待ちわびた平穏と黒い衝動(?)
視界いっぱいが白光に覆われる。
次の瞬間には、足元から水に落ちる肝の冷える驚きにみまわれた。
かと思えば、水中に沈む感覚はない。
まるで薄い水の膜に、走って飛び込んだかのような一瞬の湿潤であった。
アイリスと血の騎士たちは、『出口』から目的地へと放り出さられた。
左右に首を動かして、どこへ移動させられたのかを確認する。
屋内だった。天井は高く、円柱状の空間だ。
かなりの規模であり、円柱状の空間部分は直径100mはありそうだ。
これほどの規模の建物は、都市にいくつもない。そして、内装に見覚えもあった。アイリスは自分がどこにいるのかをすぐに理解する。
ここはアルバートが魔術王国内の各所に設置した都市間を繋ぐ転移ゲートステーションだ。
設置されてから、しばらく経った今、これら転移ゲートステーションは、市井からの信頼を得て、確固たる地位を獲得した交通手段だ。
特に王都の転移ゲートステーションは毎日数千人の利用客がいる。怪物学会はそこから少なくない利益を得ていると噂されているほどだ。
そのため、都市間を移動できるこの大転移システムは、怪物学会の最大の発明として認知されている。
魔術に関わらない一般市民を捕まえて、学会のことを聞けば「ああ、あの塔の管理会社ね!」と10人中6人が答えるだろう。
アイリスは足元に視線を向ける。
塔の中央床にある、光りを発する円盤、あれがゲート本体だ。
今はそのゲート本体を含めて、転移ゲートステーション内には、広く浅く水が敷かれている。まるで洪水によって構内に水が侵入したかのような有様だ。
「みんな、警戒を怠らずに」
緊張に息を呑む血の騎士たちへ、アイリスは穏やかな声で言う。
「アイリス様、アルバート・アダンの姿がありません。奴はどこに?」
注意深くあたりを観察して気配を探るサアナは、アイリスの傍に寄りながら聞いた。
アイリスは迷いなく「あそこよ」と、視線を転移ゲート本体へとむけた。
水面が波紋を起こす。揺らいだ水鏡から、スーッとアルバートと白衣の老人が浮きあがってきた。
動きが人間的でない。
アイリスたちは、彼がなにか別の存在から、力の干渉を受けている印象を受ける。
真っ先に浮かんだのは、先程見せられたスーパーナチュラルと呼ばれるモンスターだ。
アイリスは鋭く察していた。
あのモンスターは特別だと。内包する魔力の量から考えても、あの存在が記憶を読み取るだけの機能を備えたキメラではないと。
「ヨーデルヨーデルヨーデルヨーデルヨーデル、ヨーデル、ぺっぽぱー! おお、鮮血の侯爵夫人発見! これより攻撃を開始しゅる! 全軍、電光石火の進軍開始!」
両手を頭の上にあげて、くるくる回転しながら白衣を着た老人がはしゃいでいる。
アルバートは隣でまったく別の世界観をかもしだす狂人を気にしない。ゆっくりと茶色い外套から、白衣に袖を通していた。
「アイリス様、奴の隣にいる変態は?」
「侮ってはだめよ。あの老人は怪物学会のブレイン『狂気の碩学』、驚異的な魔術師だと言われてるんだから」
『狂気の碩学』──その名前は、怪物学会に興味はある者たちにとっては、わりあいと有名なビッグネームであった。
血に騎士たちはごくりと生唾を飲み込み「あれが学会幹部、コードネームさかな博士!」「怪物学者の右腕、いったいどんな恐ろしい奴なんだ……っ」と緊張感を増していく。
「ありゃりゃ? ワッチが所長だとバレてる?」
「だから、名札をつけて外を出歩くなと言ったんだ」
「信じられんッ! スパイを探し出すのだ! 裏切り者を殺せ、殺せ、殺せ! 帝国のために何としてもお地蔵さんに魂を聖歌を練り上げるのだ!」
「博士、7+7は」
「14!」
「7を足していけ」
「えーっと、14+7が29だから──」
博士は難しそうに計算に集中しはじめた。
静けさが戻ってくる。
湖面を切り取り足元にカーペットとして敷いたような幻想的な巨大空間。
アイリスはアルバートを見つめている。
さかな博士などに興味はなかった。
アルバートもまたアイリスを見つめている。
さかな博士には黙ってて欲しかった。
世界には、俺たち、わたしたち、ふたりだけでいい。
お互いを気持ちは恐らく違わない。
アルバートは「騎士どもを足止めしとけ」と、計算に集中しているさかな博士に小さな声で伝える。
