ジャヴォーダン城の死闘 Ⅵ


 戦力の差は歴然?

 何を言っているのか。


 アルバートのモンスターでは亡者たちは倒せない。

 数においても無限に湧き出る亡者に分がある。

 血の河が尽きることはない。海と同じく、そこにあって当たり前の自然オブジェクトなのだから。河にはエネルギーの制限もない。


 アイリス自身でさえ、不死身にして無限の軍団など倒すことは手段は浮かばない。


 結末など、戦う前から決まっている。


 アイリスは黒い槍を、雨のように降らせる。

 突っ込んでくるアルバートを近づけさせないためだ。


 もし彼に勝機があるとしたら、金属の杖による直接攻撃だ。

 だが、それも届かせなければ意味はない。


 亡者の質量的な壁と、悪魔の技による、遠隔からの牽制を繰り返していればいい。


 悪魔の体に疲労はなく、睡眠はいらず、食事も必要ないが、一方で、アルバートはどれだけ強靭になろうと人間だ。


 必ず尽きる時が来る。


「泥沼の戦いを楽しみましょ♪」

「戯言を。すぐに終わらせてやる」


 ──10時間後


 アイリスはドラゴンたちの攻撃が届かないように、城内を駆け回りながら、血の河の影響範囲を広げつつ、ジャヴォーダン城をかき回していた。


「足はわたしの方が速いみたいね」

「いつまで逃げるつもりだ」


 朝焼けにはじまった戦いは、夕焼けを迎えていた。


 アルバートの顔には、露骨な不機嫌や、疲れこそ見えない。

 だが、動きの節々には雑さが表れている。


 アイリスはほくそ笑む。

 

 アルバートはわたしには勝てない、と。


 もちろん、近接はだめだ。

 観察と記録がある以上、負け必須であることは、アイリスが最も気にしている部分だ。


 そのため、アイリスは圧倒的な機動力でアルバートの追跡をかわすことにしていた。


 もちろん、転移魔術にも気をくばっている。

 だが、はなから心配はなさそうだった。


 アルバートは転移魔術をまったくと言って良いほど使ってこないからだ。

 不自然なほど出し惜しみをするその姿勢に、強力な転移魔術には、なんらかの制約があることは明らかであった。


「魔力方程式が解けたところで、使役魔術師がポンポン転移できること自体がおかしいって話よね」


 転移魔術を使わないアルバートや、彼の操るキメラたちでは、アイリスを相手にするのにいささか緩慢と言わざるを得ない。

 重力を無視して壁や天井も歩ける悪魔の足。足音を完全に消し、気配を絶つことに優れた悪魔のオーラ。


 標準装備が違う。

 種族として備えている武器の質が違う。


 アルバートは憎き敵に追いつくすべを持っていなかった。


 加えて、彼にとって不利に働くのは、ジャヴォーダン城全域に広がった血の河の存在だ。


 地獄のオブジェクトは、その途方もない神秘の力で、アイリスを援護していた。

 

 細い廊下を走っている時、定期的にアルバートの足は骸の手にひっつかまれ、壁からは、怪鳥のくちばしがいきなり突き出てくる。


 ジャヴォーダン城という地の利がアルバートにある他方で、アイリスもまた自分の地の利を完成させつつあったのだ。


 結果、アルバートは何時間も、何時間も、不毛な城内チェイスをさせられることになった。

 

 彼はありとあらゆる戦術を使ってアイリスを陥れようとしたが、血の河に守られた彼女を穿つには今一つ足らない攻撃ばかりだ。


「アイリス、君にはサウザンドラ家の魔術師としての誇りがないのか? 逃げまわっていないで正々堂々と戦ったらどうだ?」


 キメラたちで包囲網を作り、アルバートはアイリスを三度を追い詰めて、問いかける。

 

 アイリスはジャヴォーダン城の第二城壁にある演奏ホールの、その真ん中にいる。扉はすべて閉められている。


 アルバートは眉根を寄せて、眉間に皺を寄せ、心底不機嫌そうであった。


 我慢の限界らしい。


「いいわよ。でも、いいの? 今のあなた、さっきよりずいぶん弱そうだけど」

「戯言を」


 意気揚々と聖火杖を構えようとするアルバート。その白い細面を殴り飛ばしてやる。そう気炎を吐くが──直後、彼の顔面は、その横っ面を殴り飛ばされていた。

 

