第2話前編「知のタイタン」
・”大”チャルカン
名をチャルカンとするオークは数多く、中で”大”と枕に付くは近衛の初代大将軍。
打ちに打ち、滅多に練り込んだる鉄岩剣に巌の五体、常にして神力宿るが如くの異形なり。
数多の決闘、戦に勝っては負けては死なずに幾度もやり返し、最後に立つのは大英雄。
最後の蛮族野人王、百日決闘にて大なる者と相に討ち、死して膝も折れぬ男と謳うなり。
一三番目が如くの大先祖、祀るは数多の小さき大将軍。死んでも折れぬ覚悟はいずる前より決まっていた。
■■■
「これ」
「それは……」
ヒューネルは野人エルフの名射手に本の読み方を教えていた。教えているのだが、これ、これと指差す速度も項を捲る速度も目が回るように早く、あっと言う間にこれ、と尋ねる回数も減り、数冊を速読した頃には文盲を卒業し、”先生”は用無しになった。まるで知神の加護でもあるかのような英才振りであった。
エルフが読む奇跡写本は、知神の分書庫より一冊貰い受ける度に一二の神税として商神銀貨二枚を捧げなければならない。知識の結晶の一つを手にする価格としては正に破格。
知神の御業の一つ、写本。本殿書庫に納本された書籍は全て他の神殿の分書庫にて写本という形で閲覧が可能で、尚且つ一二戒にて納本が義務化されているので事実上、世に刊行された本全てが揃っている。これを利用し手紙や書類のやり取りに閲覧制限を設ければ郵便業務も兼ねてしまう。そのお代、帝国の端から端であろうと同じ銀二枚。知識と情報の共有と流通はこの偉大なる御業に支えられており、官民にとりなくてはならない存在である。
脅威が迫っている、と郵便によって世界に知らされている。各地の分書庫を狙いに焼き、遂には知神の本殿書庫を焼き尽くさんと侵略するエンシェントドラゴン”焚火”の軍勢である。文化文明に仇成す存在、歩く焚書、破壊と混沌の化身である。神々への反逆など愚かしくも忌々しく、邪悪に満ちて許されない。魔王ロクサール討伐に”新星”以外のエンシェントドラゴンの名が無いことの説明がついたようだ。
死神本殿から始まり、半死人と魔物から難民を守る一行の逃避行は一旦、知神本殿の一角を守る砦の一つにて停止した。束の間の休息であったが別の脅威である”焚火”からまた逃げなくてはならなくなった。
本殿脱出時にいた勇士達は指折り数える程に減ってしまった。元は戦士ではない有志が立ち上がって戦列に加わったものの、訓練間もなく実戦にて志の高さを幾つも圧し折られ、厳選された。
戦う術を知らぬ人々は半死人と魔物の襲撃で減り、また道中で増えた。飢えや長旅で力尽きる者も多く、体力の無い者は追随出来ず、無念に見捨てるしかなかった。
あわや壊滅という危機は何度かあったが、言葉を発さぬ唖の騎士が道中で加わってからは最悪の危機だけは免れ続けた。
魔物の脅威は魔王の反乱以来のことで、ある種の日常でもあったが、半死人達の凶行は帝国秩序を揺るがし始めていた。なんと死神に所縁ある神官や半神英雄達が全て半死となり、理性を失っては人々を襲っているという。食われて死ねば不幸中の幸い、下手に手傷を負わされたまま生き残れば半死の伝染病に冒されてしまう。
各地で死ねずに働かされていた白骨奴隷は全て動きを止めた。死神の奇跡を起こすことは敬虔なる者達の祈りによっても叶わなくなっていた。半死人の跋扈と合わせ、御柱が一つ御隠れになられたことが自ずと世間で確信された。法神のように代理を立てることも叶わずに、である。
今や年長者に実力者、尽く斃れ、若いにも拘わらず難民の旗振り役となったヒューネルが先頭に立ってこの砦を去り、更に逃げようと声を掛けて回ることになる。疲れ果て、もうここで死ぬと言って聞かぬ者までは連れて行けないが、まだ足が動く者だけは連れて行く。一行は数を減らし、別経路で砦に逃れて来た難民が更に加わってまた顔ぶれが変わる。
逃道に先行して探りに行っていた斥候が戻って来た。
「包囲されている!」
