一人目 悠一Ⅱ

 その日悠一はその足で病院へと向かうこととなった。


 張り詰めていた緊張の糸が解けた瞬間、体が痛みを訴え出したのだ。到底我慢できるようなものでなく、彼はタクシーの中で痛みにのた打ち回った。流石に心配した灯はお説教を後回しにせざるを得なかった。

 病院に着くなり、医者が待ち構えていたかのように悠一を急患として扱い、早々に治療を受けることができた。

 恐らく楓が手回しをしていたのだろうが、灯にとっては面白くない。痛みを訴える少年には悪いが、違う病院へ行こうとしたくらいだ。

 町にある病院の数はさほど多くはなく、また規模も小さいものが多い。悠一が訪れた病院は地域では最大規模で、大きな怪我や病気は大体がこの病院で治療を受ける人ばかりだった。

 大きければいいと言うものでもないだろうが、やはりどうしてもこの病院を選んでしまった。そういったところも楓に見透かされていたのかと思うと、また胸がざわついてくる。


 今日ばかりは仕方ないと、灯は自分に言い聞かせた。気分はともかく悠一の体のほうが優先だ。

 治療を終えたあと、医者から数日入院するよう勧められた。思っている以上に怪我は酷いようで、心身ともに酷く衰弱していると診断された。

 医者は診断結果以外のことには全く触れず、ただ淡々と診察を終えた。あれこれ訊かれても面倒なので助かったが、やはり釈然としない。ともあれ悠一を助けることが出来たのだから結果オーライであった。

 

 だが、終わり良ければ全て良しという訳にはいかない。そんな言葉で片付けられるほど優しくはないのだと、灯は自分の性格を理解していた。


(誰の物に手を出したか思い知らせてやる)


 心中穏やかなハズがなかった。

 悠一を取り戻した安心感を塗り潰したのは、自分でも驚くほどの憎悪だ。

 話してどうにかなる相手ではないのは分かっているし、悠一に近づくなと言っても聞かないだろう。また彼を襲おうとするのは明白だ。なら、力ずくで近づけないようにしてしまえというのが彼女の辿り着いた答えだ。

 

 そんな物騒な事を考えていた灯に声をかけたのは、家で待っていた真夜だった。

 急遽病院へ向かうことになったため、慌てて向かってきたようだ。


「灯!悠くんはどこ!?」


 汗だくの上に服も乱れていた。纏めていた髪も解けかかっていて、靴も揃っていない。ここまで典型的な慌てぶりだと、態とやっているのかと疑ってしまう。

 灯を見つけるや否や、病院の廊下に響き渡る程の大声で詰め寄った。

 

「何日か入院だって。骨折とかしてて、退院は様子見てからって言ってた。とりあえず無事だから、顔見てくれば?」

「そうなの……うん、良かった本当に……」


 安心して涙が零れる。仕事こそ休みはしなかったが、ここ一ヶ月はまともに食事も睡眠もとれなかったのだ。やっと少年が戻って来たことで緊張感が解け、体中から疲労感が溢れ出た。

 病室の廊下でへたり込む。壁に背を預けて、大きく息を吐いた。


「良かった。本当に良かった……」


 繰り返し呟いては、涙を拭って笑顔を作る。あまり姉に好意を持っていない灯でも、その姿に胸が締め付けられた。


「とりあえず顔見てきなって。寝てるかもしれないけど、少しは安心するでしょ」


 いたたまれなくなって、灯は真夜を促した。半分は喧嘩相手のような姉のこんな姿をあまり見たくないという気持ちと、もう半分は純粋に安心していつもの真夜に戻って欲しいという気持ちだった。

 

「そうね、そうしようかな。灯ちゃんは、もう悠くんとは色々話したの?」

「うん、まぁ……あれを話したって言っていいのかは分からないけど」

「……どういうこと?」

「私が悠一を助けたときさ、あの子結構混乱してて……まだ行けないとか、訳分からないこと言ってたから無理矢理連れてきちゃった」


 それっきり話してないのよね、と灯はつまらなさそうに言った。

 その言葉にしばらく考え込んだ真夜も、結局は興味を失くしたように納得した。当時がどうあれ、今悠一がここにいることのほうが重要だった。

 