 目を白黒させ、焦点が合っていない。

 アルバートは、今しがた、なにが起こったのかわからない様子であった。


 続いて、黒い風のように振り抜かれるのは黒杭。アルバートは脇腹を叩かれ、うめき声をあげて、血に浸食されつつある演奏ホールに倒れこんだ。


「ほらね」

「馬鹿な……」

「動きがさっきから変だと思ったのよね。たぶん、いまのアルバートじゃ観察と記録を用いても、素面での力量差を埋められない。わたしを倒せないわ」


 アイリスは「今回も、わたしの勝ちになっちゃったわね」と、すこし嬉しそうに、けれど少し残念そうに言った。


「アルバートなら、もっと冴えた戦い方をしてくると思ったけれど。持久戦に乗るのは、あなたがもっとも選んではいけない戦いだったのに」


 アイリスが落胆をこもったため息をついて、倒れるアルバートを足で仰向けにする。

 

 その瞬間、アイリスは思わず息を呑んだ。


「ッ」


 ようやく気が付いたのだ──


「戯言を、戯言を、ざれごとを、ざれ、ざれ、ざ、きゃきゃきゃっ!」


 ホールに倒れていたソレが、アルバートではなかったことに。


 それは流体だった。影にしては、やけに艶やかで、濡れたような質感を持つ黒だ。

 その黒の塊の表面には、三日月のように開かれた口があった。白い歯を光らせて笑っている。


 この世の邪悪を具現化したおうな不気味さであった。


「アルバートじゃない……っ」


 そのことに気が付いた瞬間。

 アイリスは、自身が想像していた勝利の快感が、いっきに遠くへと突き放されたような暗い絶望に見舞われた。


 一体いつから?

 いつからニセモノの相手をしていたの?


 アイリスの背筋を冷たいものが走る。

 

「いやはや、大変お待たせした」


 演奏ホールの舞台上から声が聞こえた。

 

 アルバートが立っていた。

 それともう一人。見覚えのない男もだ。

 

 20代後半の男だ。

 灰色のスーツを着ており、手には革製手袋、ガッチりオールバックの金髪は、神経質そうな性格を反映している。


「実はこちらの都合でね。すこし手違いがあったんだ」

「手違い……? なんのことアルバート」

「はやく逃げればよかったのに、と古い友人として忠告をしようと思ってね。もっとも、もう遅いんだが」


 アルバートはこみあげてくる笑いを、咳払いで誤魔化してつづける。


「君はいつでも城から逃走できる状態にあったってことだよ」


 灰色スーツの男の肩に手を置きながら話す。


 アルバートにとってこの10時間の間における最大の懸念は、アイリスに城から逃げられてしまう事だった。”そのほかの懸念は一つもなかった”。


「守護霊はもうクタクタだ。物理的に君を捕縛するワザは、残念ながら今の怪物学会にはない。だから考えた。君に逃げられない方法を」


 アルバートは横の男を見やる。


「だから、専門家を呼んだ」

「ラータ、ルヴェ、コスモ──箱の中の宇宙」


 灰色のスーツを着た男はぼそりとつぶやく。

 手には魔道具と思わしき手のひらサイズの小箱が乗っていた。


 アイリスは目を見開き、すぐさま演奏ホールから逃げようとする。


 一目見て、小箱が『箱』だとわかったからだ。


「はは、この手の古典魔術を喰らわないのは君でも難しいだろう?」


 ハッとする。


 気が付けば、アイリスの視界には、暗闇に輝く星々が浮かんでいた。


 閉じ込められた。箱の中の宇宙に。


「古典魔術の専攻者は、魔術協会でも伝統を重んじる家ばかりなのに……よく『箱』の使い手なんて味方にできたわね、アルバート」

「苦労したよ。本当に」


 ドラゴンクランの暗部組織、封印部所属の魔術師。

 名前も知らないこの魔術師を返り討ちにしたあと、学会は死体を隠ぺいのために回収していた。なにかに使う予定はなかった。


 アルバートが積極的に人体を、研究のために使う時には、基本的にどうしようもないクズが採用される。

 封印部の魔術師は、倫理の破綻したクズばかりだが、まだ真っ当な部類だ。そのため、遺体は適当な保管庫に冷凍保存され、忘れられていた。


 彼の出番が確定したのは、つい10時間前だ。


 理由は悪霊によって、想定外に守護結界が破壊されたこと。


 これらがアルバートに名もなき封印部を思い出させた。

 結果、頭無し死体だった彼は冷凍庫からひっぱり出され、フェンリルやクラーケンといった怪物を復元した技術で、第三世代キメラの仲間入りを果たした。

 

