7話 スマホが刻む時と傷


「え?スマホ、ですか?」


 心臓外科病棟の四人部屋に移ってから数日経った頃、主治医の宮前医師に呼ばれて渡されたのが、下咲瑞季のスマホだった。


「今まで病院側で預かっていたんですけどね、」


 宮前医師は背の低い50代の中年男性だったが、物言いが柔らかい。しかし瑞季はこの医師が少し苦手だった。


 宮前から渡されたスマホに視線を落として、二の句を告げずに横のボタンを押してみる。


「電源はここや病室では入れないでね。ペースメーカー付けてる方もおられるからね。」

「あ、はい。・・・すみません。」


 宮前はずっと電子カルテに目を向けたまま、瑞季に視線を投げることなく説明を続けた。


「下咲さんの身内の方が来られたら渡そうと思っていたんですけど、来られないようですのでね。ご本人さんもずいぶん意識もしっかりしてこられたみたいなので、一旦お渡ししますね」

「あ、はい。・・・ありがとうございます。」

「使われるときは、基本休憩室でお願いしますね。」

「あ、はい。わかりました。」


 結局、ほとんど宮前は瑞季の方を見ることはなかった。



 手のスマホをずっと見つめながら病室に向かいかけて、瑞季は踵を返し、休憩室へと足を向けた。


 休憩室は、入院患者の見舞い客や、パジャマ姿の若い患者が俯いてスマホをいじっている。瑞季は休憩室の大きな窓のそばに腰掛けて、改めてスマホを見つめた。


 感覚的には初めて手にするスマホ。しかし頭も体も使い方を理解していて、側面のボタンを長押しする。


 だが長い間放置されていたらしく、電源が入らない。


「充電器、貸しましょうか?」


 聞き覚えのある声が頭の上から降ってきた。

 瑞季は嬉々として顔を上げて、意識せず微笑んだ。


「新堂さん、お仕事お疲れ様です。」

「下咲さんも、リハビリお疲れ様です。それ、たぶん俺の充電器でもいけますよ?貸しましょうか?」

「いいんですか?助かります。」

「あ、あっちにコンセントありますね、あっちに移りますか。」

「あ、はい。」


 新堂に誘導される形で、隣り合ったカウンター席に並んで座る。


 新堂はリュックから充電器を取り出すとコンセントに差し、瑞季の持つスマホに繋いだ。


「ちょっと待った方がいいかもしれませんね。俺、何か飲み物買ってきましょうか?」

「あ、はい。ありがとうございます。あ、お金、」

「奢りますよ。今日給料日だったんで」


 新堂は自分の席にリュックを置くと、財布だけを後ろポケットに突っ込んで、一階のコンビニへと向かった。


 座ったままその背中を見送り、新堂の背中が見えなくなると、途端に手保ち無沙汰になった。


 しばらくぼんやりしていたが、徐に瑞季は、ほぼ無意識にスマホの電源を立ち上げていた。


 すぐさま機種のロゴが画面に現れ、ブッブッと小さく震えた後、ロック画面になった。

 何の淀みもなくロックを解除した瞬間、思いもせず心臓が高鳴り、呼吸が難しくなってきた。


(なんだろう、凄く嫌な感じがする。)


 これ以上、スマホを操作してはいけないと、感覚が訴えるのに、脳が、指が、それを許さず、瑞季の指先は迷うことなく、LINEを開いた。


「・・・!」


 そこに現れたのは、おびただしい数の送信履歴。


『何で返事をくれないの?』

『もう、こういうの止めたいのに、やめられないの。』

『もう電話はしないから、せめて返事をください。』

『お願い、もう一度、会えませんか。』

『ツラいの、お願い、返事して。』



 瑞季は慌ててスマホの電源を落とした。


 スマホを持つ手の震えが止まらない。


 あの画面を瑞季の脳は知っている。

 そして、送り先のあの名前も。


「片瀬、・・・悠真、」


 言葉にした途端、心臓が痛い程脈打った。血の気が引き、冷や汗が一気に吹き出る。そして脳裏に浮かんだのは、見覚えはあるが見たことのない30代の男性の、穏やかな笑顔だった。


 鼻の奥が焼けるほど痛くなる。スマホを握りしめたまま、涙がハラハラとこぼれ落ちた。


 脳が、何度も何度も「片瀬さん、片瀬さん」と呼んでいる。


 これは、下咲瑞季の焦げるほどの慕情だと理解できた。


 切ない想いだけが脳を支配する。


 なす術なく、瑞季はスマホを抱き締めたまま、うつ伏せ、肩を揺らしてずっと泣いていた。



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