に脚を取られて体力を搾り取られて落伍していく。弱い者は見捨てるしかなく、リザード達が弱った者を捕まえては喰らった。落伍者を囮、餌にして難を凌ぐとことすら常態と化す。
死の強行軍の果てに半数と言わず、九割以上の数を減らした難民はようやくまともな道を進んだ。そしてまた新たな難民を加え、少しずつ休んでは食べて、半死人や魔物――妙に多いのは歩く木――に襲われて被害を出しながら撃退し、神官の正気を取り戻したり、介護をしたり見捨てたり、邪教徒へ急に転向した者を処罰したり、様々な出来事を通じてようやく帝都圏内に入る。
「遅れた」
そう言って疲れ果てたヒューネルの前に名射手と唖騎士が長い殿の役目を負えて戻って来た。事の始まりである死神本殿都市から逃げて来た者の生き残りは、酷く厳選されてこの三人だけである。
程無くして、帝都の軍に難民達は保護された。
■■■
・白痴の呪い人
知のタイタンの呪術で記憶を封じられていた。今や彼等は過去を取り戻したが、この日まで生き永らえていた者がどれほどいようか。
・半呆病
罹患者は斑に物を忘れ、その差異に絶望と混乱と誤解を覚え半狂乱に至ることもある。また失われた欠片と形の合う物が真実とは限らない。
・呪術写本
世界中にある知神の書庫、分書庫にそれは、古今東西の全書籍、書類、記録の写しとして存在した。今やそれらは力の喪失により掻き消え、風化に晒される原本のみが残る。しかしそれすらも大半は永久に失われてから時が経つ。かつての利便性から代替品はほぼ無い。
・知識
知識とは想いの集積であり、知のタイタンの力の源であった。書庫で共有され日進月歩に増幅していき、他のタイタンも忘れ去ったような古いものも禁書庫にあった。
・記憶制御
相手の記憶を消し、また逆に植え付ける呪術。奪い、与えたそれら恣意的改変は無に帰した。元より知らぬものを知る術は知る者に尋ねるより他無い。古い事柄は特にそうである。
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