8話 報われない努力、すれ違う想い
昨日の光景が、目に焼き付いて離れない。
ジュースを二本片手で持ち、エレベーターを待っていた。だがなかなか来ないため、新堂は鼻歌交じりに階段を上った。
この日は給料日だったこともあり、新堂は機嫌がよかった。
その階段を上りきるまでは。
「・・・え、」
階段を上った先の休憩室で、瑞季がうつぶせて泣いている。
急ぎ瑞季に駆け寄り、だが新堂は、声をかけかけて止めた。
「カタセさん、」
瑞季が泣きながら切なく呟いた、その知らない名前に何故か胸がざわついた。
「カタセさん、」
瑞季の丸まった背中が大事そうに抱えているものがスマホであることも、新堂には予想できた。
「・・・」
ならば、「カタセ」という名の人物が、下咲瑞季にとって泣くほど恋しい相手であることも、容易に想像できた。
「・・・」
新堂は、泣いている瑞季の側に紅茶を置いて、そっとリュックを取ると、そのまま階段を下りていった。
声をかけずに帰ったことは今では後悔している。
そして、仕事終わりに必ず通っていた病院へ、今日は一度も足を向けていないことも、新堂は心の底では悔いていた。
だが、持っていきようのないこの感情を消化させるには、どうしても時間が必要だった。
あまり酒を飲まない新堂だったが、帰路の途中、コンビニで500mlのビール3本と唐揚げを買った。
帰ってすぐに開けたビールは、やけに苦い。不味いなとは思ったが、一気に飲み干した。できるだけ早く酔ってしまいたかった。
「ホント、俺、ちっせぇな、」
自嘲気味の笑みが漏れて、机に肘を付き、額を押さえて少し笑った。
「・・・下咲さんは、あんなに頑張ってるっていうのによ、」
つまみの唐揚げを箸でつつきながら、新堂は小さく息を吐いた。
・・・
下咲瑞季の身体に、別人格である石田連太郎の意識が入り込んでいると、説明したところで瑞季は理解しないだろうと思った。
だが、瑞季は「やっぱり」と呟いたきり何も言わなかったが、奥歯を噛み締めて何かに耐えているようだった。
受け入れがたい現実を受け入れる決意。
それは決して容易ではない。
毎日の排泄や入浴の度に、瑞季は神経を磨り減らす。新堂の前ではあまり泣かなかったが、夜勤明けに病院へ行くと、大抵目が腫れていた。
新堂はできるだけ瑞季が気分転換できるよう、コンビニのスイーツを買ってみたり、自分の好きな曲を落としたiPodを貸してみたり、映画や漫画を持ち込むこともあった。
そんな些細なサポートしかできない自分を新堂は責めたりもしたが、できることしかできないのだと自分に言い聞かせ、瑞季が一瞬でも現状を忘れて笑えるように努めた。
そんな新堂とのささやかな日々が、瑞季の気持ちを前向きに変えていったのは否めない。薄皮を剥ぐような変化ではあったが、瑞季は、新堂の気遣いに報いたいと思うことで、リハビリにも頑張ることができていた。
だが、そんな日々も、自分が努力を怠れば、安易に崩れ去ることも、新堂は理解していた。
「・・・あれは、」
瑞季が泣いていた日から5日目、少し高めのコンビニスイーツが入ったビニール袋を持って訪れた病室で、新堂は、瑞季と穏やかに話すスーツ姿の男を見た。
あれが「カタセ」だと、すぐにわかった。
新堂はそっと溜め息を吐いて、そのまま踵を返した。
帰り際、スイーツの入ったビニール袋を救急病棟に預けた。谷口医師へ渡してほしいと告げると、「谷口先生は辛党ですよ」と看護師に笑われた。「知ってます」と新堂は愛想笑いを漏らした。
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