二人目 栞Ⅳ

 彼が気になり出したのには理由がある。

 

 自分自身が異性からモテることは分かっていた。

 少し気があるような素振りをすれば、男は大抵言いなりになった。視線は首より下に向かれがちだったが、慣れればどうという事はない。

 自分でお金を稼がなくとも欲しい物が手に入り、それと同時に男性に対して見下したような気持ちが大きくなっていく。少なくとも制服に身を包むようになってからは、男性に恋心を抱くような女ではなくなっていた。


 それは大学に入ってからも同じ事で、より露骨にアプローチを仕掛けてくる男性を上手く操り、より高価なものが手に入るようになってからは一層心が冷めていった。

 そのお零れに預かろうとする女友達も、影で罵詈雑言を並べる馬鹿な奴らも、栞にとってはどうでもいいことだった。

 

 両親は妹に期待をかけ、自分にはまるで興味なし。大学進学をきっかけに一人暮らしを勧めたのは、きっと厄介払いの為だろう。栞は別段なんの感情も抱かないまま、一人で暮らすには広い部屋に移り住んだ。

 

 希薄になっていく自分に嫌気が差して、何となしに目に留まったカフェでアルバイトを始めた。

 今まで働いたことなどないものだから、想像していたものとのギャップに戸惑いもした。ミスばかりを繰り返し、あのマスターでなければとうにクビになっていただろうと思う。だが彼が女性に興味がないことも幸いして、栞はバイトを辞めたいとは考えなかった。


 半年が経過してやっと慣れ始めた頃、彼女に後輩が出来た。

 最初は女の子かと思ったのだが、訊けば高校生の男の子だと言う。声変わりしていないんじゃないかと思うくらい男性にしては高い声にさらりとした猫っ毛。撫でると本物の猫のように目を細めるのが可愛かった。猫を飼いたいと思ったのもこの時からだった。

 

 自分と違って要領も良く、あっという間に仕事を覚えていった彼は、気付けば店の人気者になっていた。

 それはそうだろう。容姿が良くて人当たりも良い。上辺だけで取り繕った笑顔などではなく、心の底から湧き出るような笑顔。女性客が日に日に増えていく理由も納得できた。

 

 そんなある日、栞は風邪を引いてしまった。

 高熱の上に体もだるい。おまけにどれだけ着込んでも寒気が取れないのだから、いよいよ死ぬのではないかと本気で考え込むくらい弱りきっていた。

 

(ここで死んでも誰も気付かないんだろうな……)


 家族の連絡先など知りもしない。下心丸出しの男たちからのメッセージなど見る気も起きない。見舞いと称して家に上がり込もうなど誰が許すか。

 ベッドから体を起こす気力もなく、ただひたすら天井を眺めていたとき、不意にチャイムが鳴った。

 真っ暗な室内に響く電子音がとても不快だった。頭に響いてひどく痛む。イライラは募り、無視を決め込もうと毛布を頭から被った。

 

 しばらくして、もう一度鳴った。

 一度目からある程度時間が掛かったのは、遠慮からだろうか。続く三回目には苛立ちに奥歯が鳴った。

 こめかみを抑えながら、栞はドアフォンへ向かった。乱暴にボタンを押す。画面の光に目が眩んだ。

 そこに映っていたのは、彼女が思いもしなかった人物だった。

 

「あ、榊原さん。櫻井です。風邪を引いたってマスターから聞きまして……」


 ビニール袋と傘を手に持った悠一がそこにいた。

 言い訳のように捲くし立てていたが、要はマスターに言われて見舞いに来たようだ。修にはバイトを休むと連絡していたので、余計な気を利かせてくれのだろう。

 怯えたようにこちらを見る悠一に気が抜けて、栞はオートロックを解除した。

 先程までの怒りは何処へやら、汗まみれのシャツを着替えて少年を待った。丁度着替え終わった頃に、再びチャイムが鳴る。

 苛立ちを表す意味で、乱雑にドアを開けてやった。案の定びくりと身を震わせた少年が立っている。


「いらっしゃい。ごめんね、こんな格好で」

「いえ、僕も押しかけちゃいましたし。えっと、その……大丈夫ですか?」


 大丈夫というのはどっちのことだろう。

 体調を心配しているのか、それとも女性の部屋へ連絡もなしに訪ねてきたことだろうか。きっとどちらもだろうと思って、栞はくすりと笑った。

 

 悠一の持つビニール袋から葱が飛び出ている。何か食事を作ろうと思って買ってきたのだろうからと、栞は部屋に上がるよう促した。

 分かりやすいくらいに動揺する少年を招き入れ、栞はドアに鍵を掛けた。他意はなかったのだが、少年はその音に過剰に反応していた。

 

