第12話 初めまして、結婚しましょう。
その日は快晴だった。
青く抜けるような空を見つめる余裕もなく、私はひとり膝の上に置いた手を何度も組み替える。
花嫁の支度をするための控室。
その壁紙は、様々な色のドレスを纏う花嫁たちの肌を一層美しく見せるような優しい白。
ここで写真を撮影することも多いからだろう、目の細かいレースカーテンから柔らかな自然光が差し込む窓は、一畳ほどもある大きなものだった。
……どうしよう、まだ始まってもいないのに緊張してきた。
目の前に置かれているのは100年以上前からあるという、この結婚式場の歴史を感じさせるような飴色のドレッサー。
大きな鏡の中に映っているのは、プロのメイクさんにガッツリ作られたはずなのに、あまり変わらなかった地味な自分の顔。
その頭に載ったティアラ、そして纏う白いドレスのあちこちに散りばめられているのは本物のダイヤだ。
それを見て遠い目をした。
……私、今日の主役のはずなのに完全にティアラとドレスに負けてる……いや、本物のダイヤに勝とうなんて思ってもないけどさ……
息を吐いて鏡から視線を外す。
そして朝から何度も確認している、タイムスケジュールが書かれた進行表を眺めた。
しかし、その内容は緊張しすぎているためか、全く頭に入ってこない。
進行表の一番下に印字されているのは、芸能人がよく挙式を上げている超有名なホテルの名前。それを見つめもう一度ため息をつく。
……まさか、セイさんの親族に有名な人がいるなんて想像もしなかった。
いや、あんな高い鰻屋の常連なんて、セレブ以外のなんでもない……?
眉を寄せ、私はそれをドレッサーの上へと戻す。
……仕方ない、こうなったらお式が始まるギリギリまで『ひゞき 隆聖』先生の本でも読むか……!うんうん、緊張を解きほぐすためには仕方がない!!
なんだかんだと言い訳をつけて、私はこっそり鞄に入れてきた文庫本を取り出した。
その時だった。
コンコン、と扉をノックされて私は反射的に立ち上がった。
「は、ハイ!!どうぞ!!」
そう声をかけて扉の方へと体を向ける。
真っ白でフワフワのドレスは、あまり体を動かすのに向いていない。
動き回るなら付き人のスタッフさんを呼ぶべきなんだろうが、生憎セイさんの支度の確認でいまこの部屋にいるのは私だけだった。
ドレスをどう持ち上げて歩こうかと考えているうちに扉が開いた。
その扉から顔を覗かせたのは、眼鏡をかけ白い髭を蓄えた、見たことのないおじいさんだった。
「え……っと……?」
戸惑って首を傾げると、おじいさんはにこやかな笑顔を浮かべ私に問いかけた。
「失礼……ここは瀬谷杏子さんの控え室で間違いないかね?」
「は、はい!!」
全く面識がないけれど私の名前を知っているということは、このおじいさんはきっとセイさんの関係者……というか親戚に違いない。
おじいさんはダークネイビーのスリーピースのスーツに、ストライプ柄のネクタイを締めており、私のおよそ考える『おじいさん』とはかけ離れていた。
彼は一瞬真顔で私の瞳を見つめ、その後優しそうに笑ってこちらに向かって両手を差し出した。
それにつられて両手を出すと、ぎゅっとそれを握りしめられる。
おじいさんは私の手を握ったまま、ぶんぶんとそれを上下に振った。
「いやあ、あなたには本当に感謝している!いつまでもちょろちょろすると思っていた、あの腕白坊主が結婚するとはなあ!しかもこんなに純粋そうな娘さんと!」
……わ、わんぱく坊主?
私の知るセイさんと繋がらないその単語に首を傾げながらも私は言葉を返す。
「えっ、あっ、ありがとうございます……?」
「杏子さんだったか、それできみはいつ、ウチに来るんだね?」
「えっ、う、ウチに……?」
「ああ、
「えっ?あの……?えっ?!」
セイさんからは何も聞いていないが、彼は結婚した後このおじいさんと同居する予定なのだろうか?
どう返事をしたものか考えていると、おじいさんはハッとしたようにドレッサーの方を見つめた。彼の驚いた様子に、何かびっくりするようなものがあったかな、とそちらに目を向ける。
「あれは……”ひびき”の?」
目を丸くしたおじいさんに尋ねられて、そう言えばさっき小説を読もうと取り出したことを思い出した。
「あ……ハイ」
短くそう言うと、おじいさんの目の色が変わった。
「……きみはどの作品が好きなんだ?」
「えっ?」
「”ひびき”の作品だよ!俺のお勧めはもちろん『井戸の中』だが、『宵闇』も捨てがたい!」
その熱い言葉に、同志の気配を感じて思わず頬を緩めた。
お、おじいさん……まさかの『ひゞき 隆聖』ファン?!
