一人目 悠一Ⅰ
報告書を読み上げる使用人を、神代 楓は睨みつけていた。
普段からおどおどしている使用人の女性は、目に涙を浮かべながらも懸命に報告を続けた。内容が進むにつれて周囲の温度が下がっているように感じられて、そのくせ読み終える頃には全身汗まみれになっていた。
楓自身八つ当たりとは自覚していたが、今は何でもいいから憂さ晴らしをしたい気分なのだ。自分の思い通りに事が運ばないことに腹が立っていた。
悠一を攫ってから一ヶ月が経ち、彼と千里の関係は歪なものへと変貌を遂げていた。
それ自体は悪いことではないし、むしろ楓自身が望んでいたことではあるが、千里の振る舞いが行き過ぎているとなれば話は変わってくる。
楓の望みは、あくまで悠一を精神的に追い詰めることにある。その為に多少の行為は止む無しと思っているが、千里は明らかにやり過ぎだ。顔に傷が残るようなことをを許した覚えはないし、それ相応の報いは受けてもらうつもりだ。
(私の見込み違いだったのかしら……)
素材は悪くないはず。
容姿に優れていて、悠一との関係は良好。本人は気付いていないようだったが、悠一はよく彼女のことを気にかけていた。
独占欲が強く、攻撃的な反面で強く愛されることを望んでいる彼女は、楓にとって十分な素質を持った人材だった。
成果は上々で、たった一月で期待以上の働きをしてくれた。監視カメラの映像で彼の笑顔を見たとき、楓は鳥肌が立つくらい喜んだ。
わざとらしく作った笑顔。悠一のあんな顔を見たのは初めてだった。
普段は無邪気に笑う純粋な少年に、あんな笑顔を作らせるとは大したものだ。
(だけどやり過ぎね。このままにしてたら悠ちゃん、死んでしまうもの)
多少の躾なら許容は出来る。自分もいずれやるつもりだったし、それが悪いとは思わない。が、後遺症が残りそうな程の暴力はダメだ。
せっかく綺麗な顔をしているのだから、それを保ったまま壊さなければ。
「綺麗な花を踏み躙ったら、それはもうただのゴミだと思わない?」
「へ……は、はい」
伏し目がちだった使用人は、楓の言葉に間抜けな声で答えた。それが面白かったのか、楓は笑って使用人に下がるよう手を振った。
頭を下げて逃げるように去っていく使用人を眺め、小さくため息を吐いた。後始末をしなければならず、笑ってばかりもいられないのだ。
「あの子はもう要らないわね」
スマートフォンを取り出して電話をかける。些か早すぎる気もするが、まあ最初なのだからこんな所だろうと納得した。
久しぶりに会うことになるだろう少年の姿を想像して、楓は一人くすくすと嗤った。
♪
悠一が朝のニュース番組を見ながら朝食を食べていると、手に持っていたトーストを千里に叩き落された。
続いて目が眩むような張り手が叩き込まれた。乾いた破裂音が大きく響き、椅子から転げ落ちる。
リビングの床は固く、受身を取る事もできずに顔を打ち付けてしまった。がつん、と音を立てて頬から衝撃が広がる。
何故と思うより早く、見下ろす少女は鬼のような形相で言葉を捲くし立てた。
「先輩、今その女に見蕩れてたよな?アタシと朝飯食いながら、アタシの目の前で、アタシ以外の女に見蕩れてたよな?」
目に光は宿っていない。瞳孔は開いていて、声音はいつも以上に低い。
感情をそのまま言葉にして、見上げる少年に吐きつけた。
悠一は慣れた様子で返事をした。表情は少ししゅんとした子犬のよう。
今はまだ笑顔を作ってはいけない。タイミングが重要なのだと、体が覚えていた。
「違うよ、ニュース見てただけで……」
「アタシに嘘吐くなッッ!!」
容赦の無い蹴りが頭部を捕らえる。蹴られたサッカーボールのように、悠一の頭が弾けた。
―――しまった、言葉がいけなかったか。
歪む視界と揺れる頭の中、冷静に自分の失敗を分析する。
昨晩は同じような状況で理由を言え、と殴られたのだが、今度は言い訳として捉えられてしまったようだ。
どうすれば良かったのかと考えていると、腹部から鈍い音が響いた。追い掛けるように鈍痛と吐き気がこみ上げてくる。耐え切れずに食べたばかりの朝食をぶち撒けた。
千里は息が上がるまで蹲る少年を蹴り続けた。咳き込む彼の襟首を掴んで持ち上げる。壁に押し付けると痛そうに顔を歪めたが、隠すように笑顔を作った。
「ごめんね……っ、千里ちゃん。そんなつもりじゃなかったんだ」
「本当だな?嘘吐いてるわけじゃねぇんだな?」
「もちろんだよ、本当にニュース見てただけだから……」
話す度、息をする度にわき腹が痛む。蹴られた時に嫌な音がしたが、肋骨が折れた音だったようだ。
至近距離で千里は悠一を睨む。何度か本当だな、と確認を繰り返した後、壁へ押し付ける力が徐々に弱まった。同様に彼女の表情も和らいでいく。
