二人目 栞Ⅴ

 梅雨はどうしても気分が落ち込んでしまう。休日だというのに朝から降り続ける雨に、真夜は溜め息をついた。


 機嫌が悪いのはその所為だけではなく、ラップに包まれて作り置きされた朝食にも原因があった。

 正確に言えば朝食に罪はない。問題はそれを作った人物にあり、朝九時にはこっそりと家を出て行った悠一に真夜は不快感を露にした。

 

 彼が出かけることに不満はないのだ。いや多少はあるものの、流石に家に軟禁するような趣味は持ち合わせていない。

 ただ行き先も告げず、黙ってこそこそと家を出たことが無性に気に入らないだけだ。真夜としてはやましい事があるような行動を取った時点でアウトだった。


 親の敵を食らうように片付けた朝食を流しに置き、真夜はテレビをつける。いくつかチャンネルを切り替えても、彼女が見たいと思う番組はなかった。

 歴史物のドラマは興味なし。情報バラエティ番組を見て笑うテンションでもなく、結局天気予報を眺めるだけに至った。

 

 どうやら今日も明日もずっと雨らしい。特に今日の夜は台風並みの暴雨になると、感情のない機械じみたキャスターが告げた。きっと悠一はそれまでに帰ってくるのだろうが、なんとなく言い知れない不安が胸を襲った。

 

(一応メール入れとこうかな……)


 最悪迎えに行こうと決めて、真夜はメッセージを送った。不機嫌さを示したくて簡素な文にする。送った後に少しだけ後悔して、それがまた不満を加速させた。


「もう。つまんないなぁ」


 苛立ち紛れにスマートフォンをソファに投げ捨てた。軽く跳ねて画面が裏返るが、どうせ返事は期待できないのだからどうでも良かった。


 ソファに体を沈めて天井を仰いだ。

 最近はやたら忙しく、こうしてのんびり休日を過ごすことができなかった。元より教師は中々多忙な職で、特にテストが近くなる時期は輪を掛けて忙しくなるのだ。毎年のこととはいえ堪えるものはある。

 

(今日は悠くんと一緒にのんびりしようと思ったのになぁ)


 当てが外れてしまい、イライラは募っていく。

 別に休日をどうしようが彼の勝手ではあるが、それはそれである。どちらかと言えば感情の問題で、理屈がどうこうではない。気に入らないものは気に入らないのだ。

 それは灯も同様のようで、彼女は早々に不貞寝を決め込んでいた。彼が作った朝食を口にしないあたり、怒りは自分よりも深そうだ。

 

「せっかくのお休みなのに……」


 口に出して発散しなければ溜まっていくばかりだった。雨で出掛ける気も起きず、真夜はただひたすらにクッションへ八つ当たりした。

 中身のビーズを思い切りぶち撒けたところで、絶対自分では掃除してやら無いと意地を張った。悠一が帰ったらやらせればいい。こちらは仕事で疲れてるのだ。

 

「そろそろお説教しなきゃかなぁ……その後はお仕置きって言って、落ち込んだら慰めて……ふふふふふ」


 掃除させた後のことを想像して、真夜は今日始めて口元を歪ませた。

 




 背中に悪寒を感じて、悠一は思わず後ろを振り返った。

 雨とはいえ休日の昼頃はそれなりに人が多く、しかしモール内のレストラン街に彼を睨んでいる者はいない。気のせいだと思うことにして、悠一は前を向いた。

 

「どうしました?」


 隣を歩く栞が悠一を覗き込む。

 清楚なパンツルックの彼女は大人びていた。幼く見える悠一と並ぶと歳の離れた姉弟に見えた。事実、先程は姉妹と間違えられていた。姉弟ではなく姉妹ということに、悠一は改めてコンプレックスを感じてしまう。


 栞は少し身を屈めて彼を伺った。当然のように開いた胸元が目の前で揺れ、悠一は顔を赤らめて返事をした。

 

「い、いえ……なんでもないです。なんかぞくってして」

「?」

「いいです、なんでもないですってば!」

 

