一輪の花

白井香

第1話

 強烈な喉の渇きだった。痛みが昨日よりも増している。最後に水を飲んだのはいつだっただろうか。昨日か、一昨日か、意識が朦朧としていてそれすらも思い出せない。ボロボロの軍足を履いた足をようやく前に進めながら、男はただ水を求めて原生林の中をさまよっていた。所属していた小隊はとっくに散り散りになっており、昨日まで一緒にいた片腕の仲間は、今朝、隣で息絶えていた。男はそれを見てももはや何の感情も湧かなかった。死んだ仲間が持っていた弾の入っていない銃を取り上げると、肩に担ぎ、水を求めて歩き出した。何週か前なら太陽が昇る明るい時間に原生林を歩くような事はしない。現地のゲリラがどこにいていつ襲ってくるか分からないからだ。だが今はそれすらもどうでも良く、ただ水を飲みたいその一心が男の足を動かしていた。


 どれくらい歩いただろうか。男が足を進める限界を感じたその時、木々の合間に家らしい建物が見えた。ああ、これで水が飲めると思うと足が少し軽く感じられ、男は残った気力を振り絞って木の間を抜けた。そこは小さな集落だった。そして、ひどい光景だった。どこかの小隊に襲われたのだろうか、家の壁のあちこちに銃弾の跡があり、屋根は焼け焦げ、ひどい死臭がした。男からは見えないが、至る所に死体が転がっているに違いなかった。だが男はそんな事に構わず、とにかく水を探して家々に飛び込んだ。どの家も荒らされ、棚や椅子などもひっくり返され、中には小さな子供が折り重なって死んでいる所もあった。その中を男は必死の形相で水を探しまわり、やっとある家で水甕をみつけ、その中に顔を突っ込んでがぶがぶと水を飲んだ。何日も食べるものを口にしていない分、水が腹にたまっていくのが恐ろしいほどはっきりと感じられた。水甕の水をほとんど飲み干した頃、やっと男は顔をあげほっと一息ついた。ゆっくりと辺りを見回した。こんな荒れた所ではゲリラもいないだろう。壁のあちこちに空いている穴に近づかなければ、外から見える心配もない。少しここをねぐらにしよう。原生林の中で虫や蛇に悩まされるよりマシだ。男は肩から2つの銃をおろし、その場に腰を下ろした。

 その時だった。部屋の隅でガサっという音がした。瞬間的に男は跳ね起き、銃を掴むと音の鳴った方へ銃口を向け息を殺した。一瞬気を緩めた後だったため、心臓が今までにない程バクバクと音を立てて、全身の毛が逆立っていた。しばらく息を殺して待っていたが音はもうしなかった。男は銃口を向けたまま、ゆっくりゆっくり音が鳴った方へ近づいた。部屋の隅に薄汚れた布が掛ったものがあった。布の端からは木の端切れのような物が沢山のぞいていた。これが何か動いて音がしただけだろうか。男は小さく深呼吸すると銃口の先でその布をバッとめくった。恐れていたゲリラはいなかった。薪として使うつもりだったのだろうか。沢山の木の端切れが積み上げられていた。そしてその向こうに子供の小さな頭が動くのがちらっと見えた。

「出てこいっ。」

男は小さく叫んだ。ここで大声を出すとゲリラに聞こえるかも知れない。言葉は分からないはずだが、木の下を這い出して小さな男の子が男の前に出てきた。恐怖のせいで体がブルブル震えている。年は3、4歳だろうか。顔は黒く汚れて、髪の毛は伸び放題で、着ている服もボロボロだった。こんな小さな子が一体どうやってこんな荒れた所で生き延びてきたのだろうか。襲われる事はないと分かった男は銃身をおろし、男の子を黙って見下ろした。男の子はブルブル震えたまま、男と目を合わさず下を向いていた。その様子を見ながら男はふっと思い出した。そうだ。まだ日本が戦争を始める前自分にもこれくらいの年の男の子がいた。やんちゃな子でいたずらばかりするので、よく立たせて叱ったものだった。今目の前にいる男の子と同じように、目を合わせず下ばかり向いていた。戦争で日本から遠く離れたこの場所に送られてからは、男は生き延びるのに必死で家族の事を思い出す余裕などなかった。


