一人目 灯Ⅱ
突然舞い込んできた朗報に、灯はなんとも複雑な顔をしてしまった。
確かにいなくなってしまった家族の行方は死に物狂いで捜していたし、ある程度の目星はついていたものの、結局確かな成果が得られないまま一ヶ月が過ぎていたのも事実だ。
喉から手が出るほど欲していた悠一の居場所が、たった一通の手紙と写真によって判明してしまったのだから、喜びやら怒りやら自分自身への不甲斐無さやら、ぐちゃぐちゃに混ぜられた絵の具のような感情が胸に渦巻いた。
とはいえ、今はそんなことはどうでも良いのだ。
まず何よりもしなければならないのは彼を助け出すこと。
その後犯人を潰していくなり、自己嫌悪に浸るなりすればいい。自分の感情など二の次だ。
胸中にある感情は一旦棚に上げ、頭で状況を整理した。
手紙の差出人は楓だった。
口で言えばいいものを、白々しい沈痛な面持ちと共に封筒を差し出してきた。どうせお前の仕業だろうと言ってやりたかったが、証拠が全く掴めなかったのだ。内心唾を吐きかけながら、受け取った写真と手紙を読んだ。
内容は簡潔なもので、悠一が監禁されているだろう住所と、その周囲の地図。おまけに憎たらしい女の写真まで添えてあった。
一枚目はその女が出入りしている写真。なんら変哲もないように思えたが、よくよく考えれば彼女のアパートはこんな山奥にはない。特別な理由でもなければ、こんな不便な場所に移り住む理由などないだろう。
二枚目は建物を移した写真で、これはあまり興味が湧かなかった。強いて言えば、助け出した後で燃やしてやろうと思ったくらいだ。
三枚目の写真が目に入ったとき、灯は分かりやすく動揺してした。手が震え、額に血管が浮き出るのがわかった。人目を避けた空き教室に歯軋りの音が響く。
窓越しに室内を捉えたその写真には、はっきりと愛しい少年の姿が写っていた。
その顔に生気はなく、おまけに所々腫れたり痣になっていたりしていた。手当てしされてはいるが、肩口には切り傷のようなものまである。それ以外にも体の至る所が傷だらけだった。
震える手で、次の写真を見ようとする。が、思うように手が動いてくれなかった。
「四枚目は、見ないほうがいいと思ったのだけど……」
その様子をみて、恐る恐るといったかたちで楓は灯へ声を掛けた。
口元に手を当てた神妙な顔に、笑いを堪えているくせに、と心の中で毒づいた。
気合を入れ、灯は言外の「次の写真をさっさと見ろ」という言葉に従った。
小さく強く呼吸して、一気に写真をめくった。
「―――っ!!」
数秒、頭の中が固まった。すぐさま押し寄せてきた憤怒に、持っていた写真をぐしゃりと握り潰す。もう見たくないとばかりに地面へ叩きつけた。
搾り出した声は、自分でも驚くほど掠れている。
「何なの、コレ……」
「私も見たくはなかったけど……悠ちゃん、あいつに酷いことされてるみたいで」
「酷いこと!?今酷いことって言った!?これが酷いことで済まされるようなことなの!?」
衝動的に楓の襟元を掴み上げた。
行き場のない怒りが膨れ上がって、ぶつけられる場所が楓しかいなかった。内心目の前の少女のせいだ、という疑心暗鬼が振り払えておらず、このままでは勢いで殺してしまいそうな気分だった。
「そうね、酷いなんてものじゃないわね。こんな状況、放っておいたらどうなるか分からないもの」
楓は静かな声で、怒りに打ち震える灯を宥めた。その様子は至って冷静で、感情の篭っていない声とその表情が本心ではないと表していた。
それすらにも気付けない灯には、怒りを通り越して悲しみが押し寄せていた。何故悠一があんな目に遭わなければいけないのか、何故自分は今悠一の傍にいないのか。
後悔の念が強く圧し掛かる。やはり手段を選んでいる場合ではなかったのだ。まさかこの女が少年と一緒にいたとは、思ってもみなかった。
「なんであの子がこんな目に……」
