昔の恋人

 眼前には、夏の喧騒が去ったばかりの静かな太平洋が広がる。

 硝子越しにも聴こえる波の音は穏やかで、犬の散歩をしている老夫婦だけが、砂浜を歩いていた。


 四角い窓枠をじっと見つめながら、俺の組んだ指先が微かに震えている。

 待合席のベンチは硬くて冷えていて、落ち着かない気分でいた。

 消毒薬の匂いが充満してる。

 白い廊下は静かだった。


 ――久しぶりに会えるんだ。


 後ろめたさと緊張と、期待がないまぜになる。

 俺は奥さんに黙って、昔の女に会いに来た。

 これから再会する元彼女、瑛子えいことは婚約までしていた。

 深く愛し合った仲だった。


 俺は瑛子と、その頃知り合ったばかりの志乃と二股してた。俺は最低野郎だ。

 瑛子と付き合っている時に、志乃と浮気したら、志乃に子供が出来て。

 で、瑛子と婚約破棄をして、浮気相手の志乃と結婚した。


 おぉーっと。

 志乃と結婚をして、男の子が産まれてさ、……それから浮気はしてないぜ?

 これは言い訳でしかないが。

 捨てた婚約者の瑛子には、本当に悪いことをしたと思っている。


 それから成り行きはちょっと胸を張れはしないが、今は妻の志乃も子供もちゃんと愛している。


 だったら、なぜ俺は昔の彼女に会いに来たかって?


 けじめと謝罪だ。

 長い間、悪いと思っていた。

 謝って済むことではないとも思いながら、俺は――


「今坂さんですか?」

「はい」


 あっ……。

 顔を上げると、かつての彼女そっくりな女性が立っていた。


「こんな遠い所まで来ていただいてすいません。それに急にお電話してしまいまして」

「いえ、とんでもない。俺の方が悪いし……。電話番号変えなくて良かった」

「母から色々と聞いています。ここではなんですので……」


 俺は女性に促されて、いくつも並ぶ扉を眺めながら、白い廊下をゆっくり歩いた。


「静かなんですね」

「今日は休日ですから、診察がないからじゃないですか? もっとも内科の入院病棟はいつも静かな気がします」


 少し刺々しい態度を感じる。

 まぁ、俺がしたことを思えば、そんな風に接するのは仕方ないよな。

 女性についていくと、彼女は一番奥の引き戸を開ける。


「……久しぶり」


 俺は見舞いの花束と、昔彼女が好きだったシュークリームの入った箱をそっと渡した。


「ありがとう。来てくれたんだ。ごめんね、未練ってわけじゃないの。話しておきたいことがあって」


 何十年ぶりかに会った恋人の瑛子は、白い部屋のベッドで半身を起こして俺を見ていた。


 やつれていたが美しさに変わりはなかった。


「お母さん、私、外に出てるね」

「あなたもいて」

「えっ……。うん」

「その前に――ごめん。俺が悪かったよ」


 昔の恋人には、幸せでいて欲しい気持ちもあったが、俺以外の男と幸せにならないでいて欲しいって矛盾した気持ちもあった。

 なんて自分勝手なんだろう。


「私、もう長くないから……」

「……あぁ、聞いた。……迷惑でなかったらさ、毎週休みに会いに来るよ」

「良いわよ、来なくって。どうせ奥さんに黙って来るんでしょう?」

「昔の友達に会いに行くって、言うよ」

「バカね、相変わらず。バレるに決まってるでしょ!」


 はぁ――。

 彼女の子供が深いため息をついた。


「こんな人が私の父親だなんて」

「はいっ?」

「この子、マドカ。あのね、あなたの子供だから。もうマドカは大人だし面倒見ろなんて言わないわ。ただ、私がいなくなったら、時々話し相手になってくれないかしら?」


 おっ、俺の子供っ!?

 この子、俺の子……!

 青天の霹靂だった。

 俺には娘がいたのか!

 

 俺が瑛子と別れた時には、本命の瑛子も浮気相手の志乃も妊娠させてたなんて。


 俺は瑛子に土下座した。


「やめて。もう、良いの。ただ、私とあなたとの子供がいる。マドカって子がいることを知って欲しかった。それだけよ」

「すまない、俺」

「大丈夫。私、今はこの子達と幸せだから」


 俺は自分が情けなくて仕方がなかった。

 しばらくシーンとしてた。

 急に病室の扉が開いた。


「おばあちゃん、お見舞いに来たよ」

「おばあちゃん、大丈夫?」


 小さな男の子が二人、父親らしき青年と入ってきた。


「マドカ、お義母さん、この人ですか?」

「そう、マドカの父親よ」


 えっ?

 マドカさんの子供ってことは……。


「あなたの孫」


 今まで存在の知らなかった娘、そして孫がいる事実。

 俺は軽いパニックだったが、すぐに不謹慎ながら幸せな気分になっていた。


「瑛子、今は幸せなんだな?」

「ええ。幸せよ」


 それだけで充分だった。





 三ヵ月ほどたったある日。

 マドカさんから携帯電話にメールが届いた。

 俺は彼女の訃報かと、身構えながらメールを開けた。


 そこには――

【今坂さんへ

 あなたには感謝しています。

 母はあなたに会えて、生きる気力を取り戻しました。

 母は生きてます。ずいぶん元気になりました。

 諦めていましたが、新薬などの治験に参加して奇跡的に病を克服したんです。

 母は、今坂さんより長生きするんだと言っております。ありがとう。


 追伸

 それから。もし、その気があるなら、孫に会いに来てもいいよ。】


 敬語と軽い口調がまぜこぜなマドカさんからのメールに、俺は涙していた。


 かつて愛した恋人と、家族の幸せを俺は切に願っていた。





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