それにテンションが上がった私は、先ほどとは逆におじいさんの掌をきゅっと握りしめる。
「ああ〜!いいですよねぇ、『宵闇』!私も大好きです!」
そう言うと、おじいさんはニコニコしたまま言葉を続けた。
「いやあ、本当に
私はおじいさんの掌を握ったまま「うん?!」と首を傾げた。
おじいさんは笑顔のままウンウン、と何度も頷く。
「いやあ良かった良かった、こんなに早くきみを説得できるとは!じゃあ早速
おじいさんがそう言いかけた時だった。
バン、という音とともに突然扉が開いた。
「……そこで何してるの?」
眉を吊り上げ、顔を引き攣らせながら入ってきたのはセイさんだった。
彼が着ているのは僅かに紫色が混ざった、真珠のような光沢を帯びたタキシード。その中に着ているのはライトグレーのこれまた光沢を帯びたベスト。彼の首元を彩るのは淡い紫のアスコットタイだった。
事前に話し合い、式当日までお互いの衣装を秘密にしていた私は、セイさんの格好に思わず見惚れる。
しかしそれも長くは続かなかった。私の隣から聞き慣れたあの音が聞こえてきたからだ。
「チッ」
えっ?
セイさんが目の前にいるのに、なぜこの音が?
音のした方向に首を巡らせると、先ほどまでニコニコしていたはずの優しそうなおじいさんは表情を変え、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「……なんだ
そう言ったおじいさんの印象は先ほどと全く違っていた。
嫌な予感がひしひしとし始めた私は、握りしめていたおじいさんの手をそろっと離す。
しかし、私のその掌は再びおじいさんに掴まれた。
「ひえっ!!」
おじいさんは先ほどの穏やかな微笑みが思い出せないくらい、悪い顔で笑いながら私の両掌を握りしめる。
「なァ
熱に浮かされたようなおじいさんの言葉に、セイさんは心底嫌そうに顔を歪めた。
「……これだから爺さんと杏子ちゃんを会わせたくなかったんだ……!!さっさと親族控室に帰ってジジイらしく座っててくれないかな!!」
セイさんはそう言いながら、力づくでおじいさんを私からひっぺがした。
そしてバスケットボールの選手のように両腕を広げ、おじいさんを扉の方へと追い立てていく。セイさんの高い背に遮られたその先で、おじいさんは大声でがなり立てた。
「坊主!偉くなったもんだな、ええ?!……いつからこの俺にそんなクチを訊けるようになった?!まだ借りは返しきってねえだろうが!!」
「爺さん、ヤキが回ったんじゃない?!店の開業資金として借りた金は利子までつけて、とうの昔に返し終わっただろう?!認知に問題があるならいい老人ホームを探してあげようか?!」
「俺が言ってるのはなァ、ケチな金の問題なんかじゃねえ、生まれた時から面倒見てやった借りよ!」
「悪いけど爺さんに世話になった借りはその都度返してるから!とりあえず早く戻って!!」
2人は丁々発止のやりとりを繰り広げつつ、扉の外へと消えていった。
後に取り残された私は呆然としたまま、ぽすんと椅子に腰を下ろす。
「……い、今のは一体……?」
*****
それからしばらくしてやって来た、ウエディングプランナーさんと付き人のスタッフさんと式の流れを確認して。
一息ついた頃になってようやく、セイさんは戻ってきた。
いつも余裕を見せているその顔には疲れが見えて、心配した私は彼の顔を覗き込む。
「セイさん……?大丈夫?」
「ああ、杏子ちゃん……さっきはごめんね?今日のドレス姿、すごく似合ってる」
はあっ、とため息をついて眉間を押さえそう言ったセイさんの顔は物憂げで、なんだかいつもより色気が増して見えた。
先ほどは気がつかなかったが、いつもは真ん中で分けられているその髪の分け目は7:3になっている。
緩くウェーブを描く前髪は根本から立ち上がって後ろへと撫でつけられており、髪全体がスタイリング剤で風呂上がりのように艶めいていた。
セイさんはそのまま、部屋に置かれていたロココ調の白いカウチソファーへと座って足を組む。
すこし落ち着いた頃を見計らって私はセイさんに声をかけた。
「セイさん、さっきの人は……?」
そう言うと、セイさんは眉をしかめたままソファの背もたれに凭れかかって天井を見上げた。
そのままたっぷりの間を置いて、短く答える。
「……僕側の主賓」
「えっ」
2人で話し合って決めた、今日の披露宴の規模は当初、40人とかなりこじんまりしたものだった。しかし、セイさんの親族の偉い人が急に出席することになり、その人の関係で招待客は当初の3倍以上に跳ね上がった。
私がそれをプレッシャーに感じると思ったのか、セイさんはどんな人たちを招待しているのか、一切今日まで秘密にしていた。
私は恐る恐る尋ねる。
