第2話 後悔先に立たず


注文したエスプレッソグラニータを運んできてくれたのは、顔なじみの若い女性スタッフだった。彼女はニコニコ笑いながら、「ゆっくりしていってくださいね!」と声をかけてくれる。

 その笑顔に頭を下げながら私はカウンターの中でひたすらオーダーされたドリンクを作り続ける店長をこそこそと盗み見た。


 彼の纏う紺色のシャツは、普通のメンズのものよりスリムなデザインで、しなやかな筋肉に覆われた体のラインがはっきり出るものだった。そのボタンは喉元まできっちり閉められている。カウンターの中での彼の動きは迷いがなく、近くで別なドリンクを作っているスタッフに対してもてきぱきと指示をしていた。


 それをぽーっと眺めていると、ふと、そんな彼と目が合った。

 彼は私に向かってニヤッと笑って見せる。なんだかいいように彼に転がされている気がして、唇をむうっと尖らせた。

 そんな私に目を少しだけ見開いた彼は、まるで少年のように顔をくしゃっとさせて笑った。私は思わずそんな彼に釘付けになる。


 店長さん、あんな顔して笑う人なんだ……って、いやいやいや、何考えてるの私?!


 私はぶるぶると頭を振った。

 なんだかんだ私のことをうまく操った店長かれはただの”いい人”ではないはずだ。


 そう必死に自分に言い聞かせながら、私はどうしても彼を目で追いかけてしまう自分の顔の前へ開いた文庫本を持ち上げた。


 ああ、なんで私は一時間もここにいる、なんて言っちゃったんだろう!


 今まで意識したことのなかった店長さんの存在が気になりすぎて、結局買った小説を読むことはその後も全然できなかった。


        *****


 もだもだしているうちに、一時間はあっという間に過ぎていた。

 私は飴色のテーブルに頬杖をついたまま、空っぽになったエスプレッソグラニータのタンブラーに刺さったままのストローをぐりぐりと動かす。


「お待たせ……それじゃあ行こうか」


 そのタンブラーが持ち上げられたのと、低く甘い声が頭の上から降ってきたのは同時だった。

 驚いて顔をあげると、そこにいたのはもちろん店長かれだった。


 しかし当然、仕事を終えた彼はここのスタッフとわかる黒いエプロンをしておらず、きちんと止められていたボタンは上から二つほど開いていた。その足元は黒の色あせたジーンズに、ピカピカに磨かれた革靴。


 彼に気がついたのだろう、私の斜め向かいに座っていた女子高生らしき若い女の子たちがきゃあっと声を上げた。そしてこっそりと向けられるスマートフォン。

 店長は唖然としたままの私を見た後、店の外を指差した。


「悪いけど、早く出よう。あんまりじろじろ見られるの、本当は好きじゃないんだよね」


 周りの客に聞こえないような音量でそう言った彼は、客たちには穏やかに笑いかけながら私の飲み終えた空のタンブラーをカウンターのスタッフに手渡し、そのまま店のドアの方へと消える。

 私は机の上に出しっぱなしにしていた文庫本を慌てて鞄に入れて、立ち上がった。

 でも、周りのお客さんたちのようにカッコいい彼が見れて嬉しいとか、声をかけられてラッキーとか、そんな気持ちは全く無かった。


 ……というか、せっかくの休日なのに私の予定は彼のせいでめちゃくちゃだった。

 こんなことをされても『イケメンと話せてツイてる!』なんて気持ちになれる人がいたらお目にかかりたい。


 本当、なんなのあの人!勝手にこっちを巻き込んだくせに、なんであんなに偉そうなの?!イケメンだからってなんでも許されると思ったら大間違いなんだから!!


 そう思いながらも足を動かし店の外に出ると、彼の姿はどこにも無かった。


「えっ」


 思わず声をあげて周りを見回す。


 う、嘘でしょ?!送っていくって言ったくせに、先に帰った?!


