16話 枯れない涙


 その夜は、嫌味なほど綺麗な満月が空に浮かぶ夜だった。


 新堂はグレーの軽自動車に乗って、たった一度だけ行ったことのある道を、いつもより少々乱暴な運転で走っていた。


 助手席には先程買い物したレトルトのお粥とフルーツゼリー、あとスポーツドリンクが積んである。病気ではないとわかっていたが、だからといって何が必要なのかわからずにとりあえず買った品だった。


 30分程して到着した古いアパートの二階、角の部屋は明かりが付いている。


「・・・行くか」


 車から降りると、自らを鼓舞するように一度深呼吸して、新堂は歩き出した。


 鉄筋がむき出しになった階段をゆっくり上り、目的の部屋の前に立つ。


 表札も何もない。殺風景な玄関ドア横の呼び出しブザーを鳴らした。


「・・・はい、」


 聞き覚えるのある声。若干懐かしい。


「下咲さん、お久しぶりです。新堂です」

「・・・ぇ」


 ドアの向こうで瑞季が小さく呟いたのが聞こえた。その声音が、明らかに動揺している。

 そんな瑞季の心情を伝えるドアは、いくら待っても開く気配がなかった。


「あの、すみません、突然来てしまって」


 新堂の詫びにも反応がない。


「あの、今日病院で重光さんに会いました。下咲さんのこと、心配してました。ごはん食べられないって聞いたんで、それで、いきなりは迷惑だとは思ったんですが、」

「・・・」

「あ、何が食べられるかわからなかったんで、とりあえずお粥とか買ってきました。よかったら、食べてください。ここに掛けときますね。」


 突然の訪問で困惑するのも無理はない。そう自分に言い聞かせ、新堂は今日のところは引き上げることにした。


 鉄骨の階段を降りながら、何度か振り返り部屋を見たが、開く気配はなく、新堂はそのまま車に乗り込んだ。


 しばらく車からも瑞季の部屋のドアを見ていたが、やはりドアが開くことはなかった。


 全てにおいて遅すぎたのかもしれない。


 深い溜め息を吐いて、新堂は車のエンジンをかけた。


     ・・・


 新堂の突然の来訪に、瑞季は激しく動揺した。すぐにドアを開けたかったが、ドアノブを握った自分の手の細さに、息を飲む。


 こんな姿を見られるのは、嫌だ。


 そう思って、同時にそんなことを思う自分に驚いた。


(新堂さんは、「瑞季さん」を気にして来てくれたのに、こんな姿にしてしまった俺は、新堂さんに許されるはずがない。)


 結局、ドアを開けることができなかった。


「・・・ごめんなさい・・・」


 遠ざかる足音を、ドアの側で静かに聞いた。

 込み上げてきたのは、心臓を握りつぶされる程の後悔と自責の念。


 鼻の奥が痛んで、溢れる涙がポタポタと玄関のコンクリートに染みては消えた。


 しばらくすると車のエンジン音がこだまする。


 もうダメだ、もう会えないと、脳が絶望を何度も呟く。


「あ、ああああああ、」


 悔しくて、瑞季は声をあげて泣くことしかできなかった。


「・・・はあ、はあ、はっ、」


 激しい慟哭は、やがてしゃくり上げる呼吸へと変わり、瑞季は上手く呼吸ができずに玄関に座り込み、両手で心臓を押さえた。


 苦しい。苦しい。誰か、助けて。


「助けて、・・・助けて、」


 刹那、ドアが激しくドンドンドンドンッと叩かれた。


「下咲さん!俺だ!鍵を開けろ!」


 我が耳を疑った。

 新堂の声だった。


 枯れたと思っていた涙が再び吹き出てくる。乱れた呼吸と狭まる視界の中で、必死に手を伸ばして玄関ドアの鍵を開けた。


 ガチャリと鍵が回ったと同時に激しくドアが開け放たれた。


 冷たい風が頬を撫でる。


「下咲さん!おい、しっかりしろ!」


 薄れゆく意識の中で、泣きそうな顔の新堂が手を伸ばす。

 その手を掴もうと細い手を伸ばしかけた。

 だが、瑞季はそのまま意識を失い、後ろにそっと崩れ落ちる。


 寸でで新堂は瑞季の背中に手を回し、抱き寄せた。


「・・・嘘だろ、」


 軽く、細く、棒切れのようになっていたその身体をきつく抱きしめて、新堂は肩を震わせた。


「ごめん、ごめん、」


 他に、どんな言葉も思い付かなかった。


 新堂は自らの袖口で目元を擦り、壊れ物を扱うように瑞季を抱き上げると、そのまま部屋の奥へと向かい、簡素なベッドに横たわらせた。


 新堂はその横の床に座り、ベッドに額を埋めて、少し泣いた。







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