一
憂鬱だ、というのが、砂浜に降り立ったばかりの俺の正直な気持ちだった。
理由はいくらでも並べられそうだったがまずは暑い。ただでさえ真夏日なのにもかかわらず、わざわざ日射で熱せられた砂の上を歩くなど正気の沙汰ではない、というのが海にやってきてみての正直な感想だった。むしろ、こんな暑い日だからこそ、巨大な塩の水溜りであるところの海に行くということなのだろうが、一時的に少しくらい冷たい水に身を沈めたところで、帰りになればまた汗とか塩のべたつきだとかを味あわなければならない以上、嫌な思い出ばかりが残りそうな気がする。そもそも外に出てしまったという時点で失敗なのではないか。そんな感想を持った。
「ほらほら、早く行こうよ」
麦藁帽子の端を押さえた彼女の萌は、俺の手をぐいぐいと引っ張ってくる。
「わかったわかった」
だからそんなに急かさないでくれ。言葉の背後にそんな含みを込めたつもりであったが、萌は手を離さないまま、引きずるようにして歩を進めていく。
暑苦しいんだよ。そんな感想を持ちつつも、隣に並ぶようにして足を動かしていった。その際、風に揺られた女の長い髪が顔にかかりその一部が口に入る。立ちこめる潮の臭いが重なったせいか、どことなく食べ物じみている気がしたものの所詮、髪は髪だったので控え目に振り払った。
「いやぁ、楽しみだよ」
心の底から楽しそうに目を輝かせる萌に、頷いて応じつつも、早く帰れないかなと、心の端っこの方で思う。そんなに長くはこの海水浴場にいたくはない。
辺りを見回せば、犇く老若男女の喧騒につぐ喧騒。ビーチバレーを楽しむ高校生連れ、波に向かってサーフボードを漕ぐ若い男、パラソルの下に寝転がる中年カップル。この人の多さだけでも正直、酔いそうだった。
「ほら、早く早く。このままだと海が私たちを待ちきれなくなっちゃう」
俺の調子に気付いているのかいないのか、萌は今にも走り出しそうな勢いで、握っている掌に更なる力を込めてみせる。おまけに言っていることまでわけがわからず、頭が沸いてるのかこの女は、と思ったりもした。その間も猪じみた勢いで走り進んでいく萌の手を振り払う暇もなく、ただただ振り回される。こころなしか道行く人たちの目が生温かい気がした。
そうこうしている簡易更衣室の前にたどり着く。萌が急ブレーキをかけるように立ち止まると同時に俺はやや前のめりにつんのめる。その時にはもう手は離されていて、砂に顔から突っ込みそうになったがなんとか踏み留まった。
「ダメだよ、彰君。ちゃんとブレーキかけないと」
楽しげに腹を抱える萌。誰のせいだと思ってるんだと睨みつけようとする。
「じゃあ着替えてくるから。また後でね」
だけど萌はちょうどいい具合に俺の視線から外れるようにして距離をとったあと、ひらひらと手を振り、早足で更衣室の入り口を潜っていく。風のように去って行ったなという感想を頭に浮かべたあと、俺もまた男性用の更衣室に入ろうかとも思ったが、もう既に下に水着を履いていたので、物陰でいいやと、と考え直し歩きはじめる。その最中、萌のからっとした表情を思い出していらっとした。
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