この砦に通じる道、道無き道より逃れて来た難民が告げた。蜥蜴の軍団、リザード兵に追い立てられて来たと。
リザードは南方群島に住まう”焚火”の僕達。目先の目的は明確、砦落とし。
砦だけが目的か? 難民は背中を斬られ、そして殺された者は無残にも貪り食われたという。彼等にとり一行は食肉なのだ。
一行と砦の守備隊、知神の神官達は対抗手段を講じる。砦の守りを固め、扉を固く閉ざし、城壁の上に石を積み上げる。浴びせかけのために糞尿まで穴にではなく桶などに溜められる。郵便によって援軍も要請される。
リザード兵が砦を取り囲みに姿を見せたのは守りを固めてから一日も経たなかった。攻城兵器の類は見えず、囲んでから幾日後に準備を終えて突撃してくるかと睨み合いが始まる。
そして緊張と不安から、誰が裏切者かと難民の間で騒動が始まる。魔王の僕、魔女の信仰者、つまり邪教徒は信心が違い、姿は同じ。特に最後まで帝国に逆らい、魔女の信仰者が多いとされる野人エルフに、悪魔の言葉しか喋れぬのではないかと唖騎士に疑いが掛かっては磔刑にせよとまで一部が騒ぐに至る。ヒューネルは口が達者ではなかったので、統率のためにと騒ぐ者を片っ端から「うるせぇ黙れ!」と殴り倒して場を収めた。鉄の国では一般的な討論法である。
包囲は続き、神官が「朗報……!」と叫んだ朝、その続きを口にする気力が即座に奪われた。
蜥蜴のリザード兵の中から一人だけ、尖った耳が目立つ人型、野人エルフと分かる女が現れたのだ。服装装飾から既に雰囲気がある。魔女を良く信仰し、かの姿を模倣しているような邪教の佇まいは小魔女。そして手を広げ、悪魔の声を響かせれば砦の城壁周辺から芽が息吹き出した。その伸びは早く、長く太くなっては枝分かれしてねじくれ出し、禍々しくもその魔の林は天へ伸びず、横へ向かって城壁へ到達して枝を広げて足場を作り、橋が架かった。リザード兵の突撃が始まる。
神官達は祓魔のマナ術にてこれ以上城壁が木の魔法に侵食されまいと抗って足場を崩す。そして、当文書庫の神官長が知神に祈り、リザード兵に白痴の呪いをかけては狂わせ、そして理性を取り戻したかと思えば改心させて同士討ちを始めさせる。
砦は砦、都市などではなく人も少ない。常駐の神官も数少ない。難民一行に混じる神官達もマナ術や各神に敵を呪って下さいと祈るも、多勢に無勢の感があり、それだけでは防げない。
城壁に積んだ石は投げ落としのためにあったが橋の前は意味をなさず、訓練された強肩が投じなければ頑強な上に武装するリザード兵には嫌がらせ以上の効果は珍しかった。
弓が使える者はリザード兵に矢を掛けるも、並の矢では防具に鱗も通せない。逆に射られれば鎧も貫かれる。名射手の強弓が目立って敵を射殺し、一射二殺も珍しくない。
消える木の足場の全ては消せず、わずかに消しただけでは飛び移れる距離のまま。リザード兵が射撃と呪いを掻い潜って城壁上に到達し、重武装の勇士が先頭に立って撃ちかかり、一対一ならば互角に戦い、一勝一敗相討ちを繰り返す。唖騎士の奮戦は目覚ましく、名乗りを挙げるリザードの勇士の首を獲り、一時攻勢を退けた。
しかし訓練された正規軍と寄せ集めの雑兵の違いは明確。リザード軍団は未だに精鋭を多く抱えており、砦の難民達に次は無かった。特に小魔女、余裕の笑みすら浮かべている様子。
第一次攻勢は凌いだ。しかし包囲側には余裕が見られる。神官達が城壁の上から遠い敵を呪ってみるものの上手くいかなかった。邪教徒達には呪いが効き辛いと言われる。単純に距離が空き、相手の顔が見えないと更に効き辛いとも。距離を取られた今ならば、特別に祝福されたような者の呪いでなければ通用しないように見えた。
第二次攻撃に備える。マナ術で伸びた木の橋を消し、負傷者を神官が治療し、死者を埋葬。敵と地面に突き刺さった矢を回収。
「朗報……!」
戦闘で衰えていた思考を取り戻した神官がまた叫んだ。
戦鼓が鳴って、角笛が吹き、地鳴り。
