第13話 交際0日の花婿 前編


 半地下にあるこのカフェにも、短いけれど陽の光が差す時間がある。

 不思議なことに、客足が少なくなるその時間に来店するのは常連客が多かった。


 彼女はいつもそんな時間にやってくる常連の1人だった。


 エスプレッソマシンのスチーム音、コーヒーカップがソーサーにぶつかる音、客達の話し声。

 様々な音が渦巻く店の片隅で、いつも本を読んでいる大人しそうな女。


 ……きみに対しての印象は、最初はそんなものだったと思う。


 瀬谷 杏子……彼女を初めて認識したのは、カフェを開いてしばらくしてからだった。


        *****


「てんちょーさんって、カノジョ、いるんですかぁ〜?」


 レジで接客しているとたまに向けられる、煩わしい問いに僕は口角を持ち上げて少し首を傾げた。

 獲物を見つけ舌舐めずりする雌猫みたいな、若い女の不躾な視線が僕の神経を逆撫でする。

 しかし僕の機嫌を損ねた女は、それに気がつかない様子で上目遣いにこちらを見つめた。


「……仕事中いないかな」


 やんわりと肯定すると、大抵の客は諦める。

 なのに、女は食い下がって来た。


「ええ〜、じゃあお店にいる間はフリーってことですかぁ?……ワタシ、狙っちゃおうかなあ」


 うふっ、と笑いかけてきた女に向かって舌打ちしそうになって、それを押さえ込むために笑みを深める。

 女はそれをどう捉えたのか、頬を染めながら僕を見上げて来た。


 ああ、イライラする。


『そんなことどうでもいいから、さっさと飲み物を決めてくれないかな』


 思わずそう口にしかけたその時だった。


「……あのう、すみません。まだ決まらないんでしたら、先に注文してもいいですか?」


 女の後ろから別な声がかけられて、女はキッと眉を吊り上げてそちらを振り向いた。

 視線を巡らせた場所に立っていたのは、薄い赤銅色のブラウスに青色のパンツを履いた、いつもここへ本を読みにくる常連の女性客だった。


 先ほどまでの猫撫で声をどこへやったのか、女は彼女に向かって大きな声を出した。


「何よ、見てわからないの?!今注文してるとこでしょ!?」


 それに怯むかと思った女性客は、意外にも驚いたという顔をしながら言い返す。


「あ、そうなんですね。飲み物を悩んでいるようには見えなかったので……」


 本気で恍けているのか、皮肉っているのか迷うような答えに列の先頭の女はぐっと黙り込み、こちらへと振り返った。


「え、ええと……このおすすめって書いてあるやつ、ください」

「エスプレッソグラニータですね、承知いたしました」


 思わぬ方向から出された助け舟に、僕は思わず頬を緩める。

 痛快な展開に噴き出しそうになるのを堪えながら、女のお会計を済ませた。


 お会計が終わった女はさっさと商品受け取りカウンターへ行けばいいのに、未練がましく何度も僕の方を振り返る。

 僕はそれに気がつかないフリをして女の次に並んでいた、女性客に声をかけた。


「いらっしゃいませ。いつもご来店ありがとうございます。今日はどうされますか?」


 自慢じゃないけれど、僕が笑いかければ大体の女性は僕を見つめて顔を赤らめる。


 そういうつもりだったかは分からないけれど、助け舟を出してくれたことに変わりはないし……ちょっとくらいサービスしてあげようかな。


 そう思って僕はとっておきの笑顔を彼女に向けた。

 それなのに彼女は、僕の顔なんてちらりとも見ずにメニューだけを見つめていた。


 僕は思わずその特上の微笑みを引き攣らせる。


「ええっと……エスプレッソグラニータください」


 彼女はそのまま、メニューに載っているグラニータを指差しながら顔を上げた。


 僕は今度こそ、というつもりでまた微笑みを浮かべる。


「グラニータですね、承知いたし……」

「お会計はICカードで!」


 彼女は食い気味にそう言って、鞄から交通系ICカードを取り出す。


 …………サービスしてやろうと思っているのに、なんだこの女。


 反射的に舌打ちしそうになって、僕はそれを堪えてニコニコと笑った。

 彼女も僕に対して微笑みを返す。

 しかしそれは他の女たちから向けられる、僕に気があるようなそれではなくて、ご近所さんに挨拶をするような形式上の笑顔だった。

 また舌打ちしそうになるのを堪えながらレジを操作する。


 ……まあ、今回はタイミングが悪かったのかな。

 今度来た時には絶対に僕に見惚れさせてやる。


 密かにそう心に誓いながら、僕は何食わぬ顔で彼女のお会計を終えた。


        *****


「チッ」


 いつもの彼女からオーダーされたエスプレッソグラニータを作りながら、僕はまた舌打ちをする。


 あれから、一月。

 何度も笑いかけてやっているというのに、あの子はの笑顔を毎回スルーしていた。


 その音に顔をしかめたのは、カフェを開業する前の店から一緒に働いているマリちゃんだった。


「セイ店長ぉ……いい加減その癖、やめたほうがいいですよ?」

「……仕方ないだろう?またあの子、僕の顔を一切見なかったんだから」

「ほんっと店長って……」

「なに?」

「いえ、なんでもないです」


 彼女ははあ、と大きくため息をついて腰に手を当てる。


 カフェを経営しようと思い始めたのは、大学時代だった。

 たまたま入った個人経営のカフェの珈琲にどハマりした僕は、どうしてもそれを作れるようになりたいとその店でアルバイトを始めた。


 珈琲の淹れ方から、店の運営まで。僕は様々なことをそこで勉強した。

 その頃のバイト仲間がマリちゃんだった。


 彼女は……うまく言えないけれど、なんとなくどこか僕と似ていた。

 マリちゃんはいつでもニコニコしていたが、その中に誰にも許さない一線があるだった。


 スタッフたちの中には、僕らが付き合っているのではないか、そう思っている子もいたらしいけれど。

 僕も、彼女も……どこか自分と似ている互いのことを、最後の最後では受け入れられないだろうということを知っていた。


 だからだろうか。

 マリちゃんは、僕があの子に対して毎回とびきりの笑顔を向けていることに、一番最初に気がついた。


 そんな彼女はやれやれ、とでも言いたげに首を振ってみせる。


「……店長、一応念のために言っておきますけど……あのお客様、気が弱そうなので突然上から目線で話しかけたり、ましてや笑顔で圧かけたりしちゃダメですからね?」


 …………気が弱い?の笑顔に毎回気づきもしないあの子が?

 気が弱い子っていうのは常に人の顔色を伺うような子のことじゃないんだろうか。


 マリちゃんの言葉に、僕は作りかけのグラニータを握りしめたまま眉を寄せた。

 しかし、あの子に助け舟を出された状況を、マリちゃんに懇切丁寧に話す気もなかった。


 そんなことをマリちゃんが知ったら、『あの傍若無人な店長が!!』とか絶対に面白がってスタッフ全員に大袈裟に話すに違いない。


「それに……声をかけるとしたら『カフェに来るたびずっと見てました』とかもやめた方がいいですよ?……どんなに顔がよくてもフツーの女性なら絶対ヤバイやつ認定されますから」


 僕はマリちゃんの言葉を吟味するように自分の中で反芻した。


 ……確かに、「ずっと見てました」と告白してくるのは思い込みが激しい、面倒な女が多かった気がする。

 それに……みたいなイケメンが話しかけたら、警戒心が強い子猫みたいな子は尻尾を巻いて逃げ出してしまうだろう。


 もし話しかけるなら……そうだな、絶対に逃げようがない状況を作るしかないだろう。


 僕は顔を上げ、また店の片隅でひとり、ひっそりと本を読み続けている彼女に視線を向けた。


 温かい色の白色灯に照らされた煉瓦造りの壁。

 その壁際の席に座り顔を俯かせている彼女は、たまに落ちてくる髪を耳にかけながら静かに文庫本のページをめくる。

 じっと彼女を見つめると、その静謐な空気に飲み込まれて。

 カフェの喧騒は僕からずっと遠くなっていくようだった。


「……店長?もう、セイ店長!!」


 マリちゃんに声をかけられてハッとした。


「な、なに?」


 マリちゃんを振り向くと、彼女は両手を腰に当て、頬を栗鼠りすのように膨らませる。


「セイ店長、ほんと、どうしちゃったんですか?しっかりしてくださいよ、も〜!」


 僕はマリちゃんが何を言っているのか理解できず、眉間にシワを寄せた。


「だから、何が?」

「もう、気付いてないんですか?!そのグラニータ、作り直さなきゃダメですよ!」

「え?……あっ」


 彼女を見つめたのは一瞬のことだったと思っていたけれど、どうやらそのままぼうっとしていたらしい。

 いつの間にか僕の握りしめたグラスの表面は結露で濡れそぼり、その滴がカウンターに広がっていた。

 マリちゃんは呆れたように肩を竦める。


「チッ」


 マリちゃんに注意されたばかりだが、思わず舌打ちをする。


 がこんなに気にかけてやってるのに、なんであの子は僕を見ない!!


 僕はため息をつきながらそれを廃棄して、新しいグラニータを用意し始めた。


        *****


 あれから、どれくらいが経ったのだろう。

 何度笑顔を向けてもこちらを意識しない彼女のことを考えるのも、だんだん虚しく癪に障るようになってきて。 

 僕は彼女のことを、できるだけ意識の外へと追いやるようにしていた。


 そんな時だった。

 彼女の方から声をかけられたのは。



 その日は暑かった。

 だからかもしれない、その時間帯は驚くほど来店する客が少なかった。

 夕方からのラッシュに備えて、スタッフの子たちに多めに休憩を取らせていたために、その時カウンターにいたのは僕だけだった。


 鉄と硝子で出来た扉を開いて、いつものように姿を見せた彼女に機械的に「いらっしゃいませ」と声をかけてレジに立つ。


 しかし、もう今までのように笑いかけたりはしなかった。

 レジの5メートルほど手前で一度立ち止まり、掲示されたメニューを眺めた彼女は意を決した様子でこちらへと歩いてきた。


 僕はいそいそと近づいてきた彼女を、冷めた瞳で見つめる。


 どうせきみはいつもみたいにグラニータを頼むんだろう?

 それで、僕の顔なんてちらりとも見ずに「お会計はICカードで」って馬鹿のひとつ覚えみたいにそう言うんだ。


 そう思っていたのに、彼女はなんと僕の顔を真っ直ぐに見上げてこう口を開いた。


「……あのう、少し聞いてもいいですか?」


 僕は彼女の茶色い瞳と目が合ったことに驚いて少し口籠る。


「……は、い」


 彼女はすぐにメニューに目線を落としグアテマラ産の豆を使った、この店で一番高いブラック珈琲を指し示した。


「この、二千円くらいする珈琲って何が違うんですか?」

「ああ、これは……」


 グアテマラの珈琲豆は知名度も人気もあるのだが、その産地によって味がかなり違う。

 基本的には深いコクのあるチョコレートのような甘味に、リンゴのような酸味と表現されることが多い。


 大学時代にバイトをしたカフェの店主はかなり珈琲にこだわりを持っていて、いろいろな産地へ直接向かって買い付けを行っていた。

 僕が一番好きだったのはグアテマラの豆で、その中でも気に入りの、花のようなふくよかな香りのものはなかなか手に入らなかった。


 豆の違いや焙煎方法、そしてバリスタの力量で生み出される味の違い……そんな珈琲の魅力に取り憑かれて、僕はこうして自分の店を持つことになったのだ。


「……へえ〜、そんなに違うんですか……」


 彼女の声に僕はハッとして口を押さえた。

 もう意識しないようにしよう、と思っていた彼女は、目を丸くしてこちらを見上げていた。


 いけない。一番好きな珈琲のことを尋ねられたから、少し喋り過ぎてしまったかもしれない。


 そう思ったのに彼女は明るい茶色の瞳を細めて、嬉しそうに微笑んだ。


「実は今日、ボーナスが出たんです。今までずっとこれが気になってたんですけど、どうしても手が出なくて……でも、今日はこれにします!」


 そう言って彼女はメニューの一番上に載っている、グアテマラの珈琲を指差した。


「お支払いはICカードで!」


 やっぱり馬鹿の一つ覚えみたいにそう言った彼女が、なんだかおかしくて。

 僕は久しぶりに心の底から笑った。


        *****


 グアテマラ産の豆の、深く甘いコクをより引き出すために、一番高いあの珈琲だけはサイフォン式で抽出している。

 注文を受けた僕は、休憩から戻ってきたマリちゃんと入れ違いでレジを代わり、その準備を始めた。


 いつも店の片隅で本を読んでいる彼女は、今日に限ってそれを淹れようとする僕の方を興味深そうに見ていた。

 いつもと同じはずなのに、先ほど見つめたあの明るい茶色の瞳が今こちらを向いている、そう考えるだけでなんだか妙な気分になった。


 ……あんなに彼女は、僕に興味を持っていない風だったのに。

 今あの子の瞳に映し出されているのは文庫本なんかじゃない。


 僕だけだ。


 慎重に珈琲を淹れ、その香りを1秒でも長く楽しんでもらえるよう急いで彼女の元へと運ぶ。

 彼女はそれを持ってきた僕を見上げ嬉しそうに目を細めて、大切そうに珈琲を受け取った。


「あ、ありがとうございます……!」


 ……早く、早くそれを飲んで!


 思わずごくんと唾を飲むと彼女は少し首を傾げ、再び僕を見上げた。


「……あ、あの?」


 珈琲を渡して、そのまま彼女をぼけっと見下ろしていた自分に気がついて、僕は慌てて作り笑いを浮かべた。


「あ、いえ……すみません」


 我に帰った僕はそう言って踵を返す。そして少し離れた場所で彼女の方をちらりと振り返った。


 口元にカップを持ち上げた彼女は、僕の淹れた珈琲の香りを胸いっぱい吸い込んで、へらっと笑いそれに口をつけた。

 少し置いて、彼女は満面の笑みを浮かべながら言った。


「おいしー……!」


 足元が定まらないような、ふわふわした気分のままカウンターの中へと戻る。

 マリちゃんはニヤニヤしながら「いま暇なんで、しばらく私1人でも大丈夫ですよ!休憩どうぞ」そう言ってくれた。


 僕はそれに頷きバックヤードへと入る。

 すぐに向かったのは喫煙ブースだった。

 置きっぱなしにしているライターと煙草を一本、自分を焦らすようにゆっくりと取り出して火を点ける。

 普段より深く吸い込んだその煙は、忙しかった1日の終わりの1本よりも、ずっとずっと美味しかった。

 酩酊するような、深く甘いそれを肺の奥へ送りながら、そのまま天井を仰ぐ。


 あの子が、僕の淹れた最高の珈琲を飲んで笑った!

 あの子が、僕の珈琲を美味しいって……!


 いつもと同じ1日。

 いつもと同じたった1杯の珈琲。


 それが、なぜか嬉しくてたまらなくて。

 僕は蕩けるような極上の味の煙を惜しみつつ、換気扇に向かって吐き出した。

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