「あの、ご飯食べてないだろうってマスターが言ってたんで。お粥とかなら食べられそうですか」

「あー……、うん。大丈夫。ありがとう」


 食欲は全く無かったが、わざわざ材料を買ってきてくれたのだ。少しだけ雨に濡れた少年を思って、栞は頂くことにした。


 安心したように笑顔を見せる少年をキッチンへ連れて行き、好きに使っていいと告げる。シャワーを浴びる旨も伝えて、彼女はその場を離れた。

 浴室で今更ながらにノーメイクだったことに気付いた。すっぴんでも十分魅力的だとは思うが、何故かメイクしておきたい気持ちに駆られる。結局面倒臭さが勝って、すっぴんのままリビングへ戻ることにした。

 

 ドライヤーすら適当に済ませた栞は、火照った体をソファに沈めた。熱はまだ下がっていないようだ。

 ぼうっとしたまま、キッチンで忙しなく料理する悠一を眺める。幾度も味見をしては首を傾げ、ようやく満足いったのか笑顔で頷いていた。どうせ味など分からないのだからなんでもいいのに。

 どこで食べるかという問いに、栞はここで、と簡単に答えた。ダイニングテーブルまで行くのは面倒だ。

 白い小さな茶碗にお粥がよそられる。卵と塩、それに少しの梅が乗せられたそれは、シンプルながらも美味しそうに見えた。

 

「熱いので気をつけて下さいね」


 またにこにことしている少年。何が楽しいのか、彼が沈んでいるところはあまり見たことが無い。

 栞はどんな顔をしていいのか分からないまま、スプーンを受け取った。

 悠一はソファには座らず、床にそっと正座。律儀な子だな、とは思ったが、隣に座られても困るので黙っておく。

 まじまじと見られる居心地の悪さを無視して、栞はお粥を口に運んだ。

 

「……」

「どうですか?」


 美味しいと言うのが悔しくて、結局口から出たのは「まぁまぁ」という言葉だった。そうですか、と困ったように笑う少年に心が痛む。

 二口目からのペースは上がり、あっという間に一椀平らげてしまった。少し温めの水を飲んで一息つく。胃に多少物が入ったからか、ほんの少しではあるが体のだるさが緩和された。

 

 ご馳走様と言えばいいものを、栞はどうしても口にすることが出来なかった。その代わり、誤魔化すように悠一を責めたて始める。

 照れ隠しに八つ当たりなんて、なんて嫌な女だろうかと自己嫌悪した。

 

「櫻井くんはさ、どうして今日来たの?」

「どうして、ですか」

「そう。そこまで仲良い訳でもなかったし、マスターに頼まれたからって、わざわざ料理まで作ったりしてさ。適当に飲み物とか、出来合いの物買ってくるだけでも良かったじゃない」


 雨に濡れてまで来ることないでしょ、と突き放す。好意を受けておいて礼もしない。してやらない。

 悠一は困り顔を崩さぬまま、答えを思案しているようだった。結局良い言葉が思い浮かばなかったのか、たどたどしくも答えを口にした。

 

「……確かに、そうかもしれないですけど。でも、風邪のときって一人だと心細いじゃないですか」

「そうかもね。でも、ただのバイトの同僚にそこまでする理由ってなに?」

「理由って言われると……マスターから榊原さんが風邪引いてるって聞いて、大丈夫かなぁって思ったからじゃ、だめですか?」


 それに、と悠一は付け加えた。

 

「榊原さんは知らない人じゃないですし、そりゃ友達とまではいかないかもしれないですけど。それでも、マスターから話を聞いたときは何かしてあげたいなって思いました。バイトでもお世話になってますしね」


 自分の言葉が照れくさかったのか、悠一はわざとらしく笑って見せた。

 そんな純粋な少年の好意が妬ましく思えた。どこかに捨ててしまったようなそれが、途端に憎らしくなる。

 八つ当たりと分かっていても、彼女は感情を抑えることはしなかった。

 

「はぁ?なにそれ。要は私が可哀想だったから、手を差し伸べてあげたってこと?」

「違います。そんなんじゃなくて……」

「じゃあ何よ。弱ってるところに付け込んでヤろうとでも思った?悪いけど、私年下に興味無いの」

「違いますって。落ち着いてください……っ!」


 うろたえる少年の襟首を掴む。苦しそうに咳き込む彼に心がスカっとする。


 腹が立つのだ。こういった善意の塊のような人間は。

 日々生きているだけで幸せだと思えるのだろうが、生憎こっちはそんなこと思えた事がない。手を差し伸べてやろうなんて自覚もない目の前の少年が憎らしくて仕方なかった。

 けほけほと息を詰まらせる彼を放って置いて、栞は捲くし立てた。

 

