第11話 おうちにかえろう 後編
『おうちにかえろう』
そうは言っても、着替えやら化粧品やらの準備が必要なのが女性というもので。
私たちは結局一度私の家を経由し、必要なものを用意してからセイさんの家へと向かった。
手を引かれて向かったセイさんの家は急行の停車駅そばの、建ったばかりの高層マンションだった。
まるで大企業の本社ビルみたいな外観のそれに、私は唖然として言葉を失う。
石のタイルが整然と並んだアプローチを何の感慨もなさそうに踏み、ピカピカの真っ白な大理石で出来たエントランスについたセイさんは「ちょっと待ってて」と言って鍵らしきものをポケットから取り出した。
彼が立ち止まった場所は自動ドアの前にある数字のついた、インターホンのような機械の前だった。セイさんはそこに鍵をかざし、いくつかの数字を入力する。
きっとこのマンションにはあの鍵と、パスワードがないと入れないような仕組みになっているのだろう。
……ストーカー女に追いかけられた時、家のポストを覗くことすら怖くて『セイさんはいつもこんな思いをしているのかもしれない』なんて思ってたけど……全然世界が違った……
思わず遠い目をしながら虚空を見上げた。
「……杏子ちゃん、何してるの?ほら、行くよ?」
セイさんはそんな私の指先を摘んで開いた自動ドアを一緒に潜る。
その先にあったのは、まるでホテルのロビーのような広い空間だった。
真っ黒な梁を見せるようなデザインの天井は高く、そこに輝くのは温かい色の白色灯。床には一面真っ白なタイルが貼られていた。
一見したところ、その広さは50坪ほどだろうか。その空間のあちこちにはローテーブルと座り心地の良さそうな椅子が向かい合わせに配置されている。
ロビーのさらに奥にはこれまたホテルのフロントのような大きなカウンターと、そこに立っているスーツの男性が見えた。
「おかえりなさいませ」
スタッフの人に笑顔で声をかけられて、私は慌ててぺこぺこ頭を下げる。
そんな私と対照的に僅かに頭を下げたセイさんは、そのままエレベーターホールへと私を連れて行く。
慣れた様子でセイさんがエレベーターの操作盤を押すと、『ポーン』という音とともに扉が開いた。
彼に連れられエレベーターに乗り込んだ庶民の私は、思わずこのマンションは何階建なのだろう、とその操作盤の最上階を確かめる。
……ふ、ふぅん。ここって24階建なんだ。
そんなことを思っているとセイさんは何とその最上階の階数ボタンを押した。
「……!!」
驚いて目を丸くしているとエレベーターが動き始めて、両足にぐっと重力がかかった。
セイさんは私をちらっと見下ろし「一番上の階なら、さすがの杏子ちゃんでも覚えられるでしょ?」と片眉を上げ私のことを鼻で笑った。
私はそれにカチンときてセイさんを睨み上げる。
「ば、馬鹿にしないでください!割と記憶力には自信あるんですから!」
「……ふーん?本当?杏子ちゃんってぼーっとしてそうだから一回通った道でも迷ったり、暗証番号とかも忘れてロックかけたりするタイプなんじゃない?」
「……そ、そんなことあるわけないでしょ!!」
そう言い返したものの、実は方向音痴だしロックも何度かかけたことがある私は、ヤツから目を逸らす。
「……ならいいんだけど。はいこれ」
そう言いながらセイさんは私に何かを手渡してきた。
思わず受け取り、掌を開くとそこにあったのは先ほどセイさんが入り口でかざしていた鍵だった。
「えっ」
ぽかんとしていると、セイさんは鍵ごと私の掌を優しく包み込んで目を合わせ、小さな子供に話しかけるようにゆっくりと言った。
「ウチの番号はね、5、8、0、6だから」
「えっ」
「明日からはそれで入って」
「えっ」
何を言われているか上手く理解できずに私はセイさんを見上げる。
その時だった。
ちょうどタイミングよく『ポーン』という音ともにエレベーターの扉が開いた。
「分かってると思うけど、それは僕の家の鍵でもあるんだから絶対に落としたり、無くしたりしないでね?」
いつかも聞いたその台詞を言ったセイさんは、開いた扉から颯爽と出ていってしまった。
私も慌ててそれに続く。
降り立った最上階。
エレベーターから出た私は思わず「ひえっ」という声を漏らして周りを見回した。
その共用廊下は夜だからというのもあるのだろうが、まるで美術館の展示室のように照明が極端に絞られていた。
生成色の壁には蔦を思わせるアイアンアートがかけられており、床にはダークグレーと黒の絨毯が敷き詰められている。
……えっ、ここって本当にマンション……だよね?
