一人目 灯Ⅲ / 千里Ⅵ

 やっと捕まえたと、灯は胸元で泣く少年を見て思った。

 くしゃくしゃになった髪を撫で、背に回した腕に力を込める。


(二度と離すもんか……!)


 失って初めて気付くとはよく言うが、こんなことで体験することになるとは思ってもみなかった。

 泣き喚く少年を宥めながら、灯は室内を見渡した。外観からは分からなかったが、内装は豪華な造りで、少なくとも君島がどうにかできるようなものではなさそうだ。

 ますます深まっていく確信。悠一を攫ったのは君島だけではないのは明らかだった。

 しばらく泣き喚いている悠一の背を摩ることにした。慰めてあげたい気持ちの反面、泣き顔が可愛いと思ってしまったのは不謹慎だと反省する。

 一ヶ月ぶりのスキンシップなのだ、少しくらいは大目に見てもらおう。


「う……っ、ぐすっ、うぅう……」

「悠一、もう大丈夫だから、一緒に帰ろう?」


 やがて落ち着きを見せはじめた悠一に、灯は声をかける。

 とにかく目的は達成したのだ。こんなところにもう用はない。

 まずは一度家に帰ってから医者に見せよう。写真で見た時よりも悠一の怪我はひどいようだった。


「一回お家に帰ってから、そのあと病院に行こう、ね?」


 悠一は頷かない。鼻を啜っては、掴んだ灯の服を離さなかった。 

 しばらく無言の時間が続いてから、悠一は小さな声で答える。

 聞き取りづらい声量に、灯は何度か聞き返さなければならなかった。


「……っ、だめなんだ。まだ、行けないよ……」

「え?」

「今僕がここからいなくなったら、千里ちゃんが……」

「千里?あの女が何?」


 少年に触れていることで落ち着きを取り戻していた精神がざわつく。なぜ彼が君島を気にかけるのか、わからなかった。

 灯の声に応えるよりも、悠一は独白のように言葉を搾り出す。


「だめなんだ。僕がやらないと、だめになっちゃう……」

「だめになるって何のことよ。あの女がどうなろうが、関係ないでしょう?」


 胸に顔を埋める悠一の肩を掴み、突き放す。涙でぐしゃぐしゃになった顔に、虚ろな目が灯を捉えた。いや捉えたというよりは、ただ灯に向けられているといった形だ。

 悠一の言葉の意味が理解しきれない灯は、段々と苛立ちを募らせ始めた。

 痣や切り傷、腫れだらけの体になってなお、何が悠一を縛り付けるのか。それは自分とあの家に帰ることよりも優先されるのかと、灯は胸をざわつかせた。


「何なのよ……こんな目に遭ってるのに、悠一はここにいたいっていうの?私より、あの女のほうがいいってわけ?」

「ちがうよ。けど、何とかしないと……このままじゃ千里ちゃんが」

「あんな狂った女がどうだって言うのよ!」


 灯の精神状態もギリギリだった。

 何せ一ヶ月も悠一に触れるどころか言葉を交わすこともできなかったのだ。彼を一番愛しているのは自分だと自負している彼女にとって、この一ヶ月は耐え難い苦痛の日々だった。

 やっと見つけたと思えば、今度は悠一自身が帰りたくないと言う。理由もあやふやで理解し切れないくせに、ボロボロの体で子供のように泣き出す。いい加減頭がおかしくなりそうだ。

 これ以上はもう耐えられる自信もない。ひとまず悠一を力ずくでも連れ帰り、こうなった原因は後でゆっくり排除すればいいだろう。

 

「悠一、とにかく家に帰るわよ。嫌だって言うなら無理矢理にでも連れて帰る。悪いけど優しくしてあげるつもりはないからね」


 嗚咽が混じり、悠一が言葉を詰まらせる。弱々しく頭を振るが、灯はそれを許さない。

 我慢の限界だ。

 慰めるのもお仕置きするのも、問い詰めるのも後でいい。さっさと連れ帰ってしまえ。

 悠一の抵抗を両断し、実力行使に出ることにした。

 

「もういい、分かった。痛いかもしれないけど我慢しなさいよ」


 低く冷たい声音で、灯は抱き締めたままの悠一の襟首を掴んだ。最初からこうしていればよかったのだ。


「ま、まって!まだ……」

「うるさい。喋るな」


 話は家でゆっくり聞く。風呂に入れてこの癇に障る臭いを落として、その後傷を癒せばいい。

 後始末はゆっくり時間をかけてやろう。彼に触れたことを後悔させてやる。事切れる間際まで謝らせ続けて、腹を潰してから首をへし折ってやる。

 

(あー、もう。頭おかしくなりそう……)


 沸々と湧き上がる怨嗟が収まらず、今すぐにでも発散させたい気分だった。

 普段は心地よさすら感じる愛しい少年の我侭も(本人は精一杯の抵抗のつもりだが)、今日ばかりは怒りを煽るものでしかない。

 掴んだ腕に力を込め、力任せに悠一を引っ張る。儚い抵抗空しく、ずるずると引き摺られていく少年をタクシーへと押し込め、灯は運転手へ行き先を告げた。

 一瞬怪訝な顔をした運転手も、鬼気迫る少女の声に黙って頷くのみだった。

 

 かくして一ヶ月に及んだ悠一の監禁生活は、呆気なく終わりを告げた。

 