包囲を形成するリザード兵の一隊が壊走を始め、砦の存在も無視して城壁の真下すら通って逃げ始める。
ガァ、と群れが吼えた。
腰みの一丁、血と汗に濡れた肉躍らせるオークの一隊が大地を蹴飛ばし、大得物を振りかざしてリザード兵の骨肉叩き潰して現れた。
「援軍です! しかし、もう!?」
鎧を捨てた強行軍で駆けつけたのは唯一世界帝国近衛隊。皇帝陛下直属、勇士の中の勇士。武勇誉れは天下一。
■■■
「見事である!」
そう太い声でヒューネルを褒めたのは近衛隊隊長にして大将軍、偉大なる先祖を称え、敢えて”小”を名の枕とする小チャルカンである。
「私はそのような……」
「謙遜するでないわ。難民を率い、分裂も拳骨で防いだと聞いたぞ。若くとも鉄の男よな」
「は」
砦の攻防戦は一旦休止となっている。近衛隊の突撃によりリザード兵達は瞬く間に死骸へと変わって壊走。小魔女も逃げた。
「引き続き難民を率いる務め、受けて貰いたい。我々はここで”焚火”の攻撃を食い止めねばならん」
「承りました」
「褒美などくれてやれるだけくれてやりたいが手持ちがこの通りでな、ガハハハ!」
小チャルカン、鉄岩剣でドンと地面を打ってから腰みのを手の平でバンと叩く。手持ちは以上でどちらを拝借しても使い切れぬ。
「案内をつけよう。うむ……チャルクアム!」
「はい」
大将軍と比べてややこしい名の響きのオークが一歩前に出る。並みの同種より幾分細身に見えるのは背丈があり、手長の異形であるからだ。編んだ長髪には骨の髪留めがある。
「これは山越の男で目端が良く利く……お前は難民達を知神様の本殿まで連れて行け。そこからまた何処かへ行かねばならぬとなったらそこでお知恵を拝借するのだ」
「了解」
山越の国は鉄の国より北、巨大な横断山脈を越えた先にある。森と雪が深く、ゴブリンや魔物がうろついている辺境中の辺境。鉄が尚武を育てるのならば山越は生存の気質を育てると言われる。その山越オークはヒューネルの目からも大層に頼もしく見えた。
「これで憂い無し……休んでから行けと言いたいが敵も準備を疾く整えて来ることだろう。ヒューネル殿よ、民を頼んだぞ」
「は……一つ、出発前に近衛の大将軍と見込んでお聞きしたいことがあります」
「遠慮なく申せ」
ヒューネルは形見に使っていた、紋章こそ無いが拵えの良い剣と盾、そして遺髪の束を差し出して見せた。
「これは母君が鉄の国出身、皇帝陛下を父と呼ぶ、全身の骨が折れても闘志が折れぬ猛き貴婦人の物です。死神様に皇帝陛下の蘇りを祈願した方でした。その名を御存じではないでしょうか」
小チャルカンが大きく頷く。
「それは間違いなく鉄宮のクエネラ殿下であられる。そうか……志を遂げられたことは分かっていたが」
「はい。殿下には技を教えて頂きました。共に冥府の競争で一着を取りました」
「であるか。難民を送る任が終わったら直接帝都に赴き、陛下に殿下の為した物語を伝えてくれまいか。大層可愛がられておいででな」
「必ずや」
「うむ。では……焦げ臭いな」
小チャルカンが太い鼻を動かす。近衛の斥候が駆け込んで来た。
「閣下。木の魔法を操る小魔女に、火のドラゴンです。歩く木の魔物、樹人も引き連れております」
「相手に不足無し、行くぞ!」
ガァ、と吼えた近衛隊が砦から出陣。魔法から彼等を守るために神官達も続いた。
ヒューネルも難民達に声をかけ、チャルクアムの先導で戦場から逃げる。ここでも動けぬ者は置いて行くことになった。生きるとは選別されることである。
■■■
チャルクアム先導、待ち伏せが無いか確認しつつ、安全に知神本殿都市に到着した。大都市故蓄えがあり、一行は久々に暖かい量のある食事に相伴することが叶った。逃避行ではじっくりと焚く余裕も無く、生の飯に腹を下して倒れる者も珍しくなかった。そして高い城壁の内側で暖を取れる喜びもあるがやはり、長い道中にて見捨てて来た者達に後ろ髪を引かれて素直に笑うことは難しい。