私のようなごくごく普通の庶民には縁のない、高級な雰囲気に飲まれて思わず唾を飲む。
セイさんはそんな私を眺めながら、木目調のスチールドアの前で大袈裟にため息をついた。
「ココ開けて」
「えっ」
「早く」
「あっ、ハイ」
眉間にシワを寄せたセイさんに急かされた私は、慌てて人が2人並んで入れそうなほど大きな玄関扉へ鍵を差し込もうと右手にそれを構える。
しかしセイさんはそんな私の掌を両手で包んだまま鍵をドアハンドルにかざした。
ただそれだけで、「ピッ」という電子音とともに鍵の開く音がして、私はまた目を丸くする。
「えっ」
「鍵の部分は停電の時くらいしか使わないから」
そう言ってセイさんは腕を伸ばし、暗い色のスチールドアを開く。
扉を開いただけで、玄関の天井に埋められたダウンライトが点灯した。
あまりにも世界が違いすぎてぼけっとしていると、セイさんはまたため息をついた。
「ほら入って」
「あっ、ハイ」
扉の中は、先ほどの廊下とは打って変わって白を基調とした明るい場所だった。
ダウンライトを反射する真っ白な大理石でできた玄関土間に、同じ素材でできているらしい廊下。そこにはまだ、わずかに新しい建物独特の香りが漂っている。
玄関土間には靴を着脱する時に使うためのものだろう、お洒落な形のベンチソファーが置かれていた。
ギクシャクしながらそのソファーに座り、パンプスを脱ごうとすると後ろ手で玄関扉を閉めたセイさんと目が合った。
彼はふっと口元の
「……おかえり」
その言葉に、私は顔を赤くして俯く。
セイさんはそのまま私の真向かいにしゃがみ込んで目線を合わせる。
ちらりと顔を上げて彼の様子を伺うと、セイさんは
さっき、彼は『明日からはそれで入って』とそう言った。
それに、『おうちにかえろう』とも。
私はセイさんを上目遣いに見上げながら、消え入りそうな声で言った。
「た……ただいま」
*****
セイさんが作ってくれた夕食を一緒に食べ、なぜか一通り揃っている未開封の化粧品やシャンプーなどの場所を説明された後、先にシャワーを使わせてもらって。
用意してきたルームウェアを着る頃には、とっぷりと夜も更けていた。
「じゃあ、僕もシャワー浴びてくるから先にベッドで待ってて」
そう言ったセイさんに連れて行かれたのは9畳ほどの広さの寝室だった。
まず目に入ったのは大人が3人くらい眠れそうな大きなベッド。
白を基調とした他の部屋と違って、休むために作られているその部屋の内装はダークブラウンで統一されていた。
セイさんはそんな私に気がついているのかいないのか「部屋にあるものは好きに使ってくれて構わないから」と言ってさっさと浴室へ行ってしまった。
私は仕方なく寝室へと足を踏み入れる。
ベッドの左右を照らすのは天井から垂れ下がった、ボール型のガラスシェードに覆われたペンダントライト。
透明なシェードは珈琲色で、それがすごくセイさんらしくて私は思わずライトをじっと見つめる。ライトの中の電球はフィラメントが幾重にも折り重なった、クラシックなカーボン電球だった。
私はそれが照らし出すダークブラウンのシーツがかかったベッドへ、ぎくしゃくしながら近づいた。
