6.駆けているそいつと欠けている僕と1
綾乃に動画を教えられてから1週間。僕は一人で何度もその投稿主のページをスクロールしていた。週に1度あるかないかの投稿頻度。まだ動画数はそこまで多くない。
今日も昼に起きてからアルバイト退勤までのルーティンを終え、店を出た。
時刻は23時34分。
──この時間ならまだいけるな。
そう思った僕はポケットから携帯電話を取り出してカケルに電話をかける。
『もしもし?なんすか?』
ワンコールで出た。この時点で勝利を確信。
「カケル、いま暇?ちょっと付き合ってくれない?」
『今から?!暇ですけど…』
いつも通り気の抜けた声が返ってくる。ここ数日、感情がかき乱され続けている今の僕にとってはありがたい安心感。
「なら今から飲まない?』
『どこで?!終電は?!』
「チャリで来いよ。てかお前、そんなこと気にするタイプじゃないだろ。奢るから」
僕は出会った頃からカケルに甘いことを自覚している。恐らくこうなるのは僕だけではないのだろう。あいつの調子の良さと愛嬌は人を丸くする。得なやつだ。
『行きます』
──と思っていたのに、数秒後にはちょろくてよかった、と考えていた。
僕はあいつに弱い。
僕は適当に待ち合わせ場所を指定して電話を切った。
「コウちゃんさん、先週の俺のヒカゲイト加入後初ライブどうでした?来てたでしょ」
深夜営業を行なっているバーのカウンター席に腰をかけると、カケルが口を開いた。
「あ、うん…良かったよ。良かった」
わかりやすく口籠ってしまう。一曲目の途中から殆ど記憶がない僕には、その続きの言葉は出せない。
カケルは左ポケットから煙草を取り出して火をつけた。
軽音界隈の人間は喫煙率が異常に高い。口下手な人が多いからだろうか。煙草の煙は、会話の空白を曖昧にぼやけさせてくれるから。もっともカケルは、そのパターンには当てはまらないのだろうけれど。
僕も煙草を取り出そうと鞄の中を探っていると、カケルに横から思いきり煙を吹きかけられる。予測していなかった突然の受動喫煙に、肺が拒否反応を示した。
つまり思い切りむせた。
「ちょ、何?何?」
「それはこっちのセリフっすよ。別に気遣ってくれなくてもいいのに。さすがにあんな狭い空間で気付かないことないですよ」
カケルは脚を組んで口を尖らせる。
僕が頼んでいたロックのバーボンと、カケルのピルスナーの瓶とグラスが置かれる。ウイスキーもビールも、先輩に勧められて初めて飲んだ時は苦くて不味いと思っていたのに、いつから飲みたいと自分から求めるようになっていたのだろう。
「ごめん」
「…いや、全然いっすよ。ちょっとからかっただけですし。チケット買ってくれただけで俺的には万々歳です。俺こそすみません。変な聞き方して」
火をつけた煙草が天井に向かって細い糸を出す。蜘蛛の糸みたいだ。掴もうとした瞬間にそれは消えて、たぶん今よりずっと下のどこかへと落ちてしまう。
今より下。
それは一体何処のことだろう。
「けどコウちゃんさん、そろそろ普通に聴きに来るくらい、しても良いんじゃないんすか?」
珍しく諭すような口調だった。思わず背筋を伸ばして座り直してしまう。
「そうなんだけどなあ」
本当にその通りだと思う。
僕はバーボンに口をつけた。鼻から抜ける香りと、喉に通る熱。
「なんとなくセンチメンタルになるとか、まあそういうのは俺もないわけじゃないから…わかりますけど。でもそれと、コウちゃんさんが音楽全部に拒絶反応出しちゃうのとは、またちょっと違うじゃないですか。俺も上手く言えないけど」
カケルが煙草を咥える。言葉の空欄を埋める煙。
「コウちゃんさんは一体何に囚われてるんすか?」
囚われて。
カケルの悪意のない声が脳内で何度も響き渡る。
その言葉の威力に思わず表情筋が緩んだ。人の表情筋は、その時の感情に沿うように動くとは限らないということを、僕は知っている。
「お前…珍しいくらい辛辣だな。僕もそれが解ってたら苦労してないよ」
「そもそも俺は律のことタブーみたいな周りの空気も嫌なんすよね。いくら表向きに発表してないからとはいえ」
今日のカケルはいつにも増して饒舌だ。目の前に置いてあるのが、いつも飲む居酒屋の安酒ではないからだろうか。
「居なくなった人間のこと、話すのもダメって、いなかったことにしろってことなんですかね。それじゃあまるで」
まるで。
僕はその続きの言葉を既に知っている気がした。
「…いや、なんでもないです。今日は俺の話よりコウちゃんさんの話っすよね」
カケルは僕に向き直る。
少しだけ張っていた空気が、ふと緩んだ。いつのまにか吸い終えていた煙草の吸殻からはもう、糸のような煙は伸びなかった。
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