「いいわ、私からも悠くんに話してみる。灯ちゃんは今日はもう帰る?」


 言外に「邪魔だからさっさと消えろ」ということだ。気丈に振舞っているように見せかけて、こういうところは抜け目がなかった。


「ん、私ももう少しここにいるわ。お姉ちゃん車で来てるんでしょ?」

「そうだけど……もう、仕方ないわね」


 拗ねたような言葉とは裏腹な、今にも舌打ちをしそうな表情だった。今まで情緒不安定だったためか感情を隠しきれなくなっていた。

 ここで争ったところでなんのメリットもないのだ。ならばすぐにでも少年との再会を楽しみたい。

 真夜は出し抜くことを諦め(随分雑な出し抜き方だったが)、灯と共に病室へと入った。

 




 


 薄暗い病室の中で、悠一はずっと外を見ていた。

 窓から映る月が煌々と室内を照らしている。今日は風が強いせいか、星がちらつく夜空には雲がほとんどない。

 静かで落ち着いた空気の中で、ドアの開く音に悠一は過剰な反応を示した。

 びくりと怯えるように振り向き、一瞬恐怖の滲んだ視線を姉妹に送る。相手が真夜だと分かり、胸を撫で下ろした。

 小刻みに震えた手を布団の中に突っ込む。すぐに笑顔を作って姉妹を迎え入れた。

 

「悠くん!」


 少年を見るや、真夜が上着を放り投げて駆け寄った。抑えつけていた感情が膨れ上がり、そのまま悠一の頬を両手で包む。包帯や所々に残る傷跡が真夜の心を締め付けた。

 

「悠くん……ごめんね、お姉ちゃん助けてあげられなくて、本当にごめんね……」


 頬を引き寄せ、少年の額に自分のそれを重ねる。

 堪えていた涙が頬を伝い、染みを作った。

 

「姉さん……大丈夫だから、心配しないで。ね?」

「うぅん、でも、こんなに怪我して……」

「僕だって男なんだよ。これくらい大丈夫だから」


 真夜が泣くところをあまり見たことが無い悠一は、大いに困惑した。

 いつでも明るく、何があっても泣いたりすることがなかった彼女だったが、今回ばかりは堪えていた。

 子供のように泣く真夜の後ろで、灯がうんざりしたように肩をすくめてみせた。真夜ほど感傷的にはなれない性格だからか、悠一の姿を見ても怒りが込み上げてくるのみだったのだ。悲しみよりは、彼をそうした相手を憎む気持ちのほうが強い。


 目と鼻の先で泣き崩れる真夜を宥め、悠一は真夜の頭を撫でた。

 他人が涙する姿はあまり気持ちの良い光景ではない。ましてそれが大切な家族であればなおさらだ。自身を軽視する傾向にある悠一にとっては、自分のことで悲しんで欲しくはなかった。

 その大丈夫、の一言が真夜の涙を誘っていると気付けないのが、彼の欠点ではあったが。


「お姉ちゃん、泣くのもいいんだけどさ。悠一に訊かなきゃいけないことあるでしょ」


 その言葉に悠一はぎくりとした。

 恐らく彼女が訊こうとしていることは彼が最も触れられたくない部分だ。ある程度気付いてはいるのだろうが、自分の口から言いたくはない。

 誤魔化すのは得意ではなかったが、そんなことも言っていられない。千里の名前を自分の口から出すわけにはいかない。

 ありったけの勇気を振り絞って、悠一は姉妹に告げた。

 

「ごめん、色々あると思うんだけど今日は……」


 出来ることは少なくとも、まずは先延ばしの一手を打つ。一日だけ、少なくとも数時間だけでも時間を稼げれば、最悪の状況は回避できるはずなのだ。

 疲れた演技をする必要はなかった。今すぐにでも横になって目を閉じたいくらいには疲れていたし、体中に感じる痛みをそのまま顔に出せばいいだけだった。

 疲弊しきった少年の姿と声に、さすがの桃山姉妹も遠慮の色を見せる。普段はそんなことをする素振りすら見せないのだが、この日ばかりは悠一の意思を尊重した。

 

「ごめんね、心配ばかりかけて。でも、もう大丈夫だから」

「……まぁいいわ。しばらくはゆっくり休んで、話は明日にしましょ」

「えー……お姉ちゃん、今日ここに泊まってこうかなぁ」


 ダメに決まってんでしょ、と灯が釘を刺す。

 ベッドに腰掛けて悠一に寄りかかったままの真夜を引き剥がし、灯はその場を後にしようとする。服を掴んで離さない彼女に、悠一もまた小さく謝った。

 

「悠くん、明日お仕事終わったらすぐに来るから!勝手に退院とかしちゃダメだからね!」


 名残惜しそうに真夜は悠一から離れる。ベッドから降りて、乱れた衣服を整えた。つい今し方まで子供のように甘えてたのが嘘のように、瞬く間に仕事の出来そうなキャリアウーマンの(ような)女性が出来上がった。