「デートしてくるのかい??」おちゃらけるさかな博士。「一方的に俺が勝つ」それだけ言うアルバート。さかな博士は嬉しそうに微笑み「なんだ。とっくにハッピーエンドだ」と言った。
「アイリス殿、こちらへ。あなたために特別なパーティー会場を用意してます」
アルバートは長距離転移のための、ステーション中央のゲートへアイリスを誘う。
「サアナ、行ってくるわ。ここは任せますよ」
「危険過ぎます……! 恐らくゲートの先はあの時の湖のような計算された死の檻です! みすみす殺されに行くようなものです!」
「大丈夫よ。わたしは死なないから。一度、その死の檻からも生きて帰ってるしね」
「アイリス様!」
蛮勇としか言い表せない行動であった。
ただ、多くはそう考える一方で、アルバートは強い魂の輝きを見ていた。
彼女はまだ、俺を救う気だ。
アルバートはため息をつく。
自分への失望からだ。
君が尊いほど、俺は救われない。
君が正しいほど、俺の時間は無意味になる。
やがて、アイリスはアルバートの隣にたどり着き、2人はゲートの上に並んで立った。
「スーパーナチュラルだったかしら。あのキメラでわたしの記憶を読み取れなくても、記憶司法裁判所を使えば、わたしの無実を証明することは難しくないと思うわよ」
「そんなんじゃないんだと、わかったんです。情けないが、もう俺には後悔することしか道が残されていない」
「いつだって選択肢が一つしかないなんて事はありえないわ」
「もっとはやく助けて欲しかった」
この女を殺す。
そして、地獄に落ちる。
そうしなければ、この魂を拘束する呪いからは解放されない。積み上げてきたすべての犠牲と、己が魂への嘘が無駄になってしまう。
「城の7番ゲートに繋げ」
アルバートは足元に声を落とした。
塔の地下に埋められている転移ゲートステーションの管理者、ゲテングニッシュ・ゲートドラゴンへ指示を出したのだ。
ゲートの輝きが一気に膨らんだ。
直後、王都転移ゲートステーションからアルバートとアイリスの姿は無くなってしまった。
「さて、騎士たちくん、754+7の答えがわかるかな?」
水面から伸びてくる無数の吸盤のついた触手を背に、さかな博士は楽しげに言った。
血の騎士たちは抜剣し「あの変態を倒して後を追うぞ!」と『狂気の碩学』へ挑戦した。
─────────────────
光が晴れると、そこは暗い部屋だった。
転移ゲートステーションと同じような作りの大きな円柱状の部屋だ。ただ、使われている形跡がなく、埃っぽい。
「ここは?」
「公には使われてないゲートです。主に俺や学会の限られた人間にしか使えません」
アルバートはゲート周辺の設備を紹介していく。
「実はゲートの下にはドラゴンがいるんです」
「ドラゴンが? それはまたどうして」
「ゲテングニッシュと呼ばれる、既存の転移魔術とはまったく違う、空間を超えた移動を行えるキメラの開発に成功したのですが、この個体だけでは、どんな環境でも安定しなくてですね」
アルバートは怪書からダ・マンを1体召喚して、床にはまったゲートを持ち上げさせた。
「ゲートとは言っても、これはただの綺麗な模様をした光る床です。本当の機能はものではなく、アレに宿ってます」
ゲートを持ち上げた下にあったのは、暗黒だった。ひんやりとした冷気が穴から上がってくる。
「すごく寒いわ」
「塔の管理者に適した環境に調整されてるんです」
アルバートは小さな火の玉を、ゲート下の暗黒の穴に投げ込む。
わずかな明かりのおかげで、塔の遥か下に丸まって眠るドラゴンの姿がうっすらと見えた。
「ゲテングニッシュ・ゲートドラゴン。あれ一体を召喚するのにいくら魔力が必要だと思いますか?」
「うーんと、確かファングが消費魔力『5』だったから、1万倍の『50,000』くらいね!」
「10万倍の『500,000』です。このドラゴン一匹を売るだけで、ちいさな城が建ちます」
アイリスは目を丸くして、もう昔とは違う規模でアルバートが動いているのだと、改めて実感することになった。
進化したキメラを自慢できたアルバートは、すこし満足げだった。
──しばらく後
アルバートは第三城壁内にある中央区画で、親愛なる殺害対象に施設を案内しながら、デートを行った。
とはいえ、目的地である、ジャヴォーダン城で一番高い塔へと登るまでの、ごく短い、デートだが。
塔の頂上に登ったアイリスは、駆け出して、縁から身を乗り出した。
「ここから湖が見えるわ。とっても綺麗ね!」
「一時期はアンデットの巣窟でしたけどね」「へえ、それじゃ、アンデット湖って言うのかしら?」
「え、湖の名前ですか? 名前は……たぶん、ついてないんじゃないですかね」
「あっ、思い出したわ、そう言えば、ノエルから聞いてたんだった。たしかアルバート湖って名前がついてたんじゃなかった?」
「その話題はやめましょう」
「ふふ、自分の名前をつけるなんて、アルバートって意外と小っ恥ずかしいことやるのね」
「俺がつけた訳じゃ……気がついたらジャヴォーダン市民たちの間で、その名前が定着してただけです」
ちいさな笑い声が2人だけしかいない塔にこだまする。吹き抜ける風の音にすぐ、かき消されてしまったが、昔を思い出すことは出来た。
アルバートは遠くへ視線を向ける。
かつてのアダン屋敷があった、ジャヴォーダンの第一城壁、先日の第四鬼席、第五鬼席との戦いでボロボロになった区画の方角だ。
「俺の父ワルポーロと、屋敷、死んでいったアダンの仕えた者たちの仇はもういない」
風に吹き消されそうなか細い声。
アイリスは静かに聞く。
「人間がもっと科学的で、スマートな思考を行えるよう設計されていればよかった」
「もしそうだったら、熱もなく、愛もなく、情もないわ。今よりずっと無機質なになってたんじゃないかしら」
「そうですかね。でも、少なくとも今、俺が人間を、キメラたちのようにデザインし直せるのだとしたら、的外れな復讐を保持させる感情は取り除くと思います」
風が吹きやんだ。
邪魔者は誰もいない。
人も、音も、何もない。
「アルバート、あなたはわたしを殺したいのですか」
「わかりません。憎くはないはずなのに、怒りの対象ではないと頭では理解してるつもりなのに──積み重ね、磨き上げられた気持ちは、あなたを殺す事を望んでいる。この感情を抑えるのは困難でしょう。俺があなたの事を愛さないと宣言し、『破れぬ誓約』の文面に残すのと同様に非常に難しいことだ」
「なっ……。ふ、ふーん。ずいぶん素直になったのね。あいも変わらず迂遠な言い回しだけど……そ、それは、告白と受け取って良いのかしら?」
「構いませんよ。どうせ、アイリス殿が俺のことを、俺以上に愛してることは、スーパーナチュラルのおかげで嫌と言うほどわかりましたから」
「っ、あ、あの怪物にそんな能力が……っ」
スーパーナチュラルにしっかりと記憶を覗かれていたことを知った途端、アイリスは狼狽えはじめた。
まずい、どこまで見られたの!
事と次第によっては、本当に『破れぬ誓約』で口を封じないと!
「ええ、あの時、よく私物がなくなると思ってたんですよ。いえ、これはただの独り言なので、気にしないで欲しいんですけど」
「へ、へえ! そんな事がっ! 勝手にものがなくなるなんて不思議だわ、へえー!」
「よく下着も消えてましたね。ハンカチもです。マグカップも無くなっていたかな? ああ、気にしないでください、これも独り言なので」
「や、やめてくだしゃい……っ、お願いします……! ぅぅ、それ以上はわたしの尊厳が保たないわ……っ!」
瞳を潤ませて懇願するアイリスへ、アルバートは薄く微笑みをかえした。
楽しい。
本当に楽しい時間だ。
お互いが心の底から愛し合ってると、今なら確信を持って言える。
自分がどれだけこじれた思考で、悪い方向へ悪い方向へ、考えを深めていったかわかる。
ようやくわかりあえた。
なのに……なのに、もうダメだ。
この塔に登る間に、なにかが変わってくれると期待したのに……状態はむしろ悪くなってる。
美しい彼女の顔。
いつの間にか紅くなった宝石の瞳。
これを見てると、血に濡れた湖が蘇る。
ああ、なんてことだ。
殺したくて仕方がない。
準備したすべての秘術でもって、この綺麗な顔を血で濡れた泥に沈め、腹を蹴り上げ、自分の負けだと認めさせたい。屈服させたい。
「とにかく、コテンパンにしたくて仕方がない」
「っ、こ、こて……。っ、ぁぁ、もしかして、アルバート、あなたはただ──」
これが殺意なのかわからない。
しかし、確かな事はある。
魂に渦巻く黒い衝動は、今なお消えてはくれず、むしろどんどん大きくなっている事だ。
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