常日頃から憎悪しているといってもいいくらいの女が、仰向けに横たわる悠一の上で嗤っていた。
一糸纏わない姿で、二人は汗まみれで繋がっていた。灯にとってはおぞましく、何よりも許し難いことだ。
さらに吐き気を誘ったのは、その女の下で殴られている悠一だった。首を掴まれ、鼻や口から血を流し、目元は大きく腫れている。それでも無理矢理笑顔を作ったその表情が、彼女の心を酷く抉った。
「泣くのは構わないけれど、今はそんなことしている場合じゃないでしょう?」
下を向く灯に、楓が叱咤する。
どの口がほざくのかと言ってやりたかったが、これだけでは楓が噛んでいるという証拠にはならない。ここで騒ぎ立てたところで状況を悪くするだけなのだ。
そんな灯の心情を知ってか知らずか、楓はそ知らぬ顔で味方を演じ続けた。
「私も今朝この写真を受け取ったばかりなの。灯がここで俯いたままなら、私だけでも悠ちゃんを助けに行くわ」
ぺろりと唇を湿らせて、見下したまま言葉を続ける。
正直なところ期待外れ、というのが彼女の心境だった。てっきり殺気立ったまま悠一のところへと行くのかと思っていたが、まさか涙を流すとは。獣じみた彼女とはいえ、年相応の少女ということだったのか。
(なぁんかつまらないわね。灯といいあの子といい、結局こんなものなのかしら)
わざとらしくため息を大きく吐いて、うんざりしていることを分からせる。ここで泣きたいのなら一人で泣いていればいいのだ。それに巻き込まれて時間を無駄にしたくなかった。
掴む手を払う。思ったより簡単に襟首が離された。
制服を正して、崩れ落ちそうになる灯を尻目に通り過ぎる。
悔しそうに震える彼女に興味を無くし、一瞥もしないまま空き教室を後にした。
内ポケットから新しい封筒を取り出して、そのまま職員室へと向かう。真夜であれば、少しは期待通りの反応を見せてくれるだろうか。
くすくすと笑いながら、楓はクリーム色をした階段を上って行った。
♪
楓が教室を後にしてから、灯はすぐさまくしゃくしゃに握りつぶされた地図を拾い上げた。
既にその目に涙はなく、スマートフォンを取り出して場所を確認する。思ったよりも遠いようで、自然と舌打ちしてしまった。
確かに灯に与えられた衝撃はとてつもなく大きいものだった。少なからず彼女の心には爪あとを残している上、生涯忘れられない遺恨になるだろう。
しかし楓のその態度は確信を深めさせるものだったと、灯は思う。
(今朝写真を受け取った?ならなんでわざわざこんな時間まで一言も言わないのよ)
現時刻は昼前の午前十一時頃。悠一に関することはメッセージなり電話なりで伝えてきた彼女が、今回に限って直接言いにきたのだ。大方反応を見て楽しもうとしたのだろうが、このままあの女に笑わせてやるつもりはない。
「何でもかんでも思い通りにさせるか、バカめ」
証拠はないが、きっと悠一を連れ去ったのは楓の仕業だろう。
君島は頭の悪い女だから、どうせ楓に利用されているだけだ。だからと言って手心を加えてやるつもりはないし、将来伴侶となる男を傷つけた報いはきっちりと受けさせてやる。
灯は首を鳴らして、自分の覚悟を再確認した。証拠は恐らく楓がもみ消すはず。ならなんの遠慮もいらなかった。
目的地までは車で三十分程。授業なんてどうでもいい。
保健室で具合が悪い旨と早退することを伝え、灯は呼ばれたタクシーの運転手へ行き先を告げた。
♪
元々家事をすることが嫌いではない悠一は、洗濯物を乾燥機で全て乾かしてしまうことが嫌いだった。やはり外に干してこそ洗濯だという気になれるし、太陽の匂いがするバスタオルが特に好きだからだ。
とはいえこの家では外に出ることはおろかベランダに出ることすら出来ず、燦々と降り注ぐ陽光を窓から眺めることが精一杯だった。