 

「うん、お迎えよろしくね」


 精一杯の笑顔を姉妹へ向けた。それが痛々しく感じて、灯は目を無意識に伏せた。

 多少の気まずさを残しつつも、二人は手を振って部屋を出る。丁度消灯を告げようとした看護師と鉢合わせ、二人はそのまま院外へと連れ出された。

 時刻は午後九時。日が伸びたとは言え、月明かりの届かない場所は暗闇が包んでいる。

 がらんとした個室にはまた静寂が流れ、悠一は深呼吸をした。これで環境は整った。


「リリィ、いる?」


 意を決して、影の差す空間へ呼びかける。

 人外の彼女を呼ぶ、いつもの言葉。真っ暗で誰もいない空間へ呼びかければ悪魔が現れる。

 ゆらりと影が揺れ、派手な金髪に赤い目を光らせた女性が現れる―――はずだった。

 数分が経ち、何度呼びかけようとも彼女は姿を見せなかった。ただ独り言を繰り返しているようで恥ずかしさすら込み上げる。

 

「あれ、おかしいな……」


 呼びかけにリリィが応えなかったことなど、今まで一度もなかった。

 明確にルールや条件があるわけではないが、曰く彼女と悠一は一心同体で、どんなときでも呼べば応えるらしいのだが、今このときは全くの無反応である。

 

「おーい、いないのー?……なんだよ、いつでも呼べっていったくせに」


 何度目かの無視の後、悠一は呼びかけをやめた。

 とはいえ、何時までもこのままではいられないのだ。なんとか今日中にリリィと話をしなければ、千里が危うくなってしまう。

 仕方なく、時間を置いてまた呼ぼうと決める。思い通りにいかない現状にため息を吐くと同時に、病室のドアがノックされた。

 

 コンコンと控えめなその音は、見回りをしていた看護士のものだった。

 どうぞ、と入室を促すと、まだ若い女性の看護師が顔を覗かせた。

 

「あの、もしかして携帯電話とか使われてます?個室でも消灯時間過ぎているので、通話はちょっと……」


 どうやら誰かと話していると思われたようだ。誰もいない個室で声をかけていれば、誰でもそう思うだろう。

 下手に誤魔化す訳にもいかず(そもそも携帯電話は千里に取り上げられていた)、悠一は謝罪してその場を治めようとした。

 

「もう、だめですよ?」


 苦笑いを浮かべながら謝る悠一を見て、看護師の緊張が解けたようだった。この病院で個室を使う者は多くない上、だいたいが気難しい入院患者ばかりで、「他人と同じ病室にいられるか」と言える者が使うことが多いのだ。それがまさか可愛らしい少年だとは想像していなかったようだ。


「すみませんでした……」

「ふふ、いいんですよ。次から気をつけてくださいね」


 年上のお姉さんぶるような態度ではあったが、彼女は笑顔で悠一を嗜めた。

 不気味な、あるいは神秘的な雰囲気が漂っていた病室に、一転してにこやかな空気が流れる。


「誰と話してたんですか?あ、もしかして彼女さん?」

「あ、いえ違うんです。彼女とかそんなんじゃなくて……」

「誤魔化さなくってもいいのに」


 くすくすと笑う看護師。注意だけでは終わらず、暇なのか会話を続けたいようだ。

 まだ学生のように若く見える彼女は、他の看護師と比べてもどこか軽い感じがした。言葉遣いこそ丁寧ではあったが、真面目という印象は受けない。

 今の悠一にとっては、その軽さが救いだった。他愛のない話が張り詰めた心を解していくような気がした。


 そんな空気に浸っていたからか、開いたままのドアの隙間から覗く視線に気付くことが出来なかった。開いたままのドアをすり抜け、ベッドの脇で笑う看護師へ一直線に向かっていく。

 音もなく忍び寄ったそれは、談笑する看護師の背後から容赦なく襲い掛かった。

 軽く染められた髪を掴み、彼女を床に引き倒す。悲鳴が鈍い音に掻き消され、言葉も出なくなるまで数秒掛かった。

 悠一は目の前から消えた看護師と、見覚えのあった姿に呆然とした。頭で理解するよりも早く、体が拒絶反応を示す。震え、固まり、汗が吹き出た。


 抵抗がなくなるまで看護師に暴行を加えたその人物はふらりと立ち上がり、何事もなかったかのように悠一へ向き直った。月明かりが照らし、いつかのベッドルームのように、その顔が暗闇から浮き上がる。


「先輩、迎えにきたよ」


 千里は笑って、頬についた血を拭った。

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