「あと4手でチェックメイト──」


 瞼を閉じて、アルバートは思案する。


「もう逃げられない。これで正々堂々、1対1だ」


 アルバートは聖火杖を構えて、アイリスへ突っ込む。

 アイリスはアルバートから逃げつつ、封印部の男を攻撃しようとする。


 しかし、動きを完全に読まれているせいで、アイリスは男に近づけず、アルバートとの接近戦をせざるを得なかった。


 本物のアルバートの身のこなしは、流石と言わざる終えない。


「さっきのは、やっぱりニセモノだったわけね……っ!」

「影害獣。いわゆるドッペルゲンガーさ。優秀な擬態能力は何者にも変え難い一級品だ」


 答えながら、アイリスとつばぜりあう。


 聖火杖の銀の杖身と、黒より暗い暗黒物質で構築された黒杭が、火花を散らして、ギギギッ、と不協和音を夜空の世界に響かせた。


 パワーで押し勝つのはアイリスだ。

 だが、攻撃を一度ももらわずに、刺し返すのはアルバートだ。


 一進一退の攻防が繰り広げられる。


 アイリスは少しずつ増えていく体の傷と、アルバートの芸術的なまでに無駄のない、勝つための美しい攻撃の一手一手を数えていく。


 アルバートが優勢だ。

 だが、おかしなことに攻めきれない。


「巧くなってるな」


 アイリスは成長──あるいは進化していた。

 アルバートが完璧であるほどに、この才嬢はより学び、強くなっている。


 アルバートは思う。

 そうか。俺とアイリスにはここまで実力差があったのか。

 素面なら指先で消されてそうだ。


 さっき圧倒出来ていたのは、アイリスが俺を倒そうとしていたからだろう。

 だから、付け入る隙があった。


 今のアイリスは倒そうとして来ない。

 こちらの動きを紐解こうとしている。

 そしてなにより身体能力が指数関数的に増している。


 血の河との繋がりは現代の『箱』じゃ完全に遮断できないのか?


「うぐっ…!」


 ついには黒杭の一撃で、人類最高峰の身体の力を保持するアルバートの体幹が崩れるほどになってしまう。


 一方で、敵の強さに驚いていたのはアルバートだけではなかった。

 

 アイリスはあの時と同じ足音を聞いていた。


 ──もっと力が欲しいか?


 悪夢の世界で出会った紅い目をした悪魔。

 アイリスはあの時と同じ過ちを繰り返しそうになっていた。


 アイリスは思う。


 わたしは弱く、法外な代償をもとに力を求めた。

 でも、もう違う。わたしは強くなった。


 なのに……決別したあの悪魔に、またしても無意識に助力をこわせるなんて。


 アルバート・アダン。

 稀代の天才魔術師。流石、流石はアルバートだ。


 別れてからの5年間で相当な訓練を積んだのだろう。

 精神、魔術、肉体、すべて充実している。完全無欠とはこのことか。


「むう! こうなったら力づくで!」

「っ」


 アルバートを押しのけて、アイリスは指を擦り合わせる。悪魔の指の発動だ。アルバートの体が、強烈な衝撃波で吹っ飛び、封印部の男も巻き込まれてもちくちゃになる。


 同時に、夜空でおおわれた空間全体に亀裂が走り、崩壊しはじめた。術者が死んだからだ。


 直撃を受けたアルバートは、演奏ホールを飛び出して、城の壁を貫通、身体をあちこちにぶつけながら、受け身も取れずに第一城壁と第二城壁の間に転がった。

 

「……あはははっ、ああ! これは効く!」


 アルバートは賢者の石の消耗を確認して、嬉しそうに笑った。

 

 3度攻撃を受けた事で、観察記録の能力がアイリスの悪魔的フィンガースナップのトリックをわずかながらに解明したからだった。

 

「そうかそうか、悪魔の指先か。やけにその魔術だけ強力だと思った。回数制限、それも生涯において使える回数に限度があるのか」

 

