3. 春に見た雪
1つ年下の律と僕が出会ったのは、僕が大学二年生になった4月のことだった。
大学の軽音サークルの新入生歓迎コンパ。会場の居酒屋の店内は、勧誘する側の上回生が定期的に席を移動しながら話すせいでごった返していた。
周りの新入生が同期や先輩との共通の話題を模索している空間の中、律は一番端の席に座って1人誰かが置きっぱなしにしたビールの泡が消えていくのを眺めていた。
傷みのない綺麗な黒い髪。当たり障りのないオフホワイトの無地のトレーナーと黒いスラックス。顔立ちは整っているのに、どこかパッとしないのは「人見知りです」と一目でわかる雰囲気のせいだろうか。
一人で座っている新入生を見つけたら、たぶん上回生は声をかけるべきだ。僕は義務感のように律の隣の席に腰を下ろした。
名前を聞いてから「パートは?」と尋ねた僕に、彼はちらりと視線を移して「ギターボーカルです。でもやっぱり、入るのやめるかも」と答える。
「なんで?」
「コピーして歌うだけなら1人でもいいかなって。僕、飲み会とかあんまり得意じゃないみたいですし」
律はそう答えながらぼんやりと空気に目をやる。その瞳に、僕の知らない黒い陰と、その中に一つひかる雪のようなものが見えた気がしたのは、律の染めたことのない黒い髪のせいだろうか。それとも照明の明かりが当たりにくいこの席位置のせいか。
僕は咄嗟に、引き留めなきゃ、と思っていた。
勧誘した相手に「入るのやめるかも」と面と向かって言われると、言われた側は相手が出会ったばかりのただの一年生でも、上回生のプライドのようなものが湧き上がって引き留めようとしてしまう。それはたぶん当然のことだ。
けれどこの時僕を動かしたのは、そういったプライドとは違うものだった。僕の心は律の黒い瞳の中に一粒ずつ、両の目で二粒ある雪の結晶に捕らえられていた。絶えず揺れながら何とか形を保つそれは、今目を離したら溶けてしまって、2度と見ることができないもののような気がして、気付くと手を伸ばしたいと思っていた。不思議な感覚だった。
もしかしたら全部気のせいかもしれないし、単にお酒を飲んでいだせいかもしれない。今となってはわからないけれど、とにかく、僕は自分の頭の中からその雪を掴むための言葉を選ぼうとした。
この場しのぎでもいい、何か言わなくてはいけない。意を決して口を開く。
──大丈夫大丈夫!そう言わずにさ、一回ライブ出てみて考えるのもありだと思うよ。僕ギターだから、とりあえず新入生ライブ一緒に組もうよ。合わなかったらすぐ辞めていいしさ。こういう場で騒ぐのが好きなやつもいるけど、そいつらもみんな優しいし良い人たちだよ。僕も最初は迷ったけど、今はそこそこ楽しんでるし、大丈夫大丈夫。ていうか好きなバンドとかある?へえ、高校の時ギターやってたんだ!ってことはコピーなんて余裕じゃん!