「さ、サイテー男…ッ!!」


 拳を握りながらそう言うと、後ろから腕を引っ張られた。驚いて振り返ると、もちろん私の腕を引いたのは彼だった。どうやら店の扉の影に身を隠していたらしい。

 店長は眉間に皺を寄せたまま、私を睨み下ろす。


「……サイテー男、なんてご挨拶だね。とりあえず今話している暇はないんだ、振り返らずに駅まで歩くよ」


 そう言って彼は私の手に、その長い指を絡めた。ゴツゴツしているのにその表面はさらさらの男性の掌の感触に、免疫のほとんどない私は「ひえっ」と情けない声をあげる。


 店長は私と手を繋いだまま店を出た。

 彼の足は私なんかより長く、あまりにリーチの違う私は小走りで一生懸命彼についてちょこちょこ歩く。


 彼は駅に向かって早足で歩きながら、ちらちらと通り過ぎていく店のショーウインドウに視線を向けていた。


 なんなの、ガラスに映る自分ってカッコいいな、とか自分に酔ってるの?!


 ”いい人”の皮を被った腹黒店長は、さらにナルシストなんじゃないかと疑いながら私は彼に引きずられるように足を動かす。


 私の息が上がり、店長が足を止めたのは、駅前の信号に差し掛かった時だった。

 赤信号でやっと立ち止まった彼は「チッ」と舌打ちをする。

 店を離れ”いい人”の仮面も脱いだ彼に、ついにキレそうになった私は彼を見上げて息を切らしながら文句を言った。


「はぁっ……はぁ……!いったい、こんなに、いそいで……なんなんですか……!!」


 彼は仕方ない、とでも言いたげに首の後ろを掻いて、そっと私の耳元に唇を寄せた。


「……振り返らないで後ろを見て」


 私はその言葉に顔をしかめる。


 何を言っているんだろう、彼は。

 振り返らないで後ろを見るなんてどうやって……


 すこしそのことについて考えた私は、彼と繋いだ手を離して鞄からスマホを出し、インカメラを起動した。

 そして自撮りしているフリをしながら画面を覗き込んで、自然に背後を映り込ませる。


「……!!」


 私たちの後方を映したそこにいたのは、先ほど店を追い出されたあの女性客だった。

 女のじっとりとした視線は私と店長に注がれていて、私は顔を青ざめさせたまま店長を見上げる。


「……そういうこと。さっきも言ったでしょ、彼女、僕のストーカーだって」


 彼は事もなげにそう言って、また目の前の信号に視線を移す。

 こんな面倒くさそうなことに無関係の私を巻き込んだ、彼を恨みがましく睨みつけた。


「えええ!?ちょ、こんなに面倒くさいことに巻き込んで言うことがそれだけ?!」


 彼も流石にちょっとは悪いと思っているのかもしれない。居心地悪そうに視線をうろつかせ、また首の後ろを掻いた。


「……うるさいなあ、今日じゃないけど埋め合わせはするって言ったじゃないか……それに僕が早上がりしなかったらどうなってたと思う?」

「それは確かに……っていやいや、そもそもあなたが私を巻き込まなかったらこんな思いすらしなかったわけで!」

「……チッ」


 店長は気付いたか、とでも言いたげに整った顔を歪めてまた舌打ちする。


 こ、この人……やっぱりいい人そうなキャラ作ってるだけで本当は絶対性格が悪い!!


 さらに二言三言ふたことみこと、言ってやろうと口を開いたその時、信号が青になった。

 周りの人たちと一緒に、私の手を握り直した店長も歩き出す。私はまた彼に引っぱられて、言いたかった彼への文句が私の中で乱れる呼吸とともに飛び跳ねる。


 くうううう、悔しい!