 ふと気付くと、男の子の膝から血がにじんでいた。おそらく何日か前に怪我をしたものだろう、血が黒ずんでいたが、いま這い出してきた時にまた傷口が開いたようだった。男の子から目を離さないようにして、男は銃を肩からおろすと、さっき水を飲んだ水甕に近づき、軍服のポケットに入っている汚いぼろ切れをひっぱりだして水に浸した。そしてまだ下を向いたままの男の子にゆっくり近づくとしゃがみこみ、血がにじんだ膝をふいてやった。男の手が足に触れた瞬間、男の子は体をびくっとさせて恐怖の目で男を見た。その目を見た瞬間、男はハッと我に返った。そうだ、ここは戦場だった。いつゲリラに襲われて自分も殺されるか分からないのだ。もしかしたらここにゲリラが来て、男の子に食べ物を与えているかも知れない。いつまでもここにいるのは危険だ。男は無意識のうちに銃を肩に掛けた。男の子の目がより大きく見開かれ、体の震えさらに大きくなった。自分が殺されると感じたのだろう。だが男は殺すつもりはなかった。それよりも自分がここから離れる方が先だ。家の入口からそっと外の様子を伺った。幸いゲリラの気配はなかった。出ようとして一歩足を踏み出してから、中を振り返った。男の子がまだ震えながらじっと男を見つめていた。

男はそのまま原生林へと逃げ込んだ。


 次の日の朝、男はまたあの家の近くまでやって来た。木々の間から家や周りの様子を息をひそめて見ていた。男は自分でもなぜここに来るのか分からなかった。

不意に家の中からあの男の子が出てきた。周りを警戒しながら、ゆっくりと裏手に歩いていく。どこに行くのだろうか。男も足音をさせないように木々の中を移動した。男の子は裏手の葉が茂った場所にしゃがみこんで何かしている。しばらくして立ちあがり振り向いた時、手には小さな白い花を何本か持っていた。そして少し横にある土が盛り上がったところにその花を置いた。一体何をしているのか。周りに人気がない事を確認して、男は木の間から出て男の子に近づいた。その気配を感じた男の子が振り向き、男の顔を見て体を硬直させた。男は無言で盛り上がった土に近づいた。土の上には枯れた花の残骸がいくつか乗っていた。良く見るとその土の中から白い骨がのぞいていた。ああ。男は悟った。これは誰かの墓なのだ。この男の子の母親だろうか。男の子は今日だけでなく何度も同じように花をここに置いていたのだろう。もはや何の感情もなくなっていた男の心にほんの少し憐れみの感情が沸いた。この先ここにいても男の子は長くは生きられないだろう。花を添えながらここで死んでいく運命にちがいない。


 突然、男のズボンのすそが引っ張られた。驚いて見ると、男の子がさっきつんだ白い花を一輪、男に差し出していた。男は一瞬自分に向けられたこの花をどうしたら良いのかと動揺した。これは自分に向けられた優しさかあるいは他の感情なのか、とにかく殺意以外の感情を向けられた事に驚いた。しばらくそのまま立ちつくしていたが、男の子は無言で花を差し出したままだった。男がおずおずと花を受け取ると、男の子は突然走りだして家の中に入ってしまった。男の子を追って家に入ろうとした時、遠くで鳥が一斉に飛び立つのが見えた。ゲリラだ。早く原生林に身を隠した方が良い。男はとっさに近くの木の間に飛び込んだ。


 二日後、男の足はまたあの家の近くに向いていた。木々の間からあの家をじっと見ていた。しばらくすると男の子が出てきた。周りを警戒しながらゆっくりと裏手へ歩いて行く。あの墓に行くのだろう。男も周りに人気がない事を確認して木の間から出た。男の子が気配を感じて足を止めた。そしていきなりうわぁと訳の分からない言葉を叫びながら家へ走り出した。その瞬間、男の足に鋭い痛みが走って血が噴き出した。男はその場に転がった。撃たれた。すぐに家の中からゲリラの格好をした男達が数人飛び出してきた。男の子がその後ろから顔をのぞかせた。男は悟った。今、男の子はおとりで、自分はまんまとそれにひっかかったのだ。大きな銃声がして今度は男の腕から血が噴き出した。続けて2発、3発、男は撃たれ続けた。朦朧としていく意識の中で男は必死に男の子の姿を探していた。-いた。家の入口の陰から目を見開いて男を見つめいた。いいんだ。お前は何も悪くない。生きる為にお前がやっている事は正しいんだ。男は声にならない声で、男の子に叫んだ。銃声は更に続いている。いいんだ。お前が花をくれた時、俺は一瞬人間らしい気持ちを取り戻せたんだ。それだけで十分だ。ありがとう。


男は息絶えた。その唇はかすかに微笑んでいた。


                                     完

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一輪の花 白井香 @koshiroi

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