2. バットトリップの後遺症

 翌日の目覚めは最悪だった。


 ライブハウスの帰りに立ち寄ったコンビニで買った安い発泡酒とストロングのロング缶。家に着くなり発作を抑える薬のように一気飲みして、闇に堕ちるように眠りについた。


 4時からのバイト以外、特に予定もない僕が起きた時にはすでに時刻は正午を回っていた。


 立ち上がろうとして、胃の底からとてつもない不快感が押し寄せるのがわかる。条件反射のように素早くトイレに移動して吐瀉物にもならない微量の胃液を吐く。圧倒的二日酔い。意に食べ物が入っていない状態で安酒を飲むという愚かな行為の選択の結果なので当然だ。


 気分最悪。


 昨日「7th Q」の入り口に立っていた時の僕は全くもってこんなはずじゃなかったはずだ。

 六畳のワンルームに戻って、机の上に放置されたいつ買ったかもわからない500mlの水のペットボトルに手を伸ばす。貧乏舌の僕は水の風味の多少の劣化なんて感じ取れないので、飲めされすればでなんでもいい。

 不快感を少しでも紛らわせようとシャワーを浴びる。着替えを取り出そうとしクローゼットを開けた時、長い間見ないようにしていたそれにふと目が止まってしまった。


 クローゼットにかけられた冬物コートの奥に隠れるように置かれたギターケースと、エフェクターが入った黒いジュラルミンケース。


 服を手に取りながら、ライブハウスの匂いと照明の目を突く白をふいに思い出して、心臓がどくんと一度大きく鼓動する。体の底から何かがまた押し寄せて来そうになって、慌ててクローゼットの扉を閉めた。



「孝太さん2日酔いですか?」


 開店に向けてビール樽とサーバーを接続していると、グラス用洗浄機の立ち上げ作業をしている綾乃が声をかけてきた。


「うん…昨日空きっ腹に酒入れちゃってさ、目覚め最悪」


「やっぱり、若干顔色悪いですもんね。静かだし」


 綾乃は僕の一つ年下の大学三年生。小柄な体躯にぱっちりと大きい目。高めの位置で結んだポニーテールの髪はゆるくウェーブがかかっていて、その髪が揺れる度、内側だけ染まった淡いピンク色がちらつく。丸い輪郭と幼い顔立ちとは対照的に、話し方や仕草は落ち着いていて、なんなら先輩のはずの僕より仕事ができる。


「私も昨日、飲んでましたよ。朝方くらいまで」


 尚、落ち着いているのは話し口調だけだ。市内で恐らく一番大きな規模のダンスサークルに所属している綾乃は友達も多く、そして相当な飲み会好きである。それも騒ぎたい、ではなく飲みたい、というタイプの生粋の酒好き。


「いやもう…歳だからさ僕は。オールとか無理無理」


「何言ってるんですか。1つしか変わらないですよ。今度私とも遊んでくださいね」


 それに僕は飲み会ですらなかった。一人で勝手に自滅しただけだ。とはなんとなく言えない。引かれそうだし、勘繰られるのもあまりよろしくない。


「吐いたらごめん」


「えっそれは絶対嫌です」


 予想以上に嫌そうな反応。ちょっと傷つく。


「冗談だって」


 ビールサーバーの準備を終え、客席テーブルを拭こうとその場を移動する。


 居酒屋「ハレノヒ」は店長である沖田さんの個人経営店だ。店内はテーブル6席、カウンター10席で決して大きくはない。大学に入学したての頃に求人を見つけて応募したところ、学生時代に軽音をしていたという沖田さんと意気投合し採用決定。それからずっと続けている。


 もっとも僕は音楽は辞めてしまったのだけれど。



「そういえば孝太さん、ちょっと聞きたいんですけど」


 開店準備を早めに終え、店の厨房の隅で一休みしていると、綾乃が口を開いた。


「なに?」


「孝太さんって札幌のアーティストとか詳しいですよね?」


 音楽、という単語にどうしても少し身構えてしまう。自意識過剰だとは理解しているのに。

 「まあ、多少は」と答えると、綾乃は自分のポケットからスマートフォンを取り出して操作し始めた


「私、高校生の妹いるんですけど、なんか女子高生の間で話題になってる弾き語りしてる人がいて。それが札幌の人らしいんですよ」


「へえ」


 動画投稿サイトを開いた綾乃は「そら氏」と検索してヒットした検索結果の一番上の動画を再生する。


 室内で歌う男の、首から下とギターのボディだけが見える。手にしているのはエピフォンのエレアコ。どこかで聞いたことのあるイントロのコード。ああ、有名なアニメのオープニングテーマになっていた曲だ。タイトルは…


 ーーと、Aメロを歌い始めた瞬間に指先の力が抜ける。ぽかんと口を開けてしまう。


「知ってます?この人」



 時が止まる。僕の周りだけ。



 小さな画面の中で再生される声は、聞き覚えがある、なんてものではなかった。

 一度脳内に強く貼り付いたものは、時が経って経年劣化していても少しの刺激で元に戻る。モノクロだった記憶が五感で思い出せる鮮やかなものに変わる。昨日、体験したばかりのその感覚。


「すごいいい声ですよね、一月前が初投稿なのにもうチャンネル登録者数1万超えそうって」


 聞こえているはずの綾乃の声が、脳内で内容を濾過されないまま通り抜けて外へ出ていく。


「孝太さん?」



 聴き間違える訳がない。



「おーい!聞いてますー?」


 映り込むエピフォンのエレアコを見た時に直感できなかった自分が恨めしい。気付いていたら、少しは予測できていただろうか。

 できていたとして、心構えをすることなんて可能だったのだろうか。


「孝太さん!ちょっと!」


 綾乃に肩を揺さぶられてようやく我に帰る。全く、嫌なことというのはどうしてこう立て続けに起こってしまうのだろう。慌てて掌の汗をズボンで拭く。


「あ、いや…ごめんごめん。この人、知らなかった。すごい良くてビビった。札幌にこんな逸材がいたんだ」


「そうなんですね。やっぱり最近弾き語り始めたばっかりなのかな。声も若いし学生なんですかね」


 知らないなんて大嘘だ。最近始めたのではない。最近活動していたのだ。


 もっと言えば去年の冬まで。


「そうなのかも」


返事をしながら改めて確信する。



 あれは、間違いなく天野律の歌声だ。



「良いですよねー!妹の影響で私もめっちゃ動画見てるんですよ。いつか生で聴きたいな」


 ──それは無理だ。


 天野律は、もうこの世に存在していないんだから。なんて言えるはずもない。


「そうだね」


 出てきた返事の言葉は、およそ感情と呼ばれるものなど含まれていない、無機質なものだった。

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