 





 楓が接触するより早く、灯は悠一を連れ帰ったことを真夜へと伝えた。女優並みの演技力で体調不良を訴え、真夜は早々に学校を後にした。


(紙一重ってこういうことを言うのかしら)


 職員室へ尋ねたとき、真夜は来客の為不在だった。

 千里にとっては運が良かったのだろうが、楓にとっては不運だった。たった一時間、真夜を待っただけで、なんの修羅場もなく事が終わってしまったのだ。

 悠一は灯によって連れ出され、それに気付かないまま千里は授業を受けている。真夜が早退したところを見ると、きっと灯が伝えたのだろう。

 余計なことをしなければ、ここで女教師と女生徒の殺し合いが見れたかもしれないのに。残念だ。 


(灯の嘘に騙されるなんて、私もまだまだね)


 嘘泣きが出来るような器用な人間じゃなかったと思ったが、見事に出し抜かれてしまった。

 不快感よりは驚きや清々しさが勝っているが、このまま引き下がっては負けを認めたことになってしまう。

 ふと、自分の思考に疑問を持った。


(……負け?ふふ、勝負なんかしてたのかしら、私ったら)


 そもそも勝ち負けなどという話では無かったはずだ。

 掌の上で人を転がし、神様にでもなったかのように未来を作っていく。

 いずれ結ばれる運命の少年を磨き上げて、自分に相応しい男に育てるつもりだったはずだ。

 それを見失ってしまうとは、我ながら情けないことだ。

 楓は授業中の静寂の中、人目を憚らずくすくすと笑った。突然の笑い声に教室がざわめく。が、教師を含め誰一人として咎める者はいなかった。


(ふふ。私がイライラするなんて、珍しいこともあるのね)


 自分の感情が分からないことはよくある事だった。神の代行者の名を冠する一族として、幼少から己を殺すような教育を受けてきたのだ。

 灯や悠一たちと出会って多少は変わったという自覚はあったが、まさか何かに腹を立てる日がこようとは。それはそれで良いことかしら、と笑う。

 

(あぁ、本当に今日は素晴らしい日ね。こんなに楽しいことがあるなんて、知らなかったわ)


 多少の肩透かしはあったが、これから起こる事を考えれば、より楽しくなるのは明白だ。それを思うだけでまた笑みが深くなる。

 楓は堂々と席を立つと、窓際で電話をかけ始めた。もちろん教師は何も言わず、誰もが見て見ぬ振りを貫いている。

 無機質な音声が不在を伝え、伝言を残すよう促す。彼女が授業中に電話に出ないのは知っていたから、別に驚くことでもなかった。

 二言三言簡潔に言葉を残して、楓は電話を切った。そのまま席へと戻っていく。

 

 千里が早退したと耳にしたのは、授業が終わってからだった。

 

 


 

 

 

 気分は悲劇のヒロインか、姫を魔王に奪われた勇者か、どちらにせよ大切なものを奪われた主人公のようなものだった。

 つい数時間前までは幸せが詰まった愛の巣が、今は氷の牢獄のような感じがする。いつもより冷たく感じる空間が、喪失感を強くさせた。

 桃山 灯が悠一を連れ去ったという伝言を聞いたときは、嘘であってほしいと切に願った。少年との生活が続くのなら他になにもいらないし、返してくれるのなら土下座をして靴を舐めたっていい。

 

(そんなわけねーよな……)


 そんな事であの日々が戻ってくるはずがないのは分かりきったことだ。自分があの女の立場だったらと考えれば、笑い話にもならない。土下座した頭を思い切り蹴り飛ばして踏み潰すくらいは軽くするだろう。

 とはいえ、先に手を出したのは自分自身だ。

 やり返されたところで文句を言える立場ではないし、それを言おうとも思わない。

 だが、こういうことは理屈じゃないのだ。正論も倫理もクソ食らえだ。なんの役にも立たない。

 

(ならもうやるしかねーよな)


 後ろ盾はもう期待できない。きっとあっさりと切り捨てられるだろう。頭のおかしな女が起こした凶行として、誰もが自分に非難を浴びせる。


 しかし、それが何だと言うのだ。

 もう彼なしでは生きていけるはずもない。あの温もりを知ってしまったら、彼のいない生活はありえない。死んだほうがマシだ。


 どうなろうと知ったことか。

 世界中の誰もから後ろ指を差されようが、自分以外が全て敵になろうが関係ない。

 ただ一人、悠一さえいてくれればいい。軽蔑されようがどうだろうが、ただ傍にいてくれればいい。もう笑ってくれなくても良いのだ。

 

 もう一度、あの温もりを。


 千里は覚悟を決めた。

 あの日夢で悪魔も言葉を思い出す。掠れていて全てを覚えてはいなかったが、たった一つの会話だけは今でも鮮明に記憶に残っていた。


 雲が陰り、辺りが一層暗くなっていく。

 どれ程の時間葛藤していたのか、時刻はすっかり夜八時を回っていた。

 千里は身支度を整え、部屋を出た。もうここには帰ってくることはないだろう。人生で最も幸せな一ヶ月を過ごしたこの部屋だ。感慨深いものがある。

 

 悠一の待つ場所へ。

 たった一人、世界で一番大好きなあの少年の許へ。


 少女は月明かりもない真っ暗な夜道を歩いていった。

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