「じゃ、じゃあ有名人って……あの人?」
「…………そういうことに、なるのかな」
セイさんは認めたくない、とでも言いたげに大きく息を吸って天井に向かって吐いた。
「『
「えっ」
「多分知らないと思うからもう一つ言っておくけど、杏子ちゃんが大好きな『ひゞき 隆聖』はね、本当は
「えっ」
「……ウチの亡くなった祖母はね、彼女の才能に惚れ込んだ
「えっ」
「多分その
「えっ」
もうどこから突っ込んでいいのか分からず呆然としていたその時。
ノックの音がして、写真撮影のために男性のカメラマンさんが入って来た。
「失礼します。新郎の方、恐れ入りますが控室の窓際に佇むシーンを撮らせて頂いてもいいですか?」
そう声をかけられたセイさんはカウチソファから優雅に立ち上がり、いつもの嘘くさい笑顔を浮かべる。
「はい、どちらに立ったらいいでしょうか?」
「あ、その辺の窓際で……そうですね、ソファに手をついてこちらに目線いただけますか?」
またも取り残された私は、唐突に始まったセイさんの撮影をぽかんとしたまま眺めた。
しばらくフリーズし、やっと先ほどの彼の言葉が脳まで達した私は顔を青くする。
「えっ……えええっ?!」
*****
セイさんを撮り終えたカメラマンさんは、次に私へとカメラを向けた。
私はセイさんに先ほどのことを詳しく聞きたくてたまらなかったが、カメラマンさんの仕事の邪魔をするわけにもいかない。
それに気づいているのかいないのか、セイさんはカウチソファに座ったままふっくらとした唇を持ち上げ、満足そうにその瞳を細めた。
私はカメラマンさんに言われるがままドレッサーに座ったり、部屋に備え付けられた等身大の大きな三面鏡に姿を映してみたりしながら写真を撮られる。
何枚も写真を撮った後、カメラを胸元へと降ろして彼はセイさんを振り返った。
「じゃあ、つぎはお2人でお願いします」
セイさんがそれに鷹揚に頷いて立ち上がり、ゆっくりと私に近づいてくる。
私は彼に向かって唇を尖らせて見せた。セイさんは私の表情を見て両眉を上げる。
「どうしたの、そんな顔して」
「……セイさんは言葉が少なすぎます!……勝手に婚姻届を出した後にそれを言い出したこともそうですし……!」
そう言いながらカメラマンさんの方をちらっと見ると、彼は胸元に下ろしたカメラをいじっていた。どうやら先ほどの写真を確認しているようだ。
「……そう?必要なことは言っていると思うけど?」
自らの柔らかい唇を触りながらセイさんはニヤッと笑う。
私は頭二つ分背の高いセイさんを少しだけ睨んだあと、ぷいっと顔を逸らした。
「セイさん、気づいてます?……今まで一度もプロポーズとかしてないの」
彼はふっと吐息だけで笑って私の耳元へと顔を寄せ、カメラマンさんに聞こえないような声で囁く。
「毎晩いっぱい可愛がってあげてるのにね……いまさら言葉なんて必要?」
セイさんはカメラマンさんから見えないように私の腰に触れる。
昨夜の秘め事を漂わせるその触り方に、びくっと体を震わせ顔を赤くした。
「……っ、ひ、必要な言葉もあるんですッ!」
彼を再び見上げてそう言い返すと、セイさんは少年みたいに顔をくしゃっとさせ笑う。
それに胸をドキドキさせながらも、私は唇をへの字にする。
今日という今日こそはそんな笑顔に騙されないんだから!
私の顔を見下ろしたセイさんは、そのままカメラマンさんの方を向いた。
いつの間にか確認は終わっていたらしい。カメラから顔を上げた彼はこちらを向いていた。
私はカメラマンさんの前でいちゃついてしまったのかと、恥ずかしくなって頬を押さえる。
セイさんは彼に対して穏やかに声をかけた。
「……すみません。これから撮っていただきたい写真があるんですが、いいですか?」
「え?あ、ハイ」
一体何をするつもりだろうと思っていると、セイさんは唇の両端を持ち上げ、甘い声で囁いた。
「必要な言葉、ね……じゃあ、最初からやり直そうか?」
「さ、最初から?」
その言葉の意味がわからず驚いた私と向かい合って、セイさんはまるで忠誠を誓う西洋の騎士のように跪いた。そして顔を上げこちらの瞳を見つめながら、私の手を温かい両掌で優しく包み込む。
セイさんはにっこりと口角を上げ、爽やかな笑みを浮かべた。
彼の口元には色っぽい
そのままセイさんは私の手の甲に、ふっくらとした唇を優しく押し付ける。
カメラのシャッター音が遠くで聞こえた気がした。
どくどくと心拍数を上げていく心臓が痛い。
ゆっくりと顔を上げた彼は私の瞳を見つめ、口元の
腰にぞくぞくクるような極上の声で彼は言った。
「初めまして、結婚しましょう」
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