第1話 甘い誘惑
(悪いけど、話を合わせてくれないかな…彼女、僕のストーカーで正直困ってるんだ)
色を入れていない、黒い髪は真ん中で分けられ、ゆるいウェーブを描いていた。その眉は一見穏やかそうだが、鴉の濡れ羽色に輝く瞳は切れ長で強い意志を感じさせる。
ふっくらとした唇の右下には、色っぽい
珈琲豆のうっとりするようないい香りを体に纏わせたイケメン店長は、目の前の客に聞こえないくらいの小さな声で側に立つ私にそう囁いた。
彼女は一瞬ぽかんとして、しかしすぐに私をぎろりと睨みつける。
私を射殺そうとでもいうような視線に思わず首を振りそうになって、笑顔なのに目だけ笑っていない店長に再び腕をぎりっと握りしめられた。
店長は貼り付けたような笑顔を浮かべたまま、整った顔をそっと近づける。
(な、なんで私が……!)
(もちろんタダでとは言わないよ……好きなドリンク、3ヶ月無料)
私は店長のセリフに、ゴクリと唾を飲む。
このカフェのエスプレッソグラニータはもちろん絶品だったが、この店で一番美味しい珈琲はグアテマラ産の豆を使った、花のようなふくよかな香りのブラック珈琲だった。
しかしそれはたった一杯だけなのに野口さん2人とお別れして、やっとお釣りがくるような値段で。
なかなか手が出せなくて、それでも一度だけ頑張った自分へのご褒美としてボーナスが出た休日に味わったことのある香りを思い返す。
それが、ここで話を合わせるだけで…3ヶ月無料で飲めるかもしれない?!
私は店長と目を合わせ、締まりなく開きそうになる口元をぐっと噛み締め力強く頷いた。
彼は目元を緩ませてふっと微笑んだ。それに合わせて口元の
その色気のある空気に、私はどきりとして目を逸らした。
ちょうどその時だった。悔しそうに私と店長を見つめ、赤い唇を噛み締めていた女が再び騒ぎ出した。
「……ちょっとあなた!本当にセイの彼女なんでしょうね?!」
……セイ?
一瞬混乱した私だったが、そういえばスタッフさん達は彼のことを『セイ店長』と呼んでいたような気がする。
私はこれ以上面倒なことにならないように、女の言葉にこくこくと頷いた。
店長はずい、と前に出て長い腕を庇うように広げる。
「やめてくれますか、彼女を怖がらせるようなことは」
「こんな女が彼女だなんて、絶対に嘘!セイはこんな地味女、趣味じゃないでしょう?!」
悔し紛れなのかもしれないが、女のあんまりな言葉に思わず唇をへの字にした。
そりゃあ25にもなって彼氏もいないから、せっかくの休日にここへ読書に来てるんだけどさ……そんなのあなたには関係ないじゃない。
思わず口を開きかけたその時、低く冷たい声をフロアに這わせたのは店長だった。
「……いい加減にしてくれるかな。僕のことならいくら悪く言っても構わない。でも、彼女を貶めるつもりなら侮辱罪で訴えるよ」
ついに客に対する言葉遣いすら捨てた店長に睨まれた女は顔を青くした。
ワナワナと体を震わせる女に私はいたたまれない気持ちになってきて、思わず彼のシャツの先端をぎゅっと握りしめる。
それにハッとしたらしい店長は、私をちらと肩越しに見て小さく頷いた。
そして女に向かって、再び貼り付けたような笑顔を浮かべて見せる。
「……これまでのご愛顧、本当にありがとうございました。しかしながらこんなふうに他のお客様のご迷惑になるような行為をされるとなると、これからの御来店はお断りさせて頂きます」
店長の出禁宣言に、息を潜めて二人のやりとりを伺っていた客達はざわめいた。
女はその言葉に顔を真っ赤にして拳を握る。
「なっ……!!」
店長はその視線をレジカウンターで働く、女性スタッフさんへと向けた。
彼女はそのまま客の視線が届かないバックヤードへと駆け出す。女はそれを見て顔色をさっと変えた。
「……これ以上騒がれるようなら警察を呼びますが、どうされますか」
「く…ッ!!いいわ、いいわよ!!出ていけばいいんでしょう?!」
女は悔しそうに唇を噛み、店長の後ろに庇われたままの私を睨みつけた。
そして椅子にかけていた
「……アンタ、覚えてなさいよね!!」
……なんだかかわいそうかも、なんて思って損した。覚えてなさい、ですって?あんたのことなんて秒で忘れてやるわ。
私は心の中だけで女に舌を出し、嵐のように去っていくその後ろ姿を見やった。
*****
女がいなくなった途端、客達は胸を撫で下ろし先ほど見た光景についてそれぞれの感想を互いの連れに話し始めた。
あの女の対応に店長も緊張していたのかもしれない。ふう、と大きくため息をついて眉を下げ、私が座ろうとしていた席の椅子を引いた。
口角の上がったいつもの穏やかな笑顔を浮かべた彼は、その椅子をぴしりと揃えた掌で指し示す。
「突然巻き込んじゃってごめん。とりあえず座って待ってて」
……座って待ってて、とは?
