8. 猫とコーヒー 1
律の僕達以外の交友関係を、僕はあまり知らない。
知ってるのは元カノくらい。
そんな今の僕ができたのは、元々投稿頻度が多くなかった律のTwitterとInstagramのフォロー欄を探ることくらいだった。
もっともそれも、フォローしているアカウントの多くはバンドを始めてから知り合った音楽関係者と、あとは恐らく高校時代の友人のものだな、とわかる程度のものだ。そこにフォロワーを含めると膨大な数のファン。僕は鋭い直感を持ち合わせた人間ではないので、プロフィールや投稿を軽く読んだ程度では律との関係性を測ることなどできない。とてもではないがここから何らかの情報を得られるとは思えなかった。
どうしたものか、と考えていた。
律の動画投稿ページのブックマーク登録者数はあっさりと1万人を超えている。カケルのいう通り、大々的に身バレするのは時間の問題だろう。
所詮カケルの戯言だし、何も本気で情報を集める必要はないのだろうけれど、僕の中にこの件がやけに引っかかっているのも事実だった。単純な好奇心、とも言い換えられてしまう。それでも、僕の中にまだ体を動かすエネルギーがあるのだという発見は、無生産な僕の日常では大きい。
とにかく、家にいるだけではどうにもならない。ネット上で何も得られないのなら、とりあえずは自分が知るただ一人のその子をあてにするしかない。真実に迫ることはできなくても、律の生きていた足跡をたどることくらいはできるかもしれない。そう思った僕は、平日の日が高いうちににせっせと身支度を始めていた。
札幌駅北口から徒歩数分。大きな通りに面したビルの3階にある『Chatty Cat』という看板がかかったカフェの扉を開ける。2人がけのテーブルが14席とカウンターが6席。個人店としては広めの店内に、ところどころ猫をモチーフにした装飾や照明が目に入る。平日で空いていたこともあり、僕は入り口から離れた窓側のテーブル席へと通された。
昼はカフェ、夜はバルとして営業しているこの店は、律の元バイト先だ。SNS映えするとかで一時期は行列ができるくらい若い女性に人気があったけれど、今はだいぶ落ち着いているようだ。
呑気にリフレッシュするために来たわけではないけれど、ホットコーヒーだけ注文して店内をぐるりと見回す。僕の目的の人物は見当たらない。
僕は仕方がなく、なんとなく持ってきていた文庫本を開いていた。読書は嫌いじゃないけれど、こういうのは身が入る時じゃないと楽しめない。今はただ黒い文字の羅列が不規則に続いているだけだった。
程なくして、僕が頼んだであろうホットコーヒーを運んで来る店員の気配を感じる。
「お待たせ致しました」
店員がトレーからテーブルにコーヒーカップが移され、伝票を置くタイミングで、僕と同じ歳くらいのその女性店員に声をかける。
「あの」
「はい」
「高橋美紀さんって今日働いていらっしゃいますか?」
「えっと…あの、失礼ですが、美紀ちゃんお知り合いか何かですか?」
明らかに不審そうな顔をされる。まあ当たり前だ。
「天野律絡みの知り合い…みたいな感じです。水沢孝太といいます。いきなりごめんなさい」
「天野くんの?」
天野律、という名前を聞いて、その店員は一旦は不信感を緩めたようだった。どうやら律がいた頃から働いている店員の1人だったらしい。
「今キッチンの方で作業してると思うので確認してみます」
「ありがとうございます」
その店員が立ち去って数分経った頃、キッチンの方から見知った顔の女性店員が出てくる。緩くウェーブさせた明るめのボブカットの髪がよく似合う、可愛らしい女の子。
高橋美紀。律の元交際相手。と言うと表現が堅いか。ただの元カノ。唯一僕が知る律と親しかった人物。
案外、すんなりと会えたけれど、それは不思議なことではない。僕は昼頃に律のフォロー欄から覗いた美紀ちゃんのTwitterアカウントで「バイト前に朝活します」というお洒落なカフェの写真が付いたツイートを見つけていた。ネトストみたいで気が引けたが、僕は彼女の直接の連絡先は知らないので仕方がない。
彼女がバイト先自体を変えていなかったのは幸運だった。
「何かご用ですか?」
さっきの店員よりも遥かに怪訝そうな表情。これも当たり前だ。僕だって同じ状況ならその顔をしてしまう。
「いきなりごめん。律のことで、どうしてもちょっと聞きたいことがあって」
「律くんとは、彼がバイトを辞めてから会ってません。どうかしましたか」
三階にあるこの店の、僕が座っている席の後ろの窓の外の話をするかのようなその言い方で、彼女が何も知らないことを悟った。
それもそうか。元恋人は他人以下って言うもんな。今更何を聞かれても煩わしいだけかもしれない。
「…あいつが辞めたのっていつ?」
「去年の年末だったと思います。クリスマスシーズンは予約客も多いから。それが終わったタイミングだったはずです。それからのことはわかりません。どうかしたんですか?」
年末。それなら彼女が何も知らなくても無理はない。
年末──僕達のバンド解散時期。そのタイミングで、律はこの店も辞めていたということになる。律は、その時既に自分の行く先を決めてしまっていたのだろうか。
美紀ちゃんは眉をひそめたまま、黙ってしまった僕の表情を見つめる。
「…あの、もう戻っても良いですか」
「…律がだいぶ前に死んだことって、知ってる?」
言ってからしまった、と思った。
わざわざこんなことを言うために来たのではなかったのに。
「えっ」
美紀ちゃんの瞳孔が小さくなる。僅かな沈黙の間、客の少ない店内でジャズっぽいBGMだけが耳に入る。僕は次にかけるべき言葉を必死に探していた。
「いつ、ですか…?」
「1月」
「…事故、とか?」
「…いや、自殺」
結局上手い言葉なんて出てこなくて、投げかけられた質問に素直に答えてしまった。僕は取り繕うのが下手くそだ。
「高橋さん、こっち手伝ってくれる?」
「あ、はい」
しばし停止していた美紀ちゃんが、僕の元にコーヒーを持ってきた店員に呼ばれて我に帰った。
「…4時までです。シフト」
「え?」
「とりあえず、それまで待ってもらえませんか」
「…わかった。待ちます」
返事を聞いてから美紀ちゃんはいそいそとキッチンの方へ戻っていった。
時刻は13時半を少し過ぎたところだった。あと2時間半。このままホットコーヒーだけで過ごすのはさすがに申し訳ない。
僕はフレンチトーストを追加で注文して再び文庫本を開いたけれど、僕の頭は文字の集まりを意味もなく音に変えるだけで、当然内容は頭に入ってこなかった。
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