それは他の家事にもいえることで、食器は食洗機で済ませてしまう。唯一できることといえば、掃除ロボットの手が届かない場所を掃除することくらいだった。
簡単な家事を済ませてしまえば、あとは惰性でテレビか窓の外をぼうっと眺めるのみだ。
特別面白い番組があるわけでもなく、こんな山中を通る車など滅多にないのだから、なんの感情も得られないまま夕方までの時間が過ぎていくのだった。
千里を見送り、家事を済ませてから千里が帰宅する夕方四時までは、彼にとっては安息の時間となっていた。
日課に加えられたのは、なにもいいことばかりではない。
最近はドア自体のロックを解除してしまったため、内側から悠一でもドアを開けられる。出迎えをして欲しい、というのが彼女の希望であり、窓からタクシーが通るのを見るたび、悠一は玄関で犬のように待機することが義務となった。
この日も彼は朝から暴力を受け、腫れた頬を冷やしながら回る洗濯機を眺めていた。ぐるぐると回転するバスタオルやシャツを見ている時間が、何故か心落ち着く時間になってしまったのだ。
しばらくして電子音と共に乾燥が終わり、悠一はその場を離れた。畳むのは後でもいい。今はただ束の間の休息を得たかった。
テレビをつける気にもなれず、今日も悠一は窓から外を眺めることにした。ここに来てからしばらく気付かなかったが、物置に使われている部屋からは山々とその間に佇む町並みが覗けた。閉じ込められている身分としては大きな楽しみのひとつであった。
ただひたすら変化のない緑の風景を無心で眺める。
時折横切っていく鳥を羨み、極稀に走る車に怯えた。千里の乗るタクシーではなく、ただの乗用車と気付いて胸を撫で下ろす。ははは、と中身のない笑い方も慣れたものだ。
窓の前に座ってから数時間して、今度は見慣れたタクシーを見つけた。こんなところを走るタクシーなどほとんどなく、いるとすれば千里くらいのものだ。
一瞬顔を歪め、それはすぐに笑顔へと変わっていく。努めてその表情を保ちながら玄関へと向かった。
大きな家だけあって、玄関をそれなりに広い。一度出迎えたときの顔が気に入らないと言われたことを思い出す。そのときはシューズボックスに頭を叩き付けられたのだが、その跡は玄関にまだ刻みつけられたままだ。彼自身も、ここに来るたびのそれを思い出していた。
防音設備が整っているため、足音は聞こえない。インターホンなどこの家にはなく、ドアを開けようとするそのタイミングを見計らって開けるしかないのだ。千里自身に空けさせるのはタブーで、決まって先に彼が開けないと折檻を受けるはめになる。
タクシーを見かけてから数分、ドアのすぐ前で待ち続けた。一瞬のタイミングを逃してはならないと、緊張を保ちつつ笑顔を貼り付けた。
やがてドアに何かが触れる音。取っ手を掴んだときの音だ。
飛び跳ねるようにドアを開けた。あまり強く開きすぎると彼女に当たってしまうため、あくまで少しだけ。先に開いたという事実さえあればいいのだ。
隙間から吹く新鮮な空気の香り。それに混じって、どこか懐かしい匂いが漂う。
思い出そうとするより早く、ドアが力任せに開かれた。掴んだままだった手を離すことが出来ず、悠一は勢いのまま眼前の少女へ飛び込んでしまう。
柔らかいものに顔が埋まる。
強くなった懐かしい匂いに、背筋が凍りつく。
ここに来る前には当たり前にあった匂い。自宅にあったシャンプーの、柑橘系のさわやかな香り。
顔を上げる。顔を埋めていたのは眼前の少女の胸で、慌てて身を離す。
少女は何も言わず、その少年を逃がすまいと抱き締めた。
腫れた顔が痛んだが、それよりも強い衝撃が少年の心に走った。
覚悟していたはずなのに、唐突な来訪者が心を掻き乱し、気丈に保っていた上辺を一気に崩す。
抱き締められたままの少年は、声をあげて泣いた。
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