「……あっ!」
そうして初めて気がついた。
そのベッドヘッドボードには小さな棚が付いており、そこには『ひゞき 隆聖』先生の本が何冊も並べられていた。
「い、『井戸の中』もある……!!」
それを手に取ろうとしてハッとする。
これはセイさんの本なのに、勝手に読んでいいのかな……
一瞬そう考えたが、同時に先ほどのセイさんの言葉をも思い出した。
『部屋にあるものは好きに使ってくれて構わない』
……あれはきっとこれのことを指していたのだろう。
私は彼の分かりづらい気遣いに唇を緩ませ、ベッドに腰掛けた。
棚から『井戸の中』を取り出し、そのついでにベッドヘッドに読書用の照明が付いているのにも気がついた。
部屋の照明に合わせた優しいオレンジ色のライトをつけた私は、手に取った本の表紙を開く。
探したのは、もちろんあの
鰻屋でふたり、格子窓の隙間から上弦の月を見上げるあの場面。
『ご覧。あれはこれから見る間に肥え太り、あの光をすべて奪われやがて痩せ細って。最期は闇の中へ消えていく。まるで紡ぐ言葉を側から使い捨てられる我々のようじゃアないか』
紙の上に踊る文字を追いかけ始めると、セイさんと一緒に食べた鰻の味すら思い出されて。
思わずふふっ、と笑みをこぼした。
*****
「……ねえ杏子ちゃん。時間も遅いし、そろそろ寝ようか?」
ぎしっ、という振動とともに、吐息まじりの甘い声が耳元でそう囁いたのは突然のことだった。
思った以上に近くから聞こえたそれに、私は飛び上がりそうになって耳を押さえ本を閉じる。
「な、な、な?!」
驚いて首を巡らせると、僅かに煙草の香りをさせたセイさんがいつの間にか隣に座っていた。
「用意しておいたものに夢中になってくれるのは嬉しいんだけど……ちょっと複雑だな」
セイさんは眉を寄せて難しい顔をしながら柔らかそうな唇に指を沿わせる。
「複雑……とは?」
本を閉じて枕元の棚に戻しセイさんを見上げると、彼はやれやれ、とでも言いたげにため息をついた。
「本に夢中になりすぎてムードがなくなるってこと」
彼の言葉に私は今の状況を思い出し、顔を赤くした。
セイさんはそれを見て皮肉げに口元の
「……ふうん、流石の杏子ちゃんでもこれからどんなコトされるかは分かるんだ?」
その刺のある物言いにカチンときた私は、唇を尖らせセイさんを睨み上げる。
「ば、馬鹿にしないでください!わ、私だって男性経験の一度や二度……!!」
そう言葉を続けようとした瞬間。
世界がぐるりと回って、天井からぶら下がる珈琲色のペンダントライトが目に入った。
私の両肩を押し倒したのは、もちろん笑顔を浮かべたセイさんだった。
彼はふっくらとした唇の両端を上げ、優しく私に微笑みかける。
しかしその真っ黒な瞳は全く笑っておらず、私は頬を引き攣らせた。
「ねえ、きみは本当に頭が弱いね?……ベッドの中で他の男の話を聞かされて、冷静でいられる男がいるとでも思った?」
そう言いながらセイさんは私に覆いかぶさり、ゆっくりとその唇を重ねる。
……じゃあ最初からそんな言い方しなきゃいいじゃない!!
