4. 日暮れ時々烏を呼ぶ

 練習のためにスタジオに入るようになって、4人で過ごすことが増えてから気付いたことが二つある。


 一つは、律は人見知りなだけで慣れてきたらよく話すし笑う奴だということ。

 僕らは瞬の家を溜まり場にして毎日のように集まっていた。律とカケルは実家住み。僕も一人暮らしだけれど、瞬の家の方が何かとアクセスがいい。


 ちなみに瞬が通っているのは国立大学の理工学部だ。いつも騒がしい奴だけれど、恐らくサークル内で1番か2番目くらいに頭がいい。部屋には僕には理解できない応用数学の教科書とか、高分子化学の書籍とかが並べられている。前に一度開いてみたことがあるけれど、目次だけでアレルギー反応を覚えて速攻で本棚に戻した。


「瞬さんの家の冷蔵庫って何で一生タコあるんすか??いつのですかこれ」


「大阪出身ってだけでタコパに誘ってくる奴がえらい多くてな。もう去年だけで何個食べたかわからへんわ。やから飽きてんな。ゆうて俺、そんなにたこ焼き好きちゃうし。楽しいからいいねんけどな。いやちゃうねん。それは何でもいいねん」


「早く本題に入れ」


「やから、ドライブ行こうゆう話」


「いつの話ですか…?」


「今日、今、ほら今、行くで」


「はあ?!今何時か知ってます?!」


 こんなことは日常茶飯事で、とにかく無茶苦茶だった。律は始めこそお祭り男2人に戸惑っていたものの、その阿呆さ加減に徐々に心を許したようだった。元からカケルや瞬は人と話すのが上手いし、飲み会で無理矢理会話を引き伸ばしていた僕なんかよりもずっと自然に距離を縮めていった。


 バンド名である『夜烏』は僕が出した案だ。新入生ライブを間近に控えた頃、4人で持ち寄った候補を紙に書いてティッシュの空き箱に放り込み、そこから引いて選んだ。後から開いた他の紙には「青缶日和」とか「気まぐれポンタンズ」とか、とにかくろくなものがなかった。元々、その名前を使うのはその場限りの予定だったので無理もない。

 まともなものを書いておいて良かった。と今では思っている。結局長く使うことになった訳だし。


 僕達が動き始めるのは、いつも決まって夜になってからだ。夜にだけ騒ぐ、どこにでもいる大学生の群れ。規律も秩序もあったもんじゃない。烏合とは僕達のことだった。もっとも僕達が待っていたのは朝ではなく、夜だったのだけれど。



 そしてもう一つは、僕は律の実力を完全に測り間違えていたということだった。

 正直、音程を合わせて歌うことができる奴なんていくらでもいるし、高校時代軽音部の経験者という奴も大勢いる。だけど初めて律の歌を聴いた時、僕は、そんな自分の思惑をあっさりと覆されてしまう。


 一音目から息を吸う音も聴き逃せないくらい、その場の空気全てを律が制していた。


 話している声よりもずっと澄んだ透明の歌。

 伸ばした音が止まった後の余韻。

 ギターを鳴らしているだけの間奏の間でさえ、他者にその空間への介入を許さない。演奏の間、律の動きひとつひとつに一切の無駄がなかった。


 僕の心は完全に魅せられていた。自分も楽器を弾いているのに、意識は律の方に向いていた。


 その感情に、新歓コンパの時に律の瞳の奥に見た雪を思う。

 触れたら溶けてしまいそうな2つのその結晶。

 雪は、音を吸い込むという。

 律の歌以外の音がぼんやりとしか聴こえなくなったスタジオ内には、確かに雪が存在していたのかもしれない。


 以前宴会の席でヒロキさんが「長くライブハウスを経営しているけど、たまにどこから湧いているのかわからない、不思議な魅力を持つ人っていうのもいるんだなって思うことがある」と言っていた。僕は律を観た時、初めてその言葉の意味を理解した。


 ──天に与えられた才能というのは存在するのかもしれないよ、孝太くん。


 頭の隅でヒロキさんの言葉が蘇る。律の歌を聴いた時、ヒロキさんはまた同じことを言うのだろうか。


 演奏が終わってもしばらくその場にいる誰も口を開かなかった。時が流れているというを忘れてしまいそうだった。

 やがてカケルが「やっば!!今の何?!」と猛烈な勢いで律を称賛し始めたところで、スタジオのレンタル時間終了を知らせに来たスタッフが扉を開ける音がした。



 律の歌に加え、カケルも楽器経験者であったこともあり、僕達の演奏のクオリティは確かなものだったのだろう。新入生ライブでの僕達の演奏は好評の嵐だった。それがお世辞ではないと自負できるくらいには、僕自身も満足のいく手応えだった。

 僕は久しぶりに達成感を感じていた。


 僕らが所属する軽音サークルでは、ひと月かふた月に一度ある定期ライブ以外の活動は自由で、演奏は主に既存のアーティストのコピーが中心だった。それで物足りない奴はサークル内でメンバーを集め、作曲も自分たちで行うバンドを組み活動拠点をライブハウスに移す。そしてそうしたバンドを組んだ奴は次第にサークルのライブには参加しなくなっていくのがお決まりのパターン。


 2年生になって同期の数が減り始め、単位の取り方を覚えて段々と大学には行かなくなる日々の中で、僕も瞬も時間を持て余していた。

 だから「このメンバーのまま、ちゃんと曲作ってみいひん?」と言い出した瞬の言葉にはなんの疑問も抱かなかった。


 サークル勧誘の時と同じようにまた迷われるだろうか、と思っていたが、意外にも律はすんなり首を縦に振った。


「あの時孝太さんがゴリ押しして来なければ、こういうこともなかったんでしょうね」


「その節はごめんって」


「いや、むしろよかったです。僕今、けっこう楽しいので」

 そう言って律はにこにこと笑っていた。


 単純に、僕達に心を許してくれているから、なのだろうか。

 そうだとしたら、それは嬉しいことだ。


 カケルがヒロキさんの経営するライブハウス「7th Q」でアルバイトを始めたこともあり、初ライブ、会場販売CD制作決定まで円滑に話が進んだ。


 8月に入った頃、僕達は丁度1枚目のCDに入れる楽曲制作のことで毎日頭がいっぱいだった。スタジオ、ライブ、スタジオで埋め尽くされているスケジュール。その忙しさが心地良かった。


 あの時期、自分達の両の手足を縛るものなんて何もないとなんの根拠もなく信じていた。

 札幌の四角い街の片隅で、僕達は何者かになれる気がしていた。

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