9. 猫とコーヒー 2


 僕が知る限り、律が大学生活で本当に好きになったのは美紀ちゃんだけだ。律と同じ歳。つまり僕より一つ歳下。


 律は狂信的なファンも多かったし、元の容姿が良いので日常でも比較的モテる。だけど本人の性格もあって遊ぶことは全くしなかったし、そもそも律がそういった周りの視線や気持ちに気付いていたのかも謎だ。だからアルバイト先の女の子と付き合い始めたと聞いた時は少し驚いた。


 ちなみに僕の人生の中にもいたりいなかったりした女性の影は、去年の夏頃に完全に消えた。多分ずっと日向か、もしくは日陰にこもっているせいだ。おそらく後者。これは完全に余談だけど。


 律と付き合っている間、僕達のライブをよく見に来ていた美紀ちゃんとは何度か顔を合わせたことがあった。その度に他のメンバーとも話したりしていたけれど、所詮は友達の彼女なので、去年の秋頃に別れてからはぷつりと関係が途切れた。


 まあ人間関係なんて、そういう不安定性の上で成り立っているものだろう。




「お待たせしました」


 4時を回って、美紀ちゃんは退勤して私服に着替えていた。襟元にレースの装飾がされたブラウンのチェックのワンピース。飛び抜けた派手さはないがお洒落が好きな女の子といった感じだ。


 僕達は店を移動して近くのスターバックスに来ていた。僕は今日2杯目のホットコーヒー。美紀ちゃんはホワイトモカ。これは僕の偏見だが、女子がふらっと入ったスタバで高確率頼むのがホワイトモカだ。それかソイラテ。


 テーブル席について、先に口を開いたのは美紀ちゃんだった。


「あの、孝太さんが来たのは関係があるんですか。律くんがその…死んだことに」


「まあ…そうなるのかな」


「私に、その原因があるかもしれないと?」


 食い気味に尋ね返す。けれどその声の方向は僕に向いているというより、下げた視線の先にある木目のテーブルを跳ね返って美紀ちゃんの元に返っていくように感じた。


「いや、違うよ。そういうことを言いたかった訳じゃない。言い訳がましくなるかもしれないけど…本当は、亡くなったことだって話そうと思ってなかった。それに、美紀ちゃんのところに来たのはそれとはまた別の件なんだ」


「そう…ですか」


 なんとなくばつの悪そうな美紀ちゃんの顔を見て、僕はどんどん申し訳なくなってくる。急ぎ足で本題に入った。


「…実は、ちょっと調べてることがあって」


 例の動画について手短に説明する。最近アップロードされ始めたこと。再生数や登録者数が確実に伸びていること。それが僕やカケルの中でも引っかかっていること。

 携帯電話を取り出して動画を見せる。──この動画、結局僕だけでかなり再生数を上げている気がする。本当は僕が誰よりも見たくなかったはずなのに、いつのまにか再生されるその声にも慣れ始めていた。皮肉というか、滑稽というか。


「この動画について、知っていることがあったら教えてほしい。同じ動画を過去に見せてもらったこととかある?他に誰か律と頻繁にやりとりをしていた人とか」


「さあ…残念ですが、私は何も知りません」


 即答だった。この件が美紀ちゃんと無関係なことは予想していたけれど、言い切られるとやはり軽く落ち込む。


「私は実は、バンドのことは殆ど聞かされていなくて。ライブは何回か行きましたけど、それ以外で歌ってるところを見たこともあんまりないんです」


「そう…心配かけると思ってたのかも。律はほら…ファンの量も質も過激なところあったから」


 律には粘着質なファンも付いていたから、彼女の存在すらあまり公にしていなかった。特にSNSのプライベートな投稿の管理は徹底していた。


「そうだと思います。律くんは優しい人だったから」


 美紀ちゃんはカフェモカが入れられた紙製のカップに口をつけた。薄ピンクの口紅が白いカップの縁をほんのり色付ける。


「でも孝太さんことはよく聞いてました」


「…そう」


 僕もコーヒーを口に含む。当然僕には『Chatty Cat』で飲んだものとの違いはよくわからなかった。


 一体、律は僕の何を話していたんだろう。僕は、律の何になれていたんだろう。そんなことを考える。


「でも、いくらバンド活動のことを話で聞いてなくても、ライブを観に行けば感じ取ってしまう部分はありました。周りからの見られ方とか…実力、とか。音楽の技術的な知識なんて何もない私でも分かるくらいに。律くんは本当に凄かったんですね」


「…そうだね。本当に、すごいやつだった。あいつは」


「人気者だな。あの人が私の恋人なんだって最初は私も誇らしいような気持ちでした」


 美紀ちゃんは懐かしいような苦いような、複雑な表情をしていた。

 多分僕も同じ顔をしていたと思う。


「でも律くんは時々、全然違うところにいる人みたいに見えました。透明な何かが私と律くんの間にあるような、そんな感覚でした」


 どこかの席から、マンツーマンの英会話レッスンの声が聞こえる。必修以外で英語学習をしていない僕は、殆どそれらを聞き取ることができない。その空間だけ本当に異国みたいな感じだ。スターバックスの店内を区切る透明な海と言語の壁。


「紛れもなく好きだったと言えますし、仲も悪くなかったと思います。けど、律くんの隣にいるのは本当に私でいいのかなって、彼の気持ちを疑ってるなんてことこれっぽっちもないのに、そんな心配をするようになってしまって」


 話を聞きながら、段々他人事だと思えなくなる。僕は黙ってその話の続きを聞いていた。


「そんなことを考えている自分のことも嫌いになってまた自信なくなって…の繰り返しで」


 美紀ちゃんのその感情が、僕達と少しだけ重なる気がしていた。


「彼と過ごせば過ごすほど、私は自分のことばかりになっていたんです。あとは、律くんも忙しくなっていったのもあって、結局1年くらいでお別れしました」


 そのことは僕も知っていた。去年の夏頃。律が狸小路で弾き語りを始めたのは、宣伝の他に美紀ちゃんと別れて時間が余ったということも起因している。


「あれだけ付き合っていても、私は律くんのこと何も知らなかったのかもしれないって思ってしまうんです。…だから、私にお話しできることなんてありません」


「そっか…」


 律の面影を思い浮かべる。人を惹きつけてしまうその才能と、不器用な気遣い。透明な壁に遮られて、僕達と律の間の何か肝心なものを遮っていたのかもしれない。けれど美紀ちゃんも僕も、そしてきっと他の人達も、自分を保つだけで必死だった。強すぎる光に当てられて、自らの心がからからに干からびてしまわないように。


 英会話レッスンをしているテーブルに目を向ける。スターバックスの店内を区切る海の流れは穏やかで、僕が進む方向へと勝手に流れてくれることはなかった。

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