私はその言葉に首を傾げたが、店長は「ん?」と言いながら有無を言わせない笑顔を浮かべた。
それは先ほどの目が笑っていない笑顔と同じで、私は何も言えずにこくこくと頷き、恐れ多くも店長直々に引いてもらった椅子へと座る。
なんだか……今まではただイケメンだなぁとしか思っていなかった彼は、なかなかどうして、
まあ……騒いでいた客がいなくなって、ゆっくり読書ができるようになったと思うか……
そう思いながら椅子に座ると、私のエスプレッソグラニータを店長が持ち上げた。
私はそれに驚いて思わず座ったばかりの椅子から立ち上がる。
「えっ?!ちょ?!か、返してください!」
そう言った私に、店長は眉を寄せる。その眼光にやや気圧されながらも私は店長を睨み返す。
店長の持つエスプレッソグラニータは先ほどの女とのやりとりの間ずっと握っていたため、掌の熱で温められており……上部に乗ったフワフワのクリームはでろでろに、ガラス製のタンブラーの側面は水滴がついてびちょびちょだった。
「……こんなに温くてクリームがどろっどろになったグラニータを飲むつもり?僕の店の大切な常連でもあるきみに、こんなの飲ませて平気でいられるほど面の皮は厚くなくてね。新しいものを持ってくるから少し待ってて」
「いや……でも」
たしかに、でろでろになった温いエスプレッソグラニータより、冷たくてフワフワのクリームが乗ったものが良いに決まっている。でも、そんなことしてもらって良いんだろうか。ぐぬぬ、と眉をしかめ悩んでいると店長はくすっと笑った。
「そうだ。それともグアテマラ産のブラック珈琲にする?…どっちでもいいよ」
私はその言葉に弾かれるように顔を上げた。
どうして私がアレをまた飲みたいと思っていることを、彼は知っているんだろう?
店長の顔を伺うように見つめると、彼は唇をふっと上げて微笑んだまま、踵を返した。そのままぼうっとカウンターの奥へと戻る彼の後ろ姿を見送って、私は店長が先ほどのグラニータを持ち去ったことに気がついた。
「……あっ!!」
声を上げカウンターへ入った店長を見ると彼はこちらに背を向けたまま、小さく肩を震わせていた。
ど、どさくさに紛れて持っていくなんてずるい!!
むうっと思わず唇を尖らせたが、なくなってしまったものは仕方がない。
私は仕方なく椅子に腰掛け、鞄からここで読むつもりだった文庫本を取り出した。釈然としない気持ちのままそれを広げようとして、ハッとする。
……というか、結局何を頼み直すかまだ聞いていないのにカウンターへ戻ってしまった彼はどうするつもりなのだろう。
文庫本に視線を落とす
店長はバックヤードに入った先ほどの女性スタッフさん、そしてカウンターの中で働く数名のスタッフさん達を呼び寄せた。
集められたスタッフさんたちは、彼から何か指示を出されて、レジ担当の女性以外の全員がカウンターから出て店のあちこちへと向かっていく。
一体何をするつもりなんだろう、と眺めていると彼らは各テーブルを周り、丁寧に膝を折って椅子に座るお客様に目線を合わせながら先ほどの一件について詫び、新しい飲み物を無償で提供すると説明して再オーダーをとっているようだ。
そしてもう帰ろうとしている客たちには、どうやらドリンク無料券を配っているらしい。
あちこちのテーブルから、どれを頼む?!という嬉しそうな声が上がった。
そのふわふわ、わくわくしたお店の中の空気が温かくて、私は思わず頬を緩める。
こういうしあわせな感じ……いいな。
「……それで、何を注文するか決めた?」
にまにましていたところに突然そう声をかけられて、思わず顔を引き締める。声のした方に視線を向けると、そこにいたのはやはり
「えっ…と……」
店長の彼も私の前ですっと膝を折った。
その真っ黒な瞳をやわらかく細めて、彼は唇の端を持ち上げて微笑む。
「先ほどはお騒がせして申し訳ありませんでした。よろしければ今お召し上がりになっていた飲み物を新しくさせていただくか、お好きなものを再度お選びいただきたいのですが、いかがでしょうか?もしお時間がないようであれば次回お使いいただけるドリンク無料券をお渡しすることも可能です」
その姿はいつもこの店にやってきた時に「イケメンだなあ」と遠くから眺めていた店長そのもので、先ほどまでの強引なやりとりを一瞬忘れた私は、「じゃあエスプレッソグラニータで」と反射的に返事をした。
「エスプレッソグラニータですね、承知いたしました……それから本日はどのくらいこちらへ滞在されますか?」
「ええと、今日はこれから予定ないし、一時間くら……えっ?」
手元の伝票にエスプレッソグラニータ、と書いた店長は私を上目遣いに見上げて、唇をニッと吊り上げた。
「そう、一時間。それに今日の予定はない、と……了解」
いつもの穏やかそうな店長の笑顔と違う不敵な笑みに、嫌な予感を感じた私は首を振る。
「えっ、あの、いや、暇ってわけじゃあ……!」
「一時間たったら早上がりするから、一緒に店を出よう。家まで送っていくよ」
「いや、でも……!」
「僕もちょっと用事があるから、さっきの埋め合わせは別日になるけど。こっちの都合で面倒ごとに巻き込んじゃったし、それくらいはね」
「えっ、あのう…!!」
あたふたとする私の言葉を全く聞かず、彼は立ち上がりそのまま違うテーブルへと向かってしまう。
彼の仕事を中断させてまで、その申し出を断る必要があるか悩んだ私は、読みかけの文庫本へと視線を落とす。
……どうしよう、なんだかよくわからないうちに一緒に帰ることになってしまった。
文庫本に目を走らせるものの、その内容は全く頭に入ってこない。大好きな小説の世界にどっぷり浸かることもできず、私は肩を落としてため息をついた。
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