知神の神官達が非常に大きな、本殿より人がはみ出す程の儀式を執り行っている。本殿書庫より歴史と記録、信憑性怪しき伝記まで含んだ奇跡写本が持ち出され、神官達が英霊召喚の奇跡に必要な情報へと整理編纂して書類に纏め、儀式中央に鎮座して身を開く巨大な本の姿、陪神大辞典へ捧げられ、読み込まれる。また世界中の分書庫より、別途割り当てられて作られた同様の書類が奇跡郵便にて写しとして届けられ、それも捧げられる。更に奇跡を助ける対価としても商神硬貨が届けられるが目標に届く枚数に至らない。こういう時は奇跡の写しとしての為替証券が届き、効力を発揮。ここに帝国の知力と財力が結集しつつある。
書類が一定数に達し、受肉に値する程の情報となった時に英霊召喚が発動。開かれた大辞典より、過去に存在した軍の一隊が姿を現し、列を成して都市郊外へと整列を始めていた。一行が到着した時には姿形も無く、食事にありついた時には一〇〇余りの一隊がようやく姿を見せた状態。そして知神の巫女が「皆さん、ご安心下さい。これより当殿は千年帝国史に刻まれし百万の軍勢を召喚してみましょう」と自信充分に言った時には一〇〇〇余りの一隊が現れていた。暴力すらも結集しようとしていた。
儀式の段取りは順調だったがしかし、横槍が入る。不埒なまつろわぬ者はどこにでも潜んでいるかのようだった。
夜陰に乗じ、難民や住民に紛れ込む邪教徒達が突如松明を持って本殿へと走り、儀式に積まれた本や書類の山へ火を放とうとしたのだ。しかしそれら全てには対抗焚書の加護があり、全く焦げもしない。油を掛ける、燃えやすいように火先に一枚を晒しても無駄。裂けばと引き千切ろうとしても奇跡写本は柔らかく引っ張りへの強さを誇示するだけで皺にすらならなかった。
そして神官達へ邪教徒から直接の凶行が及ぶ前に白痴の呪いが掛けられ、理性を失い発狂したかと思えば途端に正気に戻って正義を獲得し、まだ潜伏している元同胞達を検挙する手伝いを始めるのであった。敵をも味方に転ずる奇跡。これ程に戦力差を引っ繰り返すような御業は他に無いだろう。
まだまだ潜んでいた者達が次々に名指し、指差しにて邪教の徒であると発覚していく。
野人エルフの名射手、言葉を発さぬ唖騎士であるが、当然だが邪教の徒であると指摘されなかった。しかし戦友二人に疑いが掛からぬかと心配したヒューネルはため息をつき、そして二人には「私は、もしかしたらあなた方二人が実は邪教徒なのではないかと実は疑ってしまっていたのです。今、心から謝罪します」と跪いて許しを請う。
「ふうん」
名射手は気にしていないように鼻を鳴らして応える。唖騎士は変わらず、瞑想でもしているかの様子。
これら騒動の中でまた一つ動きがあった。
突如跳躍に駆け出したチャルクアムが長い腕で、寸で儀式の最中にあった巫女を押し飛ばして難から救ったのだ。突然のことで何が起きたか認識した時には既に、山越オークの前腕に噛み付いたリザードの暗殺者が、巫女が居た場所に短剣を突き立てるように着地していた。
邪教徒は陽動。奇襲の目論見は山越の目端が利き失敗。
チャルクアムの鉄拳が暗殺者の頭を一撃で目玉が飛び出る程に変形させ、鉄足が腰を砕いて裏から腹にめり込み下血を強制する。ままならぬ体勢からの拳足での破壊、近衛の名は伊達ではない。
「腕を!」
咄嗟の判断であった。チャルクアムが正しく理解して折れた歯が残る腕を伸ばし、ヒューネルがリザードの毒が回る前に一刀で肩下から切断した。一瞬の出来事だが肘下では危うい可能性があった。肩上ではどちらにせよ助からない。
「お怪我は、あっ……!」
「巫女様をお助け出来たのならば安いものだ」
腕を落されても苦悶の表情すら一切見せぬ鉄拳オークの声は平静そのもの。強さと胆力、献身からの犠牲。見て分かる凄み、性も種も越えて惚れるに十分であった。理知の筆頭である知神の巫女すら一瞬乙女の視線で見上げ、頭を振らねば平静を取り戻せぬ程。
溢れる腕の断面からのおびただしい出血はヒューネルがマナの黒石で応急止血した後、難民の医者が処置し、少ししてから連れて来られた竈神の神官が奇跡にて治療を施した。その対価は数種類の愛により賄われ、腕は元通りとなる。
