気配

尾八原ジュージ

気配

 また、二段ベッドの上段がきしむ音がした。


 下段に寝ていたユウトはまぶたを開けると、まっすぐに上を見た。常夜灯の微かな灯りの中で目を凝らしていると、細い木の板が何枚も並んでいるのが見えてくる。二段ベッドの上段の底を支えている「すのこ」だ。

 ほんの一年前まで、二段ベッドの上段にはひとつ年上の兄のヒロトが寝ていた。

 ヒロトはもうそこにいない。中学のサッカー部のエースだった彼は、去年の夏の試合中に倒れて意識不明になり、病院に搬送されたが亡くなった。熱中症だった。

 病院のベッドの横で泣き崩れる両親の背中を見ながら、ユウトはまるで他人事みたいな気分だった。なんだか夢の中にいるみたいに頭がふわふわして、現実感がない。母親のシャツの背中によった皺を眺めながら、(こういう事故、夏ごとに一度はニュースで聞くよなぁ)なんて考えていたことを覚えている。他人事だと思っていたニュースの中の出来事が、こんなに身近で起こるなんて嘘みたいだった。

 全然実感が湧かないまま、気が付くと葬儀が済んでいて、ヒロトは骨になっていた。ヒロトの体がもうこの世に存在しないなんて、まるで嘘くさい嘘を聞かされているみたいだった。

 葬儀が終わった後もしばらくは、共有の子供部屋のドアをノックもせずに開けて、「あー腹減った」と言いながらヒロトが入ってくるような気がしてしかたがなかった。ユウトが部屋でマンガを読んだり、ゲームをしたりしていると、ガチャッという音と共にヒロトが顔を出す。そして自分の机の前に重そうな音をたてながらスポーツバッグを放り投げ、また部屋を出ていく。ユウトはその音を頭の半分くらいで聞きながら、形だけ「おかえり」なんて言うのが常だった。

 ヒロトがいなくなった後も、ユウトが机に突っ伏してうたた寝をしているときなど、「あー腹減った」という声を聞いたような気がして、ハッと目が覚めることがあった。その感覚は妙にリアルで、彼はそんなとき(兄がいなくなった世界の方が、悪い夢なんじゃないか)という気がした。

 もちろんそれは「そんな気がした」というだけで、起き上がって活動しているうちに、どんどん現実に引き戻されてしまう。それでも目覚めの後のその感覚が恋しくて、ユウトはたびたび、自室の机やベッドの上でうたた寝をするようになった。


 家の中で奇妙な気配がするようになったのは、ユウトがそんな変な寝方を始めた頃だった。

 たとえば二段ベッドの下段でゴロゴロしながら、うたた寝の中でとりとめのない夢を見ていると、誰かが近くにいるような気がして目が覚める。ぼんやりした頭を持て余していると、家の階段を誰かがトン、トンと上ってくる音がする。

 ユウトはそっと起き上がり、ドアを開けて廊下を見る。視線の先には階段があるが、いくら待っても誰も上がってこない。そのときにようやく、両親は仕事中で、この家には自分ひとりしかいないのだということを思い出す。

 部屋でマンガを読んでいるときに、後ろから誰かの視線を感じることもあった。振り返っても誰もいない。その気配は、「何読んでんの?」と言いながら、後ろからマンガを覗き込んできた生前のヒロトに似ているような気がした。

 洗面所で顔を洗っているときにも、顔を上げた瞬間、誰かが素早く後ろを横切る姿が鏡に映った気がすることがあった。玄関の靴の並び方が、少し乱雑になっているときもある。ユウトは、まるでサッカーの練習を終えたヒロトが、空腹のあまり無造作に靴を脱ぎ散らかしていったのを発見したような気持ちになった。

 ベッドの音もそうだった。一日に何度もうたた寝をするようになってから、ユウトは夜の寝付きが悪くなった。眠れずに何度も寝返りを打っていると、二段ベッドの上段から、ミシッとかギシッとか、木材のきしむ音がすることがある。

 上段はヒロトのスペースで、だから今はもちろん誰も寝ていない。両親が捨てかねて置きっぱなしにされている掛布団やマットレスが、きちんと畳んで積まれているだけだ。そこで眠っていたヒロトはもういないはずなのに、まるで誰かがそこにいるような音だけが聞こえるのだ。

 そんなときユウトは、暗い部屋の中で猫のように目を開いて、この上にいるかもしれない「誰か」のことを、静かに考えた。


 これらの何気ない気配のことを、ユウトは何度か両親に相談しようと思ったことがある。

 でも、できなかった。父親も母親も、ヒロトの死に未だに打ちのめされたままなのが、わかり過ぎるほどわかっていたからだ。

 見るからにギリギリのところで自分を保っている両親の背中を、おかしな方向に押してしまうような気がして、ユウトは「ヒロトが家にいるような気がする」などとは口に出せなかった。そしたらふたりとも、物凄く喜ぶか、物凄く怒るかのどちらかだろうと思った。そしてどちらに転んだとしても、行きつく場所には結局深い深い悲しみが待っている。

 もしもこの家から、今度は父さんか母さんがいなくなってしまったら……そう考えると、ユウトは相談しようとした口が動かせなくなってしまう。もしかするとふたりも、自分と同じようにヒロトの気配を感じているのかもしれない。でも、それを確かめることすら怖かった。

 両親と家にいるとき、ユウトは努めて明るく、ヒロトがいた頃と同じように見えるよう振舞った。自分まで沈んでいたら、家族が本当にめちゃくちゃになってしまうと思った。そういう風に振舞っていれば、家の空気が持ち直して、両親も安心しているように見える。だから彼は懸命に「普段通りの自分」を演じた。

 そうやって生活しているうちに、ユウトはいつの間にか、ヒロトの死を泣く機会を逃してしまった。そのうちに数か月が経ち、ユウトは進級して、ヒロトがいたのと同じ三年生の教室に通うことになった。

 もちろん、そこに彼の姿はなかった。


 暗がりを見つめていると、また上段でギシッと音がした。

 耳をそばだてながらも、ユウトはふと考えた。

 ヒロトのことは好きだった、と思う。

 仲のいい兄弟だったと思う。

 年が近いわりには趣味が合わなくて、休日は別々のことをして過ごすことが多かった。あまりベタベタもしなかったし、どちらかと言えばドライな間柄だったかもしれない。でもそれはヒロトが嫌いだったからじゃない。

(あいつ、エースだからって本当に死んじゃうほど頑張らなくてよかったのに)

 ユウトの脳裏に、ヒロトの日焼けした笑顔が浮かんだ。でもきっとヒロトは無理して頑張ったわけじゃなくて、試合が楽しくて仕方なかったんだろうな。小さい子供みたいに、好きなことに夢中になっちゃうところがあったよな。

 ふと、目頭がツンと熱くなった。

 自分だって、ヒロトがいなくなってしまって悲しい。死んだなんて思いたくない。その気持ちを、ユウトは改めて自分の中に見出していた。

 せめて両親が病室で泣いていたとき、ぼーっと見ていないで一緒に泣けばよかった。そうしていたら、少なくとも今、こんな気持ちにはならなかったはずなのに。

 両目の端に暖かい涙が溜まっているのがわかる。今なら泣いてもいいだろうか。誰にも見られていない、今なら。

 また上段がきしんだ。

 震える唇をはげましながら、ユウトは暗がりに呟いた。

「ヒロト、そこにいるんだろ?」


『だぁれえ』


 頭上から、聞き覚えのないしゃがれ声がした。

 とたんにユウトの体が動かなくなった。こめかみから脂汗が流れる。

 上からミシ、ミシとベッドの上を移動するような音がする。と、長く黒いものが上からばさりと垂れた。

(髪の毛だ)と、動けないままにユウトは思った。


 やがて逆さまになった女の首が、粘度の高い液体が落ちるように、ゆっくり、ゆっくりと上段から垂れ下がってきた。

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