「君も結局他の男と一緒ね。家族からも見捨てられて、まともな友達もいないなんて可哀想な奴だとでも思った?……ふざけんなッ!お前に私の何が分かるって言うのよッ!」


 力任せに揺さぶって、少年を床に捩じ伏せる。後頭部がごつんと床に当たり、痛みに顔を顰めた。

 押し倒したような体勢のまま、彼の頭を何度も叩きつける。鈍い音が何度も響き、その度に悠一の口から悲鳴が漏れる。

 自分の息が荒くなるまで続けた後、ようやく手を止めた。

 

「いつもヘラヘラしてるアンタに何が分かるのよ」

「っ、分かる、とは言いません、っけど……」


 痛みの中、悠一はなんとか言葉を紡いだ。彼女の境遇は知らないが、喚き散らした言葉の中から察して、伝えるべきことは頭にあった。


「僕には、両親がいません。二人とも死んじゃってから、一人ぼっちになりました」


 だから何、とは言えなかった。黙って続きに耳を傾けた。

 

「ずっと真っ暗な部屋にいて、世界中で一人きりになった気持ちでした。何も考えたくなくて、でもずっと悲しくて……も叔母さんに引き取られてから、一人じゃなくなりました」

「それで?それが私となんか関係ある?」

「ありますよ。少なくとも、一人で寂しいって気持ちは分かります。すごく辛いのも知ってます。だから放っておけなかったんです」


 それだけです、と悠一は締め括った。これ以上何も言うつもりがないのか、口を閉ざしてしまった。

 痛みに耐えながらも伝えられた言葉が、栞の心に染み入る。自分には似つかわしくないような感情が渦巻いた。


 少年はどこかで見たことのあるような目をしていた。

 無言で頭を回して、それが鏡で見た自分のそれとそっくりだと気付く。そこで栞は、この感情が同属嫌悪なのだと理解だした。

 

「・・・なんでよ。アンタ、頭おかしいんじゃないの」

「そうかもしれませんね」

「ホント馬鹿みたい……」

「勉強はそんなに苦手じゃないんですけど」

「……っふふ、何よそれ」


 栞は堪えきれず吹き出してしまった。捻くれて当り散らしていた自分が馬鹿らしくなって、卑屈さが最後の冗談で吹き飛んで行った。

 押し倒されたままの悠一も釣られて笑みを零した。傍から見れば異様な光景ではあったが、他に人がいる訳でもないのだから気にする必要はない。

 襟首を引き起こした。少年の体は軽く、自分の腕力で楽に持ち上げられたことに嫉妬を覚えた。


「なんかごめんね。頭、痛くない?」

「大丈夫です。ちょっとズキズキしますけど……」


 気まずい雰囲気が流れる。取り乱して激昂した栞と、本心とはいえ恥ずかしいことを口走ってしまった悠一は、互いに何を言えばいいのか分からなくなってしまった。

 しんとした空気。互いに目を逸らしたり、何か言おうとして結局口を噤んだりを繰り返す。

 最終的には耐え切れなくなった栞が真っ赤な顔で「おかわり頂戴」と告げ、不思議な空気は無理矢理消えていった。

 

 今思い出せば恥ずかしい限りだが、栞にとっては忘れられない出来事である。

 

 



 それからの栞は日々変化していった。

 笑顔は柔らかくなり、人と接する際の態度も見直された。男性に対して利用するような真似はせず、女友達との関係も今では良好である。


 特に変わったのは、悠一への態度だった。

 ペットの猫程度にしか思っていなかったが、彼女の想いは一日毎に募っていった。気がつけば彼のことを考え、彼に好かれようと努力を怠らなかった。

 

 彼の好きな映画のヒロインが敬語を使っていたから、自分も敬語で話すようにした。

 彼が紅茶が好きだというから、必死になって勉強した。

 テスト前で気分が落ちているときは、優しく勉強を教えてあげたりもした。

 

 些細な変化も見逃さず、常に悠一が頼れる存在であろうとした。あの日自分が救われたように、いつの日か彼を救ってあげられるような存在でいたかった。

 

 しかしまともな恋をしたことがない栞は、やり方がわからなかった。

 彼は誰にでも優しく、自分はただのその中の一人なのではないかと怯えて眠る夜もあった。特に彼の今の家族であるあの姉妹との差が、果てし無く広いものに思えてならなかった。

 

 だからこそ、あの悪魔の話がとても魅力的に思えたのだ。

 二人で悪魔となって永遠に生きられるのであれば、姉妹なんて目ではなくなる。彼は自分と寄り添って生きていかざるを得なくなるのだから、一も二もなく飛びついた。


 そんな最高の世界が、もうすぐ手に入る。

 彼は喜んでくれるだろうか。もしそうでなくても、自分が永遠に慰めてあげよう。


「時間はいっぱいありますからね……」


 癖になってしまった敬語を口にして、栞は夢から覚めていった。

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