「ヒューネル殿、咄嗟の機転、お見事である。救命の御恩、何れ必ず返させて頂く」
「チャルクアム殿と同じ、当然のことをしたまでです」
「……そうだな」
チャルクアムは顎先を親指で掻き始めた。
大辞典より一万の一軍が出征するまでになった。それも錬金術による火器装備の軍。旧型であっても帝国秘中の秘である兵器の登場に、住民も難民も沸き上がる。
一万が門を出る代わりに、数人が本殿都市の門を潜る。砦の守備隊の生き残り、若者だけである。
「近衛隊玉砕! しかし小チャルカン閣下、火のドラゴン討ち取った! 焼けても倒れぬ死に立ちでした!」
チャルクアム、腕の一本は惜しくは無いが半生と半身を失い、しかし一矢報いたとなれば心が汗を流す。
「お見事でした」
「そうだな」
俯きはせずとも歯を食い縛る。
そして感傷する暇も無く都市の警鐘が鳴る。都市の敵対正面、大山火事で夜空が赤く照らされていた。
その山火事、森が無かったところにまで広がり、燎原ではない。歩く木の魔物が焼けるままに列を組んで進んできているのだ。恐るべき、文明を飲み込まんとする焼き討ちの樹人である。焼け落ちず、油でも含ませたように火を盛らせ続けて無限に火の粉を吐き続ける。尋常ではない。
あれは並の軍隊では歯が立たない。しかし絶望するには早い。
「近衛の方々はこの一時を稼がれたと思います」
「そうだな」
近衛隊の玉砕、火のドラゴン討伐、わずかに稼いだ時間は報われた。
大辞典より一〇万の大軍が吐き出された。膨大な隊列は幅が広く密で途切れない。ありとあらゆる種族で構成され、刀槍弓兵に留まらず砲兵から術兵から神官兵、並の牛馬から特別な神性の動物まで含まれる。
本殿都市郊外に揃ったのは大軍も大軍、英霊達による誇張も無く軍勢百万へ届こうとしている。
今現在の到達”点”にある”焚火”の軍勢、いかにも強大である。それに対するは帝国千年史”幅”はそれを凌駕する。ある一時点では劣るやもしれぬが、薄紙も重ねれば層となる。鉄の針であろうとも厚い辞典で殴れば折れ曲がれよう。
焼き討ちの樹人と英霊百万軍が郊外で激突を始めた。生前のような怖れも一切なく、火中に飛び込んでは樹人に撃ちかかり、マナ術に良く守られながら何れ燃え尽きる。そうして肉の壁となっている間に後方から砲弾が飛んで薙ぎ倒す。攻撃のマナ術が破壊する。
大軍を制するのはより多勢の大軍。大辞典は軍勢を止めどなく送り続けて湯水のように補充し、大山火事を消火しつつあった。
焼き討ちの樹人が遂に数を減らし、面の勢いから線となり、点々となって事態が変わる。今度は倒れた樹人に代わり、森が津波となって押し寄せて大軍を飲み込んで潰して絡めて閉じ込め始めたのだ。このような途轍もない規模の魔法となれば、あの木の小魔女が悪魔憑きとなって暴走しているに違いが無かった。既に大辞典は軍を送ることを止めていた。
ヒューネルは、少しでもまた人々を逃がすために殿部隊を編制しようと有志を集めるために市街を回って声を掛けていたが、巨大な足音で止めてしまった。並の大音一つで止まるような肝の小さな男ではない。
それは見上げる程、本殿都市に屋根が掛かったかのような巨体。八本足の、生物ではない無機物で構成された何かだった。一歩進む事に都市区画毎陥没させて粉塵、瓦礫を巻き上げる足が八本。そしてこれは敵ではなく、敵に向かってその巨体を思わせぬ俊敏さで飛び跳ねて着地、震える大地の様は大地震の突き上げ。英霊軍団を巻き添えにしながら森の津波を文字通り蹴散らして踏み荒らし、遂には津波が止まり、残骸さえも悪魔の力が尽きたと萎れて消え始めた。間違いなく木の小魔女を轢殺した証である。
突然の大衝突。大辞典があの巨大な八本足の決戦兵器を召喚したのであった。
夜明けが遂に訪れた、と時間の感覚を失った者が勘違いをした。空を赤どころか地平線際まで青白く染めていた。