そう反論しようとしたけれど、私の唇はすでに彼に封じられていて……しかもその感触は癖になってしまいそうなほど甘く優しくて。
私は口答えするのを諦めて、仕方なく瞼を下ろした。
*****
「ん……」
私に覆いかぶさったセイさんはその角度を変えながら、まるで小鳥のように何度も私の唇を啄んだ。
厚い彼の唇がもたらす感触は想像以上に柔らかく、それが
セイさんもそれにつられたのか、吐息だけで笑って顔を離した。
口づけを終えた彼はそのまま四つん這いになってベッドに乗り上げ、私の反対側から布団をめくってベッドの中へと入る。
セイさんはさらに私の下にある布団を引っ張ったので、私は慌てて起き上がってベッドから下りる。
私が布団の中に入りやすいようそれを丁寧にめくり上げて、セイさんは横になったまま頬杖をつき、自分の隣をぽんぽんと叩いてニヤッと笑った。
「さ、おいで」
まるで自ら獣の巣の中に入るような心地になって、私は恥ずかしさからぐぬぬぬぬ、と体を震わせる。
それを眺めてヤツは意地悪そうに唇を持ち上げ、真っ黒な瞳を煌めかせた。
「は、入ればいいんでしょ、入れば!」
そう言いながらベッドに乗り上げた瞬間、腕を掴まれシーツの波間に引き摺り込まれた。
*****
いつか肉食獣のようだと思ったその
再び合わせられた、柔らかい唇の隙間から差し込まれたのは苦い煙草の味がわずかに残った肉厚の舌だった。
「!!」
それは私の頬の裏側をひと撫でして、左の奥歯が納まる歯茎と頬の裏側の濡れた肉をぬるりとなぞってゆく。
そのぞくぞくクるような感触に体を捩って逃れようとしたが、上にのしかかった獣はそれを歯牙にも掛けず腕の中に収まった
左側をなぞったその舌は、そのまま右の奥歯の根元へとゆっくり移動していく。
体の奥に隠された情欲を暴き立てるようなそれが怖くて、覆いかぶさる彼を押し退けようと私は彼の肩を押した。
しかしその大きな身体はびくともしなかったため、必死になった私は次に彼の衣服を引っ張る。
さらさらした感触のそれは、どうやら浴衣のようなものだったらしい。
引っ張ったその拍子に帯が解けてしまったのか、そんなに力をこめていないのにセイさんの胸元はひどくはだけてしまう。
焦った私はその舌の動きだけでもやめさせようと、彼のそれを自分の舌で押し返そうとした。
「……ふっ」
しかし、そんな私の考えはどうやら彼にはお見通しだったらしい。
私のことをまたも鼻で笑ったセイさんは、押し返そうとした私の舌にそれを絡ませ、根本から舐め上げた。
「んん゛ぅ……!」
舌の裏側をぞろりと舐め溶かされて、私は思わずセイさんの肩に爪を立てる。
セイさんはそれにも構わず、じゅるりと私の舌ごと漏らした唾液を啜り上げた。
自分の知っているキスとは全く別物のそれに、くらくらしてきた私は爪を立てたその肩へと縋り付き、彼にされるがまま身を預ける。
私の口の中がぐちゃぐちゃにかき回されて、セイさんの舌と同じ温度になったころ、セイさんはやっとその唇を離した。
珈琲色のペンダントライトが照らす寝室の、シーツの海の底。
その闇の中浮かび上がったセイさんの
私と繋がっていた空洞から滴る蜜が、つうっとセイさんのふっくらした唇から垂れ落ちる。
それを舌で舐め取りながらセイさんはうっそりと私を見下ろし、笑った。
*****
その直後、まるっと衣服を剥かれた私は、いつの間にか裸になっていたセイさんに抱きしめられた。久しぶりの
名前を呼ぶたびセイさんは囁くように「杏子ちゃん」そう言ってぎゅうっと私を抱きしめてくれた。
なんだかそれが嬉しくて、私はもっと彼の名前を呼ぼうと唇を開く。
瞬間、彼の黒い瞳と目が合った。
セイさんは、なんだか必死な顔をしていた。
それを見て、私は今更ながらに大切なことを彼に伝えていなかったことに気がついた。
私は彼に力一杯しがみつく。
「……し、
小さくそう言うと、私に覆いかぶさったセイさんは痛いほどの力で私を抱きしめてきた。
「……っく、杏子ちゃん、おそいよ……!!」
彼はちょっと恥ずかしそうにそう言いながら眉を寄せ、顔をくしゃっとさせて笑った。
いつもの彼よりずっと優しく見えるその笑顔に。
もしかしたら私はあのカフェでセイさんに手を掴み上げられる、ずっと前から彼のことが好きだったのかもしれない、そう思った。
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