 手の内を知られたことにアイリスは険しい表情をする。


「ハイリミット、ハイリターンはよくある古典魔術の理論だ。驚く事ではない」


 すっきりした表情のアルバートは、首を真上に向けて空を見やった。

 手が届きそうなほど近くに、白く薄い膜が張っている。


 アルバートの作戦は成功していた。アイリスが別の空間に閉じ込めれられ、血の河が停止している間に、守護結界は張りなおしたのだ。


 城全体ではなく、第一城壁と第二城壁のごく一部に限定した規模の守護結界だ。

 リンとさかな博士の合作だ。本人たちの相性は言うまでもなく最悪だが、守護の魔術に関しては理解があるようだ。


「このサイズなら血の河の王が近くにいても、すこしは持つだろう」

 

 逆に言えばこれは最後のチャンスだ。


「アルバート、あなたの心配は杞憂よ。わたしに逃げるつもりなんて毛頭ないんだから」


 真に強い意志を感じさせる眼差しだった。

 

 ああ……確かに、これは逃げなそうだ。

 だが、その可能性を捨てては”完勝”じゃない。万が一などあってたまるか。


「亡者たちよ、アルバートを止めなさい。ここで終わらせてあげるわ」

「アダンに連なる者どもよ、亡者を止めておけ。勝ちに行く」

「っ、……なっ!」


 アルバートの覇者の指令の前に、アイリスの指示は虚しく響く。

 亡者もアラクバーバーも、圧倒的な戦力差を持つ竜の軍隊と、最強の人造人間を筆頭に、強者たちからなる学会キメラによって完封されていたのだ。


「血の河の亡者は無限に湧くのに……っ、これは思ったより……」

「毎分1,000体亡者を沸かそうが、学会は5年も前からモンスターのストックを作って来た。それに、うちのキメラたちは世界最強のモンスターだと自負してる。脆弱な亡者などで倍の数を揃えても対等じゃないと知れ」


 アルバートは両手に聖火杖を持ち、肩の骨を鳴らす。


 アイリスはようやく理解する。

 彼はただ勝とうとしているのではない。

 100%勝とうとしている。

 逃亡の余地をあたえず、逆転の余地をあたえずに、盤石な勝利を組み立てている。


「守護結界の半径は100mに絞った、逃げ場はないぞ」

「っ、まさか守護霊の魔術まで使えるなんて……ほんとに多才ね」

「……。チェックメイトまであと2手だ。さあ、踊ろうか、悪魔嬢」

「むう……っ、いいわ、受けて立ってやろうじゃない!!」


 第二城壁と第一城壁のあいだに、血の河が厚く広がっていく。


 熱く煮える血の上で、湧き出る亡者と、それをモグラ叩きのように殲滅していく学会のモンスターたちに見守れるなか二人の決闘は終局へと向かっていった。


 圧倒的な強さを誇るアルバートを前に、アイリスの感覚は研ぎ澄まされていく。


 まさか、こんな事が!

 自分が”挑戦者”になる時が来るなんて!


 今まで破壊的な血の暴力で魔術師を打ち倒して来た。

 どんなツワモノにも負けた事はない。

 アルバートでさえも例外ではなかった。


 アイリスは高揚していた。


 かのアイリス・ラナ・サウザンドラが、敵の攻撃を凌ぐ事で精一杯だ。

 しかも、退路は断たれ、無限の戦力はすべてを無力化されている。


 彼女にとって、初めての経験。

 敗北の予感は、アイリスは新しい境地へと到達させつつあった。

 

「負けたくない……ッ、絶対に負けたくないっ」

「それこそ無駄だ。君が強くなってるのはわかるが、観察と記録のほうが速い」

「あああああああ!! 練血秘式・双竜討ち!」


 満身創痍の体を血の河のチカラで癒し、血反吐を吐き叫ぶアイリス。

 血の河を使って、有り余る血量で長さ120メートルにも拡張された血の刃をつくりだすと、ムチのようにしならせて、超高速で空中に軌跡を描く。


 赫い残光が、アルバートへ迫る。


 アルバートは体をそらせて、最小限の動きでかわした。

 彼の背後で、斬撃波で切断された城の塔が崩れ落ちていく。


 2人の距離は100m。


「あと一手だ」


 アルバートは足に力を込めて血の河の血面を踏み切る。

 ただの2足でアイリスとの間合いを詰め、聖火杖を振りあげる。


 かろうじてアイリスは、胸前で腕を十字に固めて殴打を防いだ。


 だが、身体は大きく吹き飛ばされてしまう。


 壁に叩きつけられたアイリスは、気力を絶えさせずに、カッとアルバートを睨みつける。


 すぐさま血の流れで摩擦を生み出し、燃え盛る炎を血の双剣に纏わせた。


 アルバートは構わずトドメを差しに、せまって来る。

 

 彼は油断してる! ここしかない!