もちろん僕の脳内には一言で相手を射止める魔法のフレーズなんて存在していなかったので、出てきたのは陳腐でありきたりなものばかりだった。
サークル勧誘の時に上回生が口にする「大丈夫」ほど軽くて薄くて信憑性のないものはない。そもそも何が大丈夫なのだろう。散々自分で口に出しておいて何だ、という感じだけれど。
──そういや、履修とかもう組めた?うち人数も多いから楽な授業の情報も集まりやすいよ。大学の授業はマジで情報戦だから。同じ学部の奴、紹介するから教えてもらうといいよ。
早くも上回生と肩を組んでお酒を飲んでいる明るい髪色の新入生たちの声を背景に、ほぼ一方的に喋り続ける。僕は普段そこまで饒舌な方ではない。この時の勧誘トークは新入生勧誘期間を経て僕の脳内に染み付いたテンプレート会話文である。
「ということで、とりあえず出ようよ。ライブ」
「えっと…」
あとから聞いた話だと、この時律は僕のあまりの食い下がりっぷりに半分諦めを覚えていたらしい。冷静に考えると普通に鬱陶しいことこの上なかったのだろう。申し訳ない。
「わかりました。じゃあ出てから考えます」
困惑の表情を浮かべてはいたが、ついに律が頷くのを目にしてテーブルの下で軽くガッツポーズをする。感無量。
「よっしゃ!」
「孝太さん、ですよね。よろしくお願いします」
「よろしくううう!」
律儀に差し出された手を強めに握り返す。
その頃には、前の席に置かれたビールの泡は完全に消えてしまっていた。
「こいつほんまにおもろい。コウちゃんもちょっとこっち来てや」
その後も無理矢理引き延ばしていた律との会話が完全に止まりかけた頃、横から突然肩を叩かれる。振り返らなくても口調で瞬だとわかった。
大阪生まれ大阪育ちの生粋の関西人である瞬は僕の同期。何度か一緒にライブに出たことで親しくなり、よく遊びに誘ってくれる。パートはドラム。よく喋る。そしてとにかく声がでかい。そのせいで下宿先のアパートで友達と電話をしていただけで隣の部屋まで声が響き渡り、隣の部屋と下の部屋の両方から警察を呼ばれたこともあるらしい。本人は反省していたが、その後声量が改善されたとは言い難い。
僕は律に「じゃあ、また連絡するから」と声をかけてその場を後にした。
「コウちゃんと大学と学部同じやって。後で履修とか教えたってや」
瞬の後ろから背の高い金髪の男が顔を出す。片方だけ開いたピアス。派手なシャツ。長めに伸ばした前髪。ぱっちりと大きな瞳には爛々とした光が灯っていて、人懐っこそうだと思った。それは律から受けた印象とは全く逆だった。様子を見るに瞬とカケルは既に完全に打ち解けたようだ。
「カケルっす!よろしくお願いしゃす!」
一言目で瞬とすぐに仲良くなった理由がわかった気がした。何というか、ノリが似ている。あと身長もか。
僕のサークルはインカレ、いわゆる他大学の生徒の入会も認めている団体だ。僕はこのサークルのメンバー構成の大半を占める私立大学に通っている。カケルと紹介された男もどうやら僕と同じ大学の経済学部らしい。
「僕は水沢孝太。2年のギター。同期からはコウちゃんって呼ばれてる。よろしく」
「コウちゃんさんですね!俺は高校ベースやってました。後で俺でも取れそうな授業教えてください!」
コウチャンサン、という響きに若干の違和感を覚えながらも「おっけー」と返事をして近くに座る。
人懐っこそう、という第一印象は間違っていなかった。カケルは人と話すのが上手い。僕もまんまとカケルのペースに持っていかれてしまい、履修をあらかた決め終わる頃にはすっかり距離を縮められていた。
「なあ瞬、新入生ライブもう組んだ?」
カケルとも連絡先を交換した後で、瞬に声をかける。
「いや、カケルとは組みたいと思っててんけどな…まだ特に何も。コウちゃんは?どないするん?」
新入生ライブは上回生が新入生とその場限りのバンドを組み、楽器やスタジオに触れたことのない初心者も含めてフォローをしながら行われるライブだ。新入生サークルの空気感に実際に触れる初イベントのため、このライブの満足度で、新入生のその後のサークルへの参加度があらかた決定する。
「ちょうどボーカルで入会迷ってる子がいてさ。さっき新入生ライブだけでもって説得してたんだ。決まってないなら僕らと組んでよ」
「珍しいな。コウちゃんってそんなことするタイプやったっけ?」
瞬は不思議そうな顔をしていた。正直自分でもよくわからないので、少しだけ黙ってしまう。
「なんとなく、放って置けなくて。結構無理矢理引き留めちゃった」
「そら責任持って楽しませなあかんやん」
瞬がにっと笑う。こいつの面倒見の良さを、僕は信頼している。
「カケルも一緒にええよな?」
「もちろん。カケルもそれでいい?勝手に話進めちゃったけど」
「俺はなんでも大丈夫っす」
カケルはヘラヘラと笑いながら答える。僕は「ありがと、それじゃよろしく」と2人に告げてから、2人に律を紹介しようと立ち上がった。
こうして、僕達4人は出会うことになる。別に劇的でもなんでもない。少なくともその時の僕はそう思っていた。
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