初めまして、結婚しましょう。
紫堂 燿
プロローグ
「ええと……それで、話ってなんなんです?」
そう尋ねた私に、目の前の男……セイさんはにっこりと口角を上げ、爽やかな笑みを浮かべた。セイさんの口元には色っぽい
「ああ、ごめんごめん、うっかり目的を忘れるところだった。僕たち、結婚したから」
「…………ハイ?!」
*****
ヒステリックなキンキンした大声が平日の和やかな空気を切り裂いて、驚いた私はそちらを振り向いた。
焙煎された豆の、癖になる香りに包まれた快適な気温の店内は水を打ったように静まり返る。
客達の手元にある珈琲カップは温度が冷めにくいよう、厚めの上品なデザインのもの。
そのカップが映り込むほど磨かれた飴色のテーブルとお揃いの洒落た椅子。
落ち着いた雰囲気の店内はダークブラウンで統一されている。
天井で回るのはアンティーク調のシーリングファン。それについた温かい色の白色灯が煉瓦造りの壁を照らしていた。
都内有数の駅からほどほどに離れているこのカフェは、わかりにくい看板の上、半地下にあるというのにいつも人でいっぱいの人気店だった。
そんな店で突然起きた諍い。全員が注目しているのは店内中央にいる、2人の人物。
興奮した様子の40代くらいの女性と、黒いエプロンをしたスタッフの男性。
客達の非難が込もった視線を一斉に集めても気がつかないのか、声を上げた女性は金切り声をさらに大きくする。
「こっちはねえ、あなたがいつも来てくれてありがとうって言うから、時間を見つけては声をかけてあげてるのよ!!あなただってよく知ってるでしょ?!私は常連だしそれに…!」
「申し訳ありませんが、私どもにとってお客様は全て同じです。特別なサービスなどはご提供できませんし、個人的な連絡先をお教えすることもできません」
いつも優しげにいらっしゃいませ、を紡ぐ声を低く尖らせて、こちらに背をむけたまま彼女の言い分を冷静に切り捨てたのはこの店のイケメンな店長さんだった。
私は商品受け取りカウンターで顔なじみの女性スタッフさんから、凍らせたエスプレッソの氷を細かく砕いてキャラメルとフワフワの生クリームで仕上げた、この店自慢のエスプレッソグラニータを手渡されながら2人のやりとりに顔をしかめる。
せっかくの休みにここまでやってきたのに…こんな場面に出くわすなんて。
眉を潜めたまま私は肩にかけた鞄の中に入っている、先ほど本屋で購入したばかりの文庫本をちらと眺めた。
私の趣味は読書だ。
瞬きすら忘れてしまうほど面白い本に、美味しい珈琲。それはこの世の中で最上の贅沢だと思う。
そんな最高な休日を過ごすためだけにやってきたのに、残念なことに店内は満席だった。
いや、満席という表現はおかしい…怒鳴り散らしている女性の隣は、かろうじて空いていた。
…どうしよう。
今あそこへ歩いて行って、揉めている2人の隣に座るのはとても気まずい。
しかし、失礼な招かれざる客のせいで、私の休日の予定を変更しなくてはならないのは非常に癪だ。
私は気配を殺して2人の側を通り抜け、女性の隣に座ろうと決めてそっと席へと近づいた。
「個人的な連絡先を教えろなんて言ってないじゃない!ただ、誠意を見せなさいって言っているだけよ!」
「恐れ入りますが誠意とは何を指していらっしゃいますか?」
「私の家まで来て頭を下げるとか…」
「ご気分を害したことに対してはこの場にて謝罪させていただきます。しかしそれ以上のことはできかねます。それに、私には妻もおりますのでこれ以上私のことを詮索するのはご容赦いただけませんか」
へえ、この店長さん…結婚してたんだ。
私は2人のやりとりに行儀悪く聞き耳を立てながらも、知らん顔をしてその脇を素早くすり抜けようと肩からかけたバッグがぶつからないよう押さえる。
しかしその言葉は、女性にとっては驚くべきことだったらしい。
「何言ってるの、あなた独身じゃない…!」
「ええ、今から入籍しにいきますから」
ふーん、それはおめでたい。まあ、私には関係ないけど。とりあえずもうこのクレームは終わりそうだし、ゆっくりこれを飲みながら読書でも…
女性の隣の席につこうとした私の手を掴み上げたのは、なんとクレーム対応真っ只中の店長だった。
私はなぜ店長に腕を掴まれたのか、まったく意味がわからずに混乱して目を剥く。私より頭二つ分ほど背の高い店長は、そのふっくらとした唇の両端をあげたまま、客に向かってこう言い放った。
「…僕は彼女と今から入籍しにいきます」
「え、ええ?!」
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