 すべてを見切れる敵を倒せるとしたらこの瞬間だけだ!


 全霊の魔力を刻印に流し込む。


 身体はボロボロだが、気力は最高潮だ。

 人生最高のコンディションと言っていい。


 後にも先にも、めぐり会えない最高の敵が、いまだ眠る力を覚醒させてくれた。


「練血秘式・星落としッ!」


 すべてを賭ける。

 全身全霊の無双の一撃。


 最速、最長、最強の絶剣。

 かつてアルバートを仕留めた夜空を穿つ、至宝の赫槍がついに抜かれた。


 お願い、これで倒れて──。


 槍とは名ばかりの、赫い光線だった。

 放たれた膨大な魔力と、赫槍の空気を押しのける余波だけで、地面と付近の城壁が赤熱に飲まれ、血が一瞬で気化して、城壁ごと蒸発する。


 無慈悲な暴虐は光と爆音となって、場にしばらく残り続けた。


 すべてが収まったあと、アイリスは恐る恐る目を開けた。


 全身がすさまじい疲労感に見舞われていた。

 未来が見えているとしか思えないほど、すべてを見切れる者を倒すために、その未来すら追い越さんとして魔力を放った。当然の代償だ。


 槍の射線上、ブクブクと泡立つマグマの向こうに人影が立っている。

 夜空の星を落とす赫槍は──アルバートには当たっていなかった。


「流石に速い。絶剣・星落とし」


 アルバートは赫槍に肉体を貫通された第二形態ダ・マンの後ろから、冷や汗を拭って出てきた。


 アイリスは目を見開く。


 まずい……外した!


 すぐさまにアイリスは赫槍を解除する。

 いう事を聞かない体に鞭を打って、体内に血を戻す。

 すぐに次の攻撃に備えようとし──彼女は動きを止めた。


「あっ、うぐ!?」


 急に心臓を押さえて苦しみ出した。

 アイリスは血の刃を取り落として、苦しそうに血の河の上に倒れた。


「な、なに、これ……っ!」

「最初に考案した、対『血の一族』用の武器だ」


 アルバートはゆっくりと歩いて近づきながら、ダ・マンを手で示した。


 心臓を貫かれて活動を停止したダ・マンの胸に、ポッカリ空いた穴から青い液体が漏れていた。


「ペイルブラット。いにしえの種族が持っていたとされる特別な血を模して学会が開発した。現存する『赤い血』を持つ地上生物たちにとっては激毒だぞ」


「あっ、ぅぅ! ぐぅ!」


 苦しむアイリスの足で仰向けにさせ、アルバートは馬乗りになって聖火杖を高く振りあげる。


 勝った。

 間違いなく、これは勝ちと言えるだろう。


「……」

「ぅぅ、ぐぅ!」


 いつでも殺せる。

 さあ、この時を待ってたんだろう、アルバート・アダン。


 自分に言い聞かせるように、聖火杖を握り直して、アイリスののど元に付きたてる。


 ペイルブラッドに苦しむアイリスは、涙を流しながら、必死に自分の体から混入した血をかきだそうと、力なく細い首を搔いていた。

 

 その姿に胸が締め付けられた。

 彼女がこんなにも苦しんでいるのに、俺はなにをしている?

 こんな姿が見たかったわけじゃないだろう?


「そうか……終わったのか」


 アルバートは正気に戻っていた。

 長い呪いから解放されたのだと、気が付いた。


 自分のなかにもう、魔王がいなくなっている。

 黒い衝動など、嘘のようになりをひそめている。


 求めていたのは殺害ではない。

 あの日、負けた雪辱を晴らすこと。

 ただ、それだけだったんだ。

 

 邪知暴虐の魔女などいなかったとわかっても、なお、魔王は居続けた。


 彼の目的が死闘を制することだったからだ。

 全能力、秘術のすべてを結集した競い合いを制さなければ、あの汚泥を舐めた日に受肉した悔しさは、納得しなかったんだ。

 

 だが、それも終わり。

 俺は勝ったのだから。


「アイリス…………様、ぁぁ、なんてことを……」


 自分の幼稚さに脱帽するアルバートは、すぐさま聖火杖を投げ捨てると、アイリスを抱きかかえて走り出した。

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