アマデウスの声をなぞって
くすのき凪
1. 目に痛い白と
狸小路のアーケードを通り抜け、路地裏に抜ける。何度か角を曲がって、地下にあるライブハウス「7th Q」へと続く階段の前で立ち止まった。誰に見られているわけでもないのにやけにわざとらしい仕草で時刻を確認する。時刻は21時42分。狙い通りギリギリ。僕はゆっくりと息を吸ってから、8ヶ月ぶりにその階段を降りた。
扉を開けると、ざわざわとした人の声と機材チェックの音が漏れてくる。入口のカウンターに座っている人物は、僕と目が合うなり驚いた顔をして立ち上がった。
「孝太くん!久しぶり!元気だったかい?」
「ヒロキさん!お久しぶりです。しばらく顔出せてなくてすみません」
ヒロキさんはこのライブハウスの経営者だ。周辺の学生の軽音サークルに借りやすい価格でライブハウスを貸してくれることもあり、やたらとこの辺りの大学生と親しい。僕も以前まではよくここに通っていた。
「いや全然だよ。今日はカケルくんを観に来たのかな?」
「そうです。チケットの半押し売りをされまして」
「孝太くんもなんだかんだでカケルくんに甘いよね。まあ楽しんでいきなよ」
ヒロキさんに軽く肩を叩かれ、緩く笑って見せる。楽しむ、果たして僕にそんな余裕はあるのだろうか。
大丈夫、いい加減僕も体の力を抜いていい。あれから、もう半年以上も経つのだ。教室一つ分程度の狭いライブハウスの中央部まで移動しながら、僕は自分に言い聞かせた。
辺りの照明が全て落ちる。暗転。
会場全体をざわつかせていた客席での会話がぴたりと止む。少しの沈黙。地下の湿気と汗と煙草を含んだ、カビのような、ライブハウス独特な匂いが鼻を通り抜ける。それと同時に両耳を貫くように響く耳鳴り。
間も無く流れ出すSEーーオープニング曲。知らない洋楽の軽やかなメロディ。SEが耳鳴りを上書きするように大きくなって、耳元の雑音が遠くなる。
やがてステージの照明が灯される。目に痛い白。
バンドメンバー4人が順番にステージへと登っていく。最初はドラム、次にギター。あいにく僕はこの2人の名前はわからない。その次にベースのカケルが現れる。このバンド内で唯一の顔見知り。最後にボーカル。当然ながら名前は存じ上げない。登壇したメンバーは客席に向かって軽く頭を下げてから定位置へと向かう。
客席から黄色い歓声と野次のような声をかけられて、カケルの顔が一瞬だけ緩む。フロントの3人の後ろでは、ドラムがスティックを手先で器用にくるくると回しているのが見える。フロントマン3人が足元の機材を操作して、楽器のミュートを解除する。
マーシャルから流れる、ざらざらとしたハウリングの音。聴き慣れたはずのその音に、体の内側が反応してそわそわと落ち着かない気持ちになる。どんどんブーストされるそれは柔らかい皮膚のどこかを思い切り引っ掻いている。
急に視界が真っ白になった。客席の声も楽器の音も遠くなって、消えたはずのハウリングの音と耳鳴りだけが頭の中に響く。
──あ、これは。
無理だ。
と思った時には既に嫌な汗を背中に書き始めていた。暑いはずの室内で、全身が冷え切っていた。脚がわずかに震えている。
ステージのバンドメンバー4人が目を合わせる。その仕草で、呼吸を重ねるのが見える。
すう、と息を吸って吐き出すのと同時に、メンバー4人の楽器が同時に鳴らされる。だんだんと背景に紛れ、小さくなるSEの音。観客がそれとなく1歩ずつ前に進む。僕はその中で周囲の人々とは反対に、少しずつ後方に移動を始めていた。
「ヒカゲイト自主企画ライブ!最高の夜にしようぜ!」
ボーカルの男が叫ぶ。その声で、周りの温度が更に高くなっていくのを感じる。ドラムの合図で始まる一曲目のイントロ。すぐ横にいる客の拳が僕の頬近くまで突き上げられて僅かに体温を感じる。その温度差に目眩がしそうだ。指先が冷たい。足元がふらつく。真っ直ぐに立っていられなくなって壁にもたれかかる。
この時にはもう、大丈夫だと言い聞かせていた自分のことなどとっくに忘れて、二曲目が始まったタイミングで出口へと向かっていた。ごめんカケル、とステージの上に念じておく。
「あれ、どうしたの?もう帰るの?」
ドリンクカウンターでヒロキさんに声をかけられた。愛想笑いを浮かべているのが自分でも解る。
「すみません…ちょっと体調悪くて」
「大丈夫?無理しないほうがいい。久々だと思ったのにあんまり話せなくて残念だな…色々忙しいと思うけど元気な時にまたおいで」
はい、と答えながらドアに手をかける。バイトと卒論しかやることがない文系大学生の僕が忙しいはずもなかったけれど、そんなことを言う余裕などなかった。早くここから出たい。
やっぱり僕は、ここに来るべきじゃなかった。
この場所に関わるべきじゃなかった。
扉を閉めて階段を駆け上る。通りに出た僕はその場に10分ほど蹲み込んで、嫌な汗と震えが収まるのを待った。
ビルとビルの間から申し訳程度に顔を出す夜の空を見上げて深い溜息を吐く。繁華街のネオンのフィルターを通して見る空には、星なんてない。
今更、僕はこんなところに何をしに来たのだろう。
時が経ったくらいで許されたと思いたかったのだろうか。救われた気になりたかったのだろうか。あれから、たかが8ヶ月で。
9月の札幌の夜は、半袖一枚では肌寒い。僕は先程までとは違う意味での体の冷えを感じて立ち上がり、ふらふらと帰路に向かった。
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