三

 爪先をおそるおそる海につけると、思った以上に冷たくて体がびくりとする。それと同時に、さっきから肌を撫でていた潮風と似たようなべたつきを足に感じた。

「ほらほら彰君、気持ち良いよ」

 そんな俺とは対照的に萌は既に腰の辺りまで浸かっていて、気持ち良さそうな顔をしていた。白いワンピース型の水着は、透き通った水の中で揺らめいている。

「ちょっと待ってろ」

 答えたあと、少しずつ慣らすようにして足を海へと沈みこませていった。新たな肌が水に浸かっていくたびに身を震わしそうになったものの、元より海自体が日の光に曝され続けているせいか、慣れれば程好い温度に感じられる。

 直後に右腕に重みがかかった。振り向けばニヤニヤする萌が両手で俺の腕に抱きついている。いや、待て。そう言おうとしたところで、右腕から水の中に引きずりこまれた。口の中に塩味が広がるのを感じ、慌てて閉じる。眼前には笑顔の萌。目が痛くなり、目蓋を閉じて体ごと浮かびあがる。

「なにするんだ」

 再び目を開き文句を叩きつける俺に、萌はずぶぬれになった長い髪を片手で絞りながら悪びれるでもなく、だっていつまで経ってももたもたしてたから、などとのたまった。

「人には人のペースがあるんだから、待ってくれればいいだろう」

「うんそうだね。でも時間がもったないから」

 萌は俺の意見を一顧だにせずにそう言い切ってから、一人で犬掻きをはじめる。すかさず俺は、あのなぁ、から続く少々長い文句の連なりを口にしようかとも考えたが、それそれそれ、などと奇声を発しはしゃぎまわる彼女を見て、話しても無駄だろうと判断し、水に遮られやや重くなった一歩を踏み出す。さしあたっては萌の後を追うだけで他にはなにもせず、むしろ、ただぷかぷかと浮いているだけで済ませたくもあった。

「彰君も泳げばいいじゃん」

 どことなく消極的な俺の様子が気になるのか、依然として顔を上げたまま、水中で両手を回しバタ足をする彼女は、そんな風に促してくる。俺はただただ面倒臭かったものの、涼むという意味では体中をつけてしまった方が早いというのもあり、頷いてから、萌の後を追うようにして犬掻きをはじめた。他の泳ぎ方でもいいじゃないかとも思ったが、まだ目と口が塩辛く顔を付けるのが嫌だったのもあって、このかたちになる。

 そんなこんなで俺と萌は犬掻きでの追いかけっこに興じる。最初こそ、萌がずっと先を行っていたものの、次第に体力差からか距離はぐっと縮んでいった。とはいえ抜き去ろうとは思わなかったため、追いつきそうになるたびに速度を弛め、また距離を広げさせる。そうして、充分に距離が空いたのを確認してからまた徐々に徐々に距離を縮めていく。そんなこと繰り返した。

「ほらほら、まだまだ行くよぉ」

 萌は手足をばしゃばしゃと動かしてこそいたものの、顔をあげているせいかしっかりと周りが見えているらしく、同じように海に浸かったり泳いだりしている人たちをしっかりとかわしながら器用に泳いでいる。おかげで後に続く俺は人を含めた障害物のないコースを選びやすかった。

 それにしても、萌は綺麗に泳ぐ。まるで海の流れを感じていないかのようにするする前へ前へと進んで行っていた。

「なんか海で泳ぐの慣れてるな」

 やや息を切らしながらそう話しかける。泳いでいる最中ゆえに聞こえていないかもしれない、という懸念は、まあね、という彼女の回答ですぐに杞憂だとわかった。

「昔は海の近くで暮らしてたから、夏は友だちと一緒に毎日のように泳ぎ回ってたの」

 だから、泳ぎにはけっこう自信があるんだ。得意げ言ってみせたあと、再び萌の犬掻きは加速する。俺はといえば、まだそんなに元気があるのか、と関心したり呆れたりしつつも、不恰好な泳ぎで後を追った。そのかたわら、まるで魚みたいな自らの彼女を眺め、熱心さと綺麗さに、ちょっとした理解できなさと羨ましさを抱いたりする。

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