現れたのは、燃え盛り尽きぬ巨体のエンシェントドラゴン”焚火”である。遂に敵の首領が現れた。その首を取って決着をつける時だと危機の中に希望を抱くことは不可能な存在感だった。
伝承では”焚火”は黒い炭の身体に火が揺らめいて火の粉を吐き出している姿と言われるが、今見せているのは眩いばかりに身体を白熱に輝かせ、青い炎を纏い、地面を高熱に液状化、泡を立てて沸騰させるに至り、それでは歩けぬと低空を羽ばたいて進んできている。郊外に展開した大軍の残りは全て灰に、融けて、蒸発。
存在そのものが大破壊。熱波が都市に及び、神官の多くがマナ術と、竈神の奇跡の組み合わせによる防壁を展開して難を凌いだが、間に合わなければ皆、炙り焼きとなっていた。
天神の奇跡による大雨と”焚火”に対する強い向かい風が到来し、熱を下げるも窮状は変わらない。
海神の奇跡によって、海水が地面から噴き出して地面を浸して液状化を防ぐに至って熱が大きく下がる。
その間にも八本足は兵器を稼働させた。砲弾、雷、爆裂する大矢、冷凍波、怪音波、届く届かぬに拘わらず少しでも足止めしようと大火力を展開。
大奇跡の連発。足りぬ対価は商神が奇跡で世界中から手形を集めて対応し、世界財政を盛大に傾かせる。
大赤字と引き換えに大地が反撃にと拳を振り上げ、海水の中から”焚火”を殴った。地神の奇跡である。殴って殴り、遂には灼熱に溶かされながらも掴んで捕らえ、そこから一挙に繁茂した。豊神の奇跡により、侵略的で自然界に存在しない寄生植物が焼けながらも焚火に突き刺さり、侵食して食い荒らしているのだ。
熱された奇跡の海水が満ちる海原に対し、岸壁と化した城壁には無数の軍船が用意された。匠神の奇跡である。そこへ大辞典が送り出したのは帝国史に残る精鋭中の精鋭、歴代近衛隊である。それを指揮するのは勿論、初代大将軍”大”チャルカン。各軍船には船頭として戦神の配下、使徒戦乙女達が降り立って乗船。美しく勇ましい姿で旗の付いた槍を振って歴代近衛隊を鼓舞して吼えさせる。そして神官達と巫女が疲弊した姿で、最後の力を振り絞って失神、死に倒れながら彼等に祓魔のマナ術、紫粉にて戦化粧とし”焚火”の灼熱に少しでも抗えるようにした。
軍船へ乗船する最後の一隊で持って大辞典ですら正面に身を開いたまま、項を曲げて倒れ込んだ。最後の一隊とは、少し前まであの砦で殿を務めていた小チャルカンの近衛隊である。それを見て駆け出そうとした最後の近衛兵の腰にヒューネルが組み付いた。
「行ってはいけない!」
「俺も死ぬんだ」
人間にしては大柄なヒューネルでも、オークの中でも大柄なチャルクアムには引き摺られる。
「彼等は死んで、あの方々は奇跡の召喚、本物ではない! 今滅びてもまた召喚出来るんだ!」
「知るものか!」
魂が引かれているチャルクアムは曖昧である。元より正気よりも狂気を重んじた近衛隊の一人ならば理性は軽い。
「絶対に行かせないぞ!」
「やだ!」
ヒューネルの行動に気付いた有志達が数珠に繋がり始めた。十人で引いてようやく止まり、唖騎士が首根に取りつきようやく地面に這わせてようやく封じる。
軍船が角笛を合図に、各近衛隊が競争とばかり太鼓を叩き、櫂を漕いで出港してしまった。死してもまた作り出され、本物同然の偽物である彼等は細かいことは気にせず、また戦って死ねると大笑いである。
最後の近衛兵のチャルクアム、今度は子供のように泣き出した。
大奇跡の連発で遂に”焚火”は白熱青炎から赤熱橙炎まで冷えた。
その時にはもう八本足は蝋燭の末路のようになり、軍船が発火しながら”焚火”に取りつき、近衛隊が大得物にて、しかし鉱山でも掘っているかに削り始める。武勇に対して相手は実際的に大きかった。
飛んで火にいる虫の如きに史上の近衛の英霊達が焼けていく。それ行けと鼓舞する戦乙女も倒れていく。しかしその数塵も積もって”焚火”を削る。
