6話 手の温もり


 

 入院中の、生活の全てがリハビリだった。


 体を起こし、食事をすることさえ、痛みに顔を歪める。

 目覚めている間も、どこか夢現で、色んなことを考える余裕などどこにもなかった。


 その間、何者かの介助を受けていたのだが、瑞季はそれが誰なのか、まったく理解していなかった。



 ある日、いつものように、ベッドのサイドテーブルに運んでもらった昼食を食べようと半身をもたげかけた時、何者かが背中をぐっと押してくれた。


 瑞季はぼやけた視野でその人物を捉え、しばらく顔をじっと見つめた。

 見覚えがある気がするのに、彼が誰なのか、脳裏に全く浮かんでこない。


「あ、あの、ありがとうございます。」

「いえいえ、気にしないで。介助しますんで、ゆっくり食べましょう。」


 それはとても穏やかで優しい声だった。

 その声を、瑞季はやはり知っている。


「あなたは、誰ですか?・・・看護師さん、ですか?」

「いえ。俺は、・・・救急救命士です」


 救急救命士が介助をしてくれていることに疑問を抱くゆとりもなく、瑞季は「お世話になります」とぎこちなく頭を下げた。



 少し意識がはっきりしてきた頃、今日は排泄をトイレでしましょうと看護師に言われ、瑞季は車椅子に乗せられた。


 広い多目的トイレに看護師と共に入り、便座に座らされた途端、瑞季は「え?」と呟き、激しく狼狽し始めた。


「下咲さん!?どうしました!?」


 看護師が驚き声を上げる。

 その声にさらに瑞季は狼狽の色を強めた。


「あ、あの、あの、あの、俺、」

「とにかく一回落ち着きましょう。排泄訓練はまた後日にしましょう、ね、」


 看護師に再び車椅子に座らされ、多目的トイレを出たところに、男が一人立っていた。男は看護師に声をかけ、看護師に変わって車椅子を押す。


「あの、すみません、俺、・・・俺、」

「わかってますよ、下咲さん。ちょっとゆっくり、俺と話しましょ」

「すみません、・・・すみません、」


 瑞季は俯いて、震える声で病室に戻るまでしばらく謝り続けていた。


     ・・・


 病室に戻り、車椅子から瑞季を抱えてベッドに戻す時、あまりの軽さに新堂はぎょっとした。だが自分が動揺しては、瑞季にそれが移ってしまう。努めて冷静に心を殺し、ベッドに瑞季を横たわらせると、新堂はいつものパイプ椅子に腰掛けた。


 ベッドに戻されても、瑞季の動揺は収まらず、顔が酷く青ざめていた。


 しばらく思案を巡らせていた新堂は、徐に瑞季の白い手を掴み、ポンポンと何度も優しく叩いた。


「大丈夫ですよ、下咲さん、あなたのその感覚は間違ってないし、あなたのその身体も間違ってない。ちょっと違和感があるかもしれないけど、全部間違いなくあなただから、大丈夫ですよ。ゆっくり、受け入れましょう。俺がサポートしますから」


 大袈裟なほどニカッと笑う新堂を見て、瑞季は泣きそうな顔になった。


 感じたことがなかった人の手の温もりが、瑞季の心をゆっくり綻ばしてゆく。


「・・・あの、あなたは、・・・誰なんですか?なんで、俺に、俺なんかのために、」

「俺は新堂。新堂淳です。・・・あなたを、助けられなかった救急救命士です。」


 新堂の顔から笑みが消える。

 途端に瑞季は息を飲んだ。


「あ、ああ、あああああああッ」


 震えるような声を漏らし、刹那、瑞季は瞳が溶けるほどの涙を流した。


 新堂は立ち上がり、瑞季の手を握ったまま、空いた手で、背骨が浮くほど痩せた瑞季の背中を少し浮かして、自身の胸にそっと抱き寄せた。

 

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