 ぎりぎりと唇を噛んでいると店長はちらっと私を見下ろし笑った。


「ほら、駅の改札まではあと少しだ、急ぐよ」


 彼はそう言いながら大股で歩きはじめた。私はそれについていけず、一緒に歩いているというより彼に引きずられながら駅の改札を抜ける。


 改札を通り抜けた彼は次の電車を確認しようと、歩みを止めずに駅の電光掲示板を見上げた。その最新の表示がパッと切り替わる。ちょうど今から到着する電車の表示が消えて、彼はまた「チッ」と舌打ちした。


「今走ればギリギリ乗れる!」

「ええっ、む、無理……!!」


 日頃の運動不足が祟って、私はすでにへろへろだった。

 だのに、彼は私の手を引っ張ったまま走り出そうとする。


「ほら、頑張って!走れば撒ける!」


 いやいやいやいや、そもそもあなたがこんなことに巻き込まなければ私はこんなに疲労困憊しなかったわけで……!!


 彼の、まるで熱血コーチのようなセリフに堪忍袋の限界を試されながら仕方なく走る。本当はいけないと分かりつつもエスカレーターを駆け上がり、息を切らして到着したホームに、やはり電車はまだいた……が、その扉は無情にも「ぷしゅう」と音を立てて目の前で閉まる。


「チッ」


 ヤツの舌打ちだけが頭の上から降ってきて、私は悔しさに身悶えする。


 ぐぬぬぬぬ、今絶対コイツ、私のせいで乗れなかったとか思ってるでしょおおおおおおお?!?!


 店長は私と手を繋いだまま、先頭車両の方へと歩きはじめた。

 ちらりと確認する電光掲示板に表示された次の電車までは約三分。かなり急いでここまで到着したが、あの女は追いかけてきているのだろうか。


 私たちの登ってきたエスカレーターを何度も振り返るが、先ほどの女の姿はまだホームにない。


「……こんなとこまで追いかけては来ないんじゃないですか?」


 やっと整いはじめた息をつきながらそう言うと、繋いだ手を離した店長はやれやれ、とでも言いたげに肩を竦めた。


「きみはさ……ストーカー被害に遭った事、あるの?」

「…………ない、ですけど」


 店長は腕を組み、ゆっくりとそれを崩し口元へ右手だけを上げた。まるで自分の左手で頬杖をついたような格好のまま、考え込むようにくうを睨み彼は自らの親指で唇をなぞる。


「僕はあの女以外にも、何度かそういう目に遭っていてね……ストーカーについてはの素人であるきみより、アイツらの思考回路を理解してると思うよ」


 その顔がイイことを鼻にかけた、嫌味ったらしい言葉を聞いた私は鼻に皺を寄せた。


「……ハイハイ、分かりました!言うこと聞いたらいいんでしょ?!……というか勢いで下り方面のホームに来ちゃったけど、あなたの帰り道はこっちでいいんですか?」


 やっていられなくなって投げやりな気分になりながら尋ねると、彼はそのままゆるりと首を振りながら長い指で額を押さえる。


「……本当にきみ、何にも分かってないね。このままきみの家まで送って行ってごらんよ?きみの家、あっという間に特定されて嫌がらせが始まるよ?」


 ……本当に性格してるわ、この人。


 その言葉にげんなりしつつ、私は店長を見上げる。


「はあ、じゃあその辺は専門家の店長さんにお任せします。それで、私たちはこれから電車に乗ってどこに行くんです?」


 彼は驚いたように目を丸くした。すぐにそれは私を憐むものに変わる。


「……まさか、訳もわからず僕に付いてきていたの?……きみさ、今まで勉強はできるけど頭は弱いとか言われたことない?」


 本当、なんなのこの人!!失礼にも程がある!!


 彼をキッと睨み、先ほどから溜まりに溜まった怒りを口から吐き出そうとしたその時だった。彼はニヤッと唇の端を上げ笑いながら言った。


「これから行くのは区役所に決まってるじゃないか……さっきあの女に言った通りに、ね」

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