身を削られ、益々弱って炙りの炭火の如きにまで鎮火した”焚火”は脆くなり、遂には首元に駆け上がった大チャルカンと小チャルカンが、両側から大笑いに鉄岩剣を振りに振って、その大首を落した時には互いに剣戟するに至った。同士討ちではない、腕比べである。
”焚火”は討った。残ったわずかな偽の生き残りは削った首の上、肩を闘技場に見立て、召喚の短い寿命が消えるまで互いに撃ち合い続けては死に、偽りの寿命を迎えて消えていく。
近衛隊は完全実力主義。世襲ではないものの、息子に継がせようと努力が重ねられた結果世襲の気が強い。この世ではあり得なかった先祖と子孫の腕比べが叶って盛況であった。先の者と後の者、どの世代が最強かと問われれば己が代だと斬り合うのだ。
ヒューネルは遠くからだがその決闘の数々を見て己の剣の振り様を正した。泣き止んだチャルクアムはそれに付き合った。
■■■
”焚火”討伐の一件は一夜に全土を巡り、他エンシェントドラゴンから反逆は誓ってしないとの言質も取られて広報される。古く誇り高い彼等からその言葉を引き出すということがどれ程のことであるかは知る人ぞ知る。
”焚火”の残党、伝染する半死人の討伐は人への被害を最小限とするため、基本的には奇跡召喚の軍が対処することになり、希望が見えた。赤字財政はしばし続く。
戦いの処理の一段落した後、ヒューネルは畏れ多くも皇帝陛下へ奇跡郵便を用いて手紙を送った。鉄宮のクエネラ殿下との競争と蘇りの一件についてである。そして返事は直ぐに来た。”来い”の一言であり、お人柄が窺えた。鉄の国の気性と合うようである。
小チャルカンを始めとする近衛隊の玉砕報を奇跡郵便で送ったチャルクアムは、この一戦で荒れた知神本殿都市には負担となる難民を率い、少しずつ道中の都市に人を預けながら最終的に帝都、最も豊かで人を養える都市に向かうことに巫女の助言を借りて決めた。難民を助ける任務はまだ途中なのだ。
帝都への道中は、辺境から外れつつあるせいか半死人と魔物の襲撃はほとんどなかった。野犬の群れがいて、人の多さに遠巻きにしていた程度で、チャルクアムが、ガァ、と吼えれば直ぐに散った。
朗報があった。”焚火”の残党討伐にて、後継たる”焚火”の娘を処刑したというものである。二度とあの惨劇が無いようにとされたのだ。それから、神々の怒りを考えれば単なる処刑とは慈悲が深く、その後継の娘には反逆の気が無かったのでは、という噂もあった。だが首領とは飾りでも力を発揮するもの。ただの棒と布切れである旗に宿るものを考えればその処置は当然である。
そしてある日、難民の野営にて、名射手に手招きでヒューネルは呼ばれる。奇跡写本を道中読みふけっていた彼女なので、読みが分からない珍しい言葉でも見つけたのかと思い、何の気は無しに近寄れば肩を叩かれた。
「どうしました?」
眩暈がした。
■■■
・一二戒と一二税
唯一世界帝国法の上位に位置する一二の神々が定めた戒めと税金であり、法神が律する。
税金の支払いは一律商神銀貨二枚となっており、簡易祈祷で行う。支払いの代行、代替、猶予、控除、免除などは各地域の伝統に従って行政が補助して簡略に努められ、試練のような困難は普通、伴わない。
豊・種蒔き初日に若い娘を生贄に捧げなければならない:収穫税
法・まつろわぬ者に与してはならない:裁判税
人・唯一世界帝国法を遵守しなければならない:人頭税
竃・結婚契約を破棄してはならない:結婚税
海・海中に落して日を跨いだ物を拾ってはならない:出港税
地・悪戯に深い穴を掘ってはならない:採掘税
死・税を払わず埋葬してはならない:埋葬税
戦・正当な仲介無き戦争をしてはならない:屠殺税
天・資格無き者が空を飛んではならない:歳末税
知・刊行した本は書庫に納本しなければならない:閲覧税
商・商神硬貨を損壊または投棄してはならない:両替税
匠・道具を著しく目的から離れた用途で使ってはならない:物損税
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます