二人目 悠一Ⅱ / 栞Ⅲ

 栞が怒る姿を見るのは初めてだったが、悠一は不思議と怖いと感じることはなかった。


 姉妹や千里が怒り狂っているときは身を震わせることは幾度もあった。それが自分のためであれ、なにか狂気じみたものを感じてしまうのだから、その矛先が自分でなくとも怖いと思ってしまう。

 悪魔と出会ってからこれまで心安らげる時間がなかった彼にとっては、繋がれた栞の手がとても暖かいものに感じられてならなかった。

 

(栞さん……)


 自室にて、悠一は右手を握っては開いてを繰り返していた。

 女生徒たちから助けてくれたときの、栞が握ってくれていた手の温もりはとっくに消えていた。それでも何か不思議な感じがしていて、気付けば自室に篭りっぱなしになっていた。

 女生徒たちを一喝した栞は、そのまま悠一を自宅まで送ってくれた。その間も手をつないだままで、気恥ずかしさはあったものの甘えてしまった。

 自宅近くで別れたのだが、そこにも彼女の気遣いを感じられて嬉しくなった。二人でいるところを姉妹に見られたら不味いな、と思っていた矢先、栞は自宅手前で手を離したのだ。まるで自分の気持ちを全て分かってくれているようで、悠一は笑顔で栞に別れを告げた。

 

(なんだろう、不思議な人だなぁ……)


 気付けば自分の隣にいて、あれこれ世話を焼いてくれる。それに嫌悪感は全く無く、苦手だったはずの子ども扱いすら心地よく感じてしまう。

 今や栞に対する感情は、単にバイトの先輩の域を超えようとしていた。

 栞の笑顔を思い出して、一人で赤面する。リリィに見られてるのかもしれないと気付いて余計に顔が熱くなった。


 ―――こん、こん。

 

 熱を冷まそうと窓を開けたとき、部屋のドアが控えめにノックされた。

 続いて真夜のくぐもった声が聞こえる。

 

「悠くん、お風呂空いたけど……」


 何か言いたげな、控えめな声。

 言いづらいことなのか、真夜に普段の歯切れの良さはない。ドアから覗かせた視線がどこか不安そうな印象を受けた。

 

「ありがとう、すぐに行くから」

「あ、うん。ねえ悠くん、えっと……」


 もじもじとはっきりしない真夜。煮え切らない態度に苛立つことはないが、普段とは正反対のそれが不安を煽る。

 どうしたの、と声をかけて答えを待つ。少しの間があって、真夜は恐る恐る問い掛けた。

 

「あのね……最近悠くんの前で、お姉ちゃんも灯ちゃんも怒ってばっかりじゃない?」

「あー……うん、そうだね。最近はあんまり笑ってるところとかは見てないかなぁ」

「でしょう?だからお姉ちゃんたち怖がられてないかなって思って」


 それはないよ、と即答できなかった。

 一瞬間が空いて、そんなことないよ、と応える。その空白が真夜の心に突き刺さる。

 目を見開いて、真夜は悠一に食って掛かった。

 

「……やっぱり。ほら、やっぱり!お姉ちゃんのこと怖いって思ってるんだ!」

「思ってないってば!ただ最近姉さんたちが怒ってばかりだねって言っただけでしょう!」

「嘘だもん。悠くん、お姉ちゃんが怒ってるそばでビクビクしてるもん。そりゃ悠くんが女性恐怖症だったことは知ってるけど、お姉ちゃんたちは別でしょう!?」

「それとは別問題で怖いときがあるんだよぅ……」


 まさに今がそうです、と言ってやりたかった。

 先程までのしおらしい態度はどこへやら、血走った目で追求してきているのだ。掴まれた両肩に爪が食い込んでるし、悠一よりも高い身長で迫られる気分はあまり良くなかった。

 主導権を握ったと思ったのか、真夜は攻める手を緩めない。


「別問題ってなに!?」

「怒るにしても、もっと色々あるでしょう!?」

「色々?」


 真夜は直近の出来事を思い起こす。

 悠一の尻を撫で回した女生徒のこと、抱き着いて匂いを嗅いでいたOLのこと、教員用トイレに連れ込もうとした保険医のこと。思い出すべきことは多々あったが、どれもこれも悠一が怖がるようなことはなかったはずだ。

 あくまで、自分が思う限りではであるが。

 

 真夜は思い当たる節がなく、大げさに首を傾げて見せた。

 

「いっぱいあるでしょう……!」

「ないと思うんだけどなぁ。そりゃお姉ちゃんも本気で怒ったりはしたけど、顔に怪我させたりとかしてないし」

「顔じゃなきゃ怪我させてもいいって思ってるでしょ……」


 悠一が覚えているだけでも、平気で腹部に蹴りを入れたり、足四の字固めで生徒を泣かせたりと色々あるのだ。一番恐ろしかったのは、保険医の服をハサミで細切れにした挙句、廊下に放り出したことだった。その後にしれっと「変わった趣味なんですね」と笑うのだから、つくづく女性は恐ろしいと再認識させられたのだった。

 

「助けてくれることには感謝してるけど、やり過ぎはダメだよ。暴力とか直接的なことはしないって約束して」

「えー、それじゃお姉ちゃんストレス溜まっちゃう」

「ストレス解消は違うことでやってよ!とにかく、今後はだめだからね。もし破ったら、真夜姉さんとは話さないから」


 ええー、と抗議する真夜。涙目ではあったが(嘘泣き)、悠一は心を鬼にして約束を取り付けた。

 最後まで不満そうにしていたが、最終的にはしぶしぶながらも承諾してくれた。確かに彼女には感謝してはいるが、栞の対応を見るとやはりやり過ぎ感は否めない。

 大切な家族に、悪魔のような振る舞いはして欲しくない。狂気に笑う彼女たちは見たくないのだ。

 

 リビングのソファで寝転んでいた灯にも、やり過ぎないよう注意を促した。かなりの反発は受けたものの、「もう口をきかないよ?」の一言にしぶしぶ頷いた。

 不満たっぷりの嫌味を浴びせられたが、約束してくれたことに悠一は満足した。何より姉妹を御しきれる魔法の言葉を得たのが最大の収穫だった。

 

 久しぶりに男らしい(?)部分を見せ付けることができて、悠一はにこにこしながら浴室へ向かっていった。

 


 




 リリィは人の夢の中を自在に行き来することができる。

 その人の夢を思う通りに作り変えることもできるし、それによって人格や思想に多大な影響を与えることも出来る。要は、その人間を自由に作り変えることが可能という事だ。

 だからと言って、わざわざ人間の夢で好き放題するのは彼女の美学に反することだった。永い時間を生きている彼女にとって美しいということはある種の絶対的なこだわりで、損なうことは死ぬより辛いことなのだ。

 

 この夜も、リリィは目当ての人間の夢に潜り込んでいた。

 目的は至極単純で、暇な夜の話し相手になってもらおう、ということであった。

 降り立った世界は陽炎のように揺らめいている。不安定なその世界を正確に形作り、見る間に現実と変わらない空間が出来上がった。

 リリィは珍しく歩いて彼女を探した。目の前に広がる無人の街を徘徊する。

 やがて大きな広場にぽつりと佇むカフェを見つけ、リリィは迷わずその店に足を踏み入れた。

 

 店内は広く、微かにクラシックの音楽が流れている。違和感があると言えば、だだっ広い店内にテーブルが一つと椅子が二つ。アンティーク調の見事なインテリアだった。

 既に席の片方には女性が座っていた。ふわりとした髪をサイドに流し、優雅に紅茶を飲んでいる。手に持っているティーカップも値が張りそうな代物だった。

 

 リリィはくすりと笑った。

 夢の中でインテリアやカップの一つにこだわりを見せる彼女に、滑稽さを感じる。

 

(夢の中でまで見栄を張るなんて、面白い子ね)


 私が来ることを知ってたのかしら、とリリィは思った。何せここに来るのは三度目だ。見栄を張る相手が自分なのであれば、それはそれでまた滑稽な話だった。

 

 テーブルに座っていた女性が顔を上げる。リリィを見つけて笑顔を作った。

 律儀に笑みを返すつもりもなく、リリィは無表情に努めた。人間如きに愛想よく接するなど、プライドが許さない。彼女の偉そうな態度も気に食わなかった。

 黙って席を引き、ドレスを翻して座る。目の前に置かれたカップは空のままで、彼女は自分で淹れろとばかりにティーポッドに目をやった。


「ゲストをもてなす事もできないのね」


 はっきりと毒づいてやる。

 わざわざ文句を言うなんて子供じみた真似だとは思うが、口に出さずにはいられなない。

 女性はその言葉を受けても笑みを崩さなかった。くすりと馬鹿にしたように鼻で笑うと、無言でカップに紅茶を注いだ。


 立ち上る香りが鼻を擽る。

 いい香りだとも思うし、悠一の影響から紅茶が好きになったリリィは飲んでみたいとも思った。が、この女が淹れたのなら飲む気はない。ただ嫌がらせの如くカップを無視して話を進めた。

 

「調子はどうかしら」


 何の、とは訊かない。

 女性はええ、と短く答えて、カップをソーサーの上に置いた。

 

「悪くないですよ。あなたのおかげで、大幅に予定が前倒しになりましたから」

「それは良かったわ。私には小細工ばかりしているように見えたのだけど、勘違いだったのね」

「ふふ、そう見えましたか?」


 ちくりと返した嫌味も笑顔で返される。言外に「そんな事も分からないのか」と言われ、リリィは気分を損ねた。

 生意気な人間だ。自分が神にでもなったつもりなのか、悪魔である自分まで利用しようとするのだ。態度は変わらず上から物を言うし、つくづく癇に障る女だと思う。

 いずれ思い知らせてやると、リリィは心に決めていた。だが今はまだその時ではなく、悠一の為に生きていて貰わなければならない。選ばれた二人目の女性なのだから、悠一とのゲームを優先すべきだった。

 

「でも、本当に貴女には感謝しているんですよ。貴女がここに来なかったら、私は今でも悠一さんを遠くから眺めているだけでしょうから」

 

 表情に出ていたのか、栞はフォローするように言葉を続けた。

 感謝しているのは本心からだし、背中を押してくれたことはとてもありがたく思っている。それは嘘ではないのだと分かって欲しかった。

 

「ま、いいわ。私は私の目的を果たせれば十分なの。分かっているとは思うけど、もし失敗したら……分かってるわよね?」

「はい。私が死んだら、魂を貴女に捧げるんですよね?」


 そういう約束でしたよね、と栞は平然と言ってのけた。

 どうせ夢だから、と思っているのかは分からないが、その言葉に邪な気持ちは感じられなかった。少なくとも今ここでは、本心からの言葉のように受け取れた。

 あるいは魂を捧げると言う事がどういう事なのか、分かっていないのかもれない。

 死後永遠に奴隷となるに等しいのだから、狂気の沙汰だとは思う。一切動じずに受け入れた栞は紛れも無く狂っているのだろうと、リリィは思った。

 

「分かっているのならいいわ」

「貴女も、約束は守ってくださいね。私が悠一さんと結ばれたら、私たち二人とも悪魔にしてくれるって話、忘れてませんよね」

「もちろん。悪魔は約束は守るし、嘘を吐かないのよ」


 契約した人にだけだけどね、と心の中で呟いた。

 お前みたいな愚かな人間と契約など交わすものか。リリィは一貫して、嘘は吐かないと言っただけだ。実際嘘は吐いてないのだから、悪魔としても女としても問題はなかった。

 

(お前が勝ったら、悠一は私の物になるのだけれど。馬鹿な女ね。精々私たちのために踊ればいいわ)


 くすくすと笑う。彼女の本心に気付いているのか否か、栞も余裕を見せて笑った。

 

 リリィはご馳走様、と一言言って席を立った。そのままふわりと舞って夢の中から出て行く。

 一口も飲んでいないのにご馳走様、というのも変な話だ。どうせ嫌味のつもりだろうが、随分と幼稚な悪魔だと思う。

 栞はカップを手に取った。温まった紅茶が揺れ、自分の顔を映し出す。口角の上がった悪魔のような笑みをしていた。

 

 リリィが言うには、悪魔はほとんど永遠に生きることが出来ると言う。何をするにも自由で、何者にも縛られないとも。

 自分と悠一が悪魔になれれば、それは最高に素敵なことだ。永遠に二人で一緒にいられるのだから、どんな犠牲を払っても手に入れる価値がある。

 あの悪魔のいう事を全て信じるわけではないが、聞けば彼女も元は人間だったという。その話を聞いた時は狂喜したものだった。

 

 手に取ったカップを傾け、地面に紅茶をゆっくりと零していく。少し跳ねて広がっていくそれが、まるで血のように赤く。染まっていた。

 

 その赤を踏み締めると、店内がぐにゃりと歪んだ。輪郭を失った空間が徐々に形を失っていく。

 夢が消え行くその瞬間まで、栞は高らかに笑った。

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