大好きな理沙。
白井香
第1話
涼しい風がすっと吹き抜けた。
理佐の長い髪がサラサラとなびいた。ああ。なんて美しいんだ。僕はその一瞬の美しさから目を反らす事が出来なかった。理佐はいつもそこに座って考え事をしている。牧草を沢山馬達に食べさせて、体をたわしでゴシゴシこすってあげて、厩舎をお掃除した後必ずそこに来て、まず結んでる長い髪をほどいて、ひとつ溜息をついた後ゆっくり座って、空を見上げながら何かを考えているのが日課だった。
そこは厩舎の階段で、日当たりが良くて、他の人達もよく座って休憩しているけど、この時間帯はいつも理佐しか見かけない。でもそれでいい、いや、それがいい。僕と理佐の二人きりの時間なんだから。僕にとっては最高に幸せな時間だ。でも、むやみに理佐に話しかけるなんて野暮な事はしない。僕は少し離れた場所に座って静かにその後ろ姿を見守っているだけ。理佐がたまに僕に気付いて微笑んで、横に来て座ったらと誘ってくれる。僕は何だか照れくさくて、恥ずかしくて、急に周りをきょろきょろ見回したりしてみる。そんな僕を見て理佐は少し笑う。決して怒らない。ああ、理佐のそんな優しいところも大好きだ。この前うまく横に座れた日は、理佐が僕の事をハンサムだと褒めてくれて、僕は舞い上がりそうだった。もちろんそんな素振りは見せないようにこらえたけど。今日理佐はまだ僕に気付いていない。僕は理佐のサラサラな長い髪に見とれながら、いつものように思う。ああ、最高に幸せだ。こうやってずっとずっと理佐のそばにいられたら。
理佐は馬達のお世話をする係で、ジョッキーとかいう男の人達と色々話しながら馬の体調管理もやっているようだ。まだ若いのに良く頑張っていると褒める声がよく聞こえてくる。そりゃそうだ。理佐はとっても真面目で、頑張り屋さんなんだ。朝も一番早くに来るし、馬達にもとっても優しい。たまに来る馬主とかいうおじさん達がその辺にポイと捨てていくタバコの吸いがらも、文句ひとつ言わずに黙って拾ってあげていたし、下心丸出しの若いジョッキーから言い寄られている時も、優しく傷つけないように断っていた。そうだ、この前馬の出産があった時は、最初から最後までずっとつきそって、子馬が生まれた時には感動して泣いていた。そう、理佐はとにかく性格のいい、優しい、頑張り屋さんの女の子なんだ。
ある日、いつものように結んだ髪をほどいて座った後、理佐が大きなため息をついた。僕は驚いた。そのため息はいつもと違ってなんだか悲しそうで、目だって涙目だったからだ。僕は思わず理佐に駆け寄って、どうしたのかと尋ねた。理佐は涙目で僕を見つめながら「ここを離れるのは寂しいわ。」と言った。僕はびっくり仰天して失神しそうだった。いや、でもそんな格好悪いところは理佐に見せる訳にはいかない。僕は必死でふんばった。「私、結婚するの。」―腰が抜けて、僕はへなへなと階段に座り込んだ。「結婚して遠いところに引越するの。」もうダメだ。我慢できず僕は理佐の前でさめざめと泣いた。あまりに急なカミングアウトだった。理佐、僕の知らない誰とどこに行くんだ。そりゃ僕たちは付き合ってる訳じゃないから、口を出す権利もないが、それにしてあんまりじゃないか。僕があまりに泣くので理佐の目からも涙がこぼれた。その時どこかで理佐を呼ぶ声がした。理佐は行かなきゃと涙を拭うと、声の方へ走って行った。僕はそれから抜け殻になった。
理佐が厩舎を後にする日、ジョッキーや馬主や沢山の仕事仲間が見送りに集まっていた。理佐は長い髪をほどいて、薄くお化粧もしていてとても綺麗だった。皆から花束を貰い、最後の挨拶をした後、理佐が僕の方を向いて言った。「今までありがとう。会えないなんて寂しくなるわ。」僕はただ黙って頷いた。
タクシーが来て、理佐は先に大きな荷物と花束を後部座席に乗せた。その後ゆっくり自分も乗り込むと窓から「さよなら」と大きく手を振った。その声が合図かのようにタクシーが静かに走り出した。窓から見える理佐の顔が少しずつ小さくなっていく。あ、ダめだ、行っちゃだめだ。僕の足が勝手に動きだした。気付くとタクシーを追って走り出していた。理佐、行かないで。行かないで。タクシーはどんどん加速して距離がみるみるうちに開いていく。いやだ、僕は理佐とずっと一緒にいたいんだ。理佐、どうか行かないで。僕は必死に叫びながらタクシーの後を追いかけた。小さくなっていくタクシーの後部座席の窓が開いて、理佐が顔を出したのが見えた。きぃっという音と共にタクシーが止まった。理佐が降りてきて、こちらに走ってくるのが分かった。僕はもう息が上がって死にそうだったけど、最後の力を振り絞って理佐に駆け寄った。理佐、もうどこにも行かないで。君が好きなんだ。僕は声にならない声で必死に叫んだ。それに答えるように、理佐が両手を広げて僕をぎゅうっと抱きしめた。
理佐と僕は一緒に厩舎まで戻った。驚いている仲間達に理佐が言った。「この子一緒に連れて行ってもいいかしら。私が休憩している時いつもそばにいてくれたの。これから住むマンションはペットOKだし、大切に育てますから。」誰かが答えた。「もちろんだよ。こいつ、いつの間にか厩舎に住みついてたな。猫が人間を追いかけていくなんて初めて見たよ。本当にお前と離れたくないみたいだから、大事に可愛がってやれよ。」僕はまた泣いた。今度は嬉し涙で。
理佐の新しいマンションに向かうタクシーの中で、僕は理佐にゴロゴロ甘えた。理佐が頭や顔やのどを沢山なでてくれた。もう理佐と離れなくて済むんだ。ずっとずっと一緒なんだ。僕が幸せを噛みしめていると、理佐が僕の顔を覗き込みながら言った。「追いかけてくるなんて、本当にびっくりしたわ。これからはずっと一緒だからね。宜しくね。」僕は最高の笑顔でもちろんと答えた。理佐の旦那も一緒に暮らす事になるが、まあ仕方ない。理佐とずっと一緒にいられるのなら、そんなの大した事じゃない。
マンションの部屋に着くとその旦那がいた。あ、こいつは。僕はびっくりした。下心丸出しで理佐に言い寄っていたあの若いジョッキーじゃないか。まじか。ううむ、でもまあいい。そんなに悪い奴でもなさそうだ。許してやる。旦那は僕を見て驚いていたが、理佐から事情を聞くと「よし、これから三人で仲良く暮らそうな。」と言った。正確には二人と一匹だと僕は思ったが、その間違いには知らんふりしてやった。まぬけな間違いにつきあってやる義理はない。
「とりあえず」と旦那が言った。「部屋が少し暗いから、裸電球だけ付けといた。電化製品や家具はあと1時間くらいで届くはずだから、先に飯でも買いに行こう。こいつの餌とかトイレとかも買わないとな。」理佐の腕のぬくもりから顔をあげて、僕は「ありがとう」の気持ちを込めて、大きく鳴いた。
完
大好きな理沙。 白井香 @koshiroi
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