 わざとやっているのかと思うくらいに強調されたそれが鼻先まで近づいた。耐え切れずに強引に切り上げる。

 くすくすと笑って栞は手を取った。

 

「早く行かないと混んじゃいますよ?ほらほら、何食べたいか決めないと」

「なんでもって、言ったらダメなんですよね」


 ダメです、と頬を膨らませる。

 普段から大人びていると思っていた彼女だったが、今日は振る舞いがどことなく童心に返っているようだった。

 素直に可愛いな、と思ってしまうくらいに、悠一は彼女に心を許していた。

 

「せっかく食べるんですから、美味しいものがいいです」


 ぐいと悠一の手を引いて、栞が楽しそうに歩き出す。

 誰が見ても「とても楽しくて仕方がないです」と分かるくらい、彼女は感情を体中で表現していた。


「栞さんは何が食べたいものとかないんですか?」

「私ですか?私は悠一さんが食べたいものが食べたいです」

「……それって何でもいいってことですか?」

「そうとも言います」


 言い方次第ですねぇ、と言って栞は笑った。釣られて悠一も笑みを零す。


 姉妹以外でここまで心許せる女性はこの町に来て以来初めてだ。他人と少なからず一線を引いてしまう彼だが、それが甘くなっていくのが自分でも分かる。何より家族以外と一緒にいたいと思うこと自体が久しぶりの感覚だった。

 

「でも、大分混んでますねぇ。どこも待たなきゃだめそうです」

「土曜日ですし、雨でみんな屋内にいるんですから。仕方ないですよ」


 また頬を膨らませて唸る。待つということが、栞は大嫌いだった。

 一通りレストラン街を歩き回り、結局二人は比較的好いていたパスタ専門店で食事をすることにした。

 値は多少張るもののクオリティは高く、雑誌にも取り上げられていた店だ。祝日のモールは学生が多いためか、料金の高い店は避けられがちである。僅か数分で店内に通された。

 店内はシックな雰囲気で、やはり高校生が気軽に入れるような店ではなさそうだ。

 インテリアはそれなりに高そうな物ばかりで、メニューの装飾すら凝っていて驚いた。


「お姉さんのおもてなしなんですから、遠慮しないで好きなの選んでくださいね」


 値段に気後れしていた悠一を察して、栞が席の対面から声をかけた。

 言わずとも意思を汲み取ってくれる彼女は素直に凄いと思った。顔に出さないようにしていてもそれは関係がないようで、栞相手に隠し事が通ったこともない。

 相手の顔色を伺ってばかりの悠一からすれば、初めて自分の気持ちを汲み取ってくれる相手である。惹かれるなというほうが無理な話であった。

 

「悠一さんはまだ高校生なんですから、甘えたって誰も文句言いませんよ?」


 子供扱いではあるが、悪い気はしない。悠一はその言葉に甘えることにした。

 ウェイターに気になっていたカルボナーラを頼む。そこそこの待ち時間で出された皿は値段に見合った味で、二人は不満なく食事を楽しむことができた。

 

「やっぱり雑誌に載るだけありますね。これ、本当に美味しいです」

「良かったです。私のもちょっと食べてみます?」


 そう言って栞はフォークにパスタを巻きつけ、零れないよう悠一の口元へ差し出した。

 

「あーん」

「え、あの……それは恥ずかしいです」

「あーん」

「いやだからですね……」

「あーん!」

「……」


 にこにこと笑顔ではあるが、どこか有無を言わさぬ雰囲気だった。

 引く気はまったくないようで、無言でフォークを突き出したまま動かない。結局根負けした悠一は、諦めて口を開けた。

 途端に花が咲いたように笑顔を弾けさせた栞がフォークを押し込む。はっきり言って味は分からなかったが、それでも彼女が喜んでくれるなら多少恥ずかしくても構わない。


 若干赤みがかった頬を手で仰いで、悠一はパスタを飲み込む。

 再びフォークを突き出す栞に苦笑いを返して、人生で一番長く感じる食事は進んでいった。

 

 



 見たかった映画は思いのほか期待外れだった。

 とにかく派手な爆発やカーチェイスばかりで、内容が頭に入ってこなかった。無理矢理ねじ込まれたようなロマンスがまた違和感を感じさせるが、それを上回るアクションが魅力的だったのだから今回は良しとしよう。

 それでもどこか不完全燃焼のような気持ちのまま映画館を出て、二人は暫くふらふらと歩き回った。

 長時間座っていたので疲れはないし、悠一も栞も何となく歩きたい気分だった。小雨が気持ちよく感じる。小雨程度は気にしない栞は傘を閉じていた。

 

「雨って、なんだかいい気分になりません?」


 私好きなんですよね、と悠一の前を歩く。モールの近くにある大きな公園は、散歩道としてはおあつらえ向きの環境だ。雨のせいで人は少なく、まるで街の中で二人だけになったような印象を受けた。

 空一面に広がった雲は薄黒く、外は普段よりも幾分か暗い。気温も湿度も高いため不快感は強かった。

 それでも栞は楽しいらしい。足取りは軽く、スキップまでしそうであった。

 

 そんな後ろ姿を眺めて、悠一はそうですね、と一言返すだけに留まった。なんだか不用意に言葉を重ねてはいけない気がしたのだ。

 彼女の機嫌を損ねるような言葉を口にしたくなかったし、この雰囲気を壊したくない。急に彼女との距離を感じてしまい、堪らなく不安で仕方なかった。

 

(そういえば栞さんのこと、なにも知らないな……)


 大学生であること。

 一人暮らしをしていること。

 バイト先の同僚で、面倒見のいいお姉さんであること。

 

 自分が知っているのはそのくらいだ。好き嫌いも誕生日も、彼女の交友関係も血液型も知らない。

 だからこんなとき、なんて話しかければ良いかも分からなかった。彼女が嫌い言葉も喜ぶ言葉も知らないから余計不安は増していく。

 

 彼女から自分の顔は見えない。

 悠一は胸を締め付ける不安をそのまま表情に出した。

 それに呼応するように、雨脚が強まっていく。傘を叩く音が次第に大きくなり、街頭が照らす光に雨が白く煌く。目で分かるくらいに雨が強く降り注ぎ始めていた。

 

 栞は傘を差さない。手に持ったまま、杖のように地面を突いて歩いている。

 見る間に濡れていく彼女に、悠一は慌てて駆け寄り、自分の差していた傘に彼女を入れた。

 

「栞さん、風邪引いちゃいますよ」

「ふふ、風邪ですか。いいじゃないですか。私好きですよ、風邪」


 お姉さんは風邪を引きたいんです、と笑う。

 ずぶ濡れで、ふわりとした髪が頬に張り付いていた。いくら気温は高くないといえども心配してしまう。


 一つの傘の下にいると、どうしても距離は縮む。

 雨の匂いに混じって彼女の柑橘系の香りが鼻を擽り、次いで吐息の熱。今さらになって気恥ずかしさが悠一を襲った。

 目を伏せた悠一の耳元で、栞はゆっくりと囁いた。

 

「だって風邪引いたら、悠一さん来てくれますし、ね」

「それはっ……」

「来てくれますよね?私嬉しかったんですよ。あの日があったから私は生まれ変われたって思えるんです」


 悠一の顎を指先で引き上げる。真っ直ぐに栞の瞳が悠一を捉えた。

 相合傘の下、二人の距離はとても近い。瞬きもせずに見つめる栞は、悠一の答えを待たずに言葉を続けた。


「ねぇ、悠一さん。これから私の家に来ませんか?」


 傘を持つ手に添えられた手は、雨に濡れてもひどく熱い。

 どういう意味か分からない訳ではない。一瞬姉妹や千里の顔が頭を過ぎり、鼻先に迫った唇から零れた吐息がそれを消し去っていく。


 はい、とか細く返事をしたときには、悠一の頭に家族の姿はなかった。

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