「それならいいんだけどよ……その、ごめんな?でも、先輩がアタシよりずっとテレビのほう向いてるから……」
「うん、ごめん。今度から千里ちゃんと居るときは、テレビは見ないようにするから」
「また顔腫らしちゃったな……腹もいっぱい蹴っちまった。痛くないか?」
千里は豹変したように、悠一の心配をし始める。泣きそうな顔で口元に残る吐瀉物を拭った。
血は出ていないことが悠一にとって幸いだった。出血すると彼女はこの比じゃないくらいに取り乱すのだ。
千里にわき腹を摩られ、悠一がびくりと反応してしまう。その反応から察した千里はシャツを捲り上げた。
左のわき腹が腫れていた。見た目では折れているかどうかはわからないが、足に残った感触から、ヒビくらいはいっているかもしれないと推測する。
少年に怪我をさせたという事実が、今さらになって彼女を動揺させた。
「ご、ごめんっ……アタシ、ここまでするつもりじゃなくて、ちょっとお仕置きしようと思っただけで……あぁ、こんな腫れてる……」
目端から雫が零れる。
震えた声で悠一を抱き締めようとするが、痛むかもしれないと思い止まる。狼狽したままおろおろとその場に立ち竦んだ。
彼女を知る者がいれば、恐らく目を丸くして驚くだろう。およそ千里らしくない言葉と行動だ。
常に堂々と自分の意思を通し、物怖じなどすることもない。後悔や恐怖など感じたことすらないだろうと思わせる彼女だったが、今の千里はその真逆の印象だ。
涙目で言葉を詰まらせる彼女に、悠一は言葉を掛けた。
「大丈夫だよ。そこまで痛むわけじゃないし、冷やしてればすぐ治るよ」
悠一は出来る限り満面の笑みを作って、千里を抱き締めた。
わき腹の痛みは最早激痛と言える程になっていたが、歯を食い縛って耐え抜いた。優しく髪を撫でて、嗚咽を零す少女を宥める。
「僕がちゃんと配慮できなかったね。千里ちゃんは悪くないから、気にしないで欲しい」
「で、でもっ、アタシ昨日も一昨日も先輩に怪我させて……」
「いいから、大丈夫だから、もう泣かないで、ね?」
頭を撫でる手はそのままに、背中を摩ってやる。嗚咽は大きくなるが、千里は頷いてごめん、と謝った。続けてなんどもごめんなさいと言い続け、しばらく静かに泣き続けた。
こんなやり取りが、この一月で何度繰り返されただろう。
何かにつけては千里が激昂し、悠一にお仕置きと称して暴力を振るう。
今日はテレビの女性アナウンサーに見蕩れていたから。
昨日は笑顔がぎこちなかったから。
寝るときに背中を向けていたからとか、入浴の時間が何時もよりも長かったから、行為中に嫌がる素振りを見せた、なんて理由もあった。
要は彼女の理想と少しでも食い違いがあれば、それを暴力で以って正そうとするのだ。
それはほんの些細なことでも見逃されず、悠一は千里が家にいる間(彼女だけは学校へ通っていた)は僅かな油断もできなかった。
そのせいで、彼の体は生傷が絶えることがない。
日に数度のお仕置きは容赦がなく、元々千里は腕っ節には自信がある。それは衰えてはおらず、悠一が気絶するまで続くことも度々あった。
(今日はそこまで酷くはならなかったかな……)
きっと新しい痣がいくつか出来て、肋骨は折れてしまっているだろう。それでも今日は比較的優しい方だ。なにせ気を失うこともないし、刃物を突きつけられることもなかった。
切り傷は沁みるから嫌いだ。それがないだけでもありがたい。
「ははっ」
思わず口から笑みが零れる。ここまで酷いことをされていても、もう自分では異常だと感じられないのだ。
蹴られても、殴られても、絞められても、折られても、熱湯をかけられても、刃物で傷つけられても。
全て笑って受け止めることが当たり前となっている。
望んでいるこうしている訳ではないが、こう見えても男なのだから、逃げることは自分自身が許さない。責任感だけが今の悠一を支えていた。
ぐずぐずと泣いていた千里が顔を上げ、背中に回していた手は艶かしく這い回り、臀部を撫で始める。遠慮がちな手つきも、すぐに大胆になっていく。
息は弾み、熱っぽい吐息が零れた。興奮していることを隠そうともせず、千里はそのまま首筋に舌を這わる。
悠一は抵抗する素振りを見せない。見せてはいけないのだと学んだからだ。
背筋を駆け上がる悪寒にも似た粟立ち。這う舌はナメクジのようで、悠一はこれが大嫌いだった。
「なぁ……んっ、ごめんな、先輩……っはぁ……」
目が蕩けていた。上気した頬を擦り付けて、千里は悠一へ圧し掛かった。このまま行為に及ぶこともいつも通りだ。
なんて悪循環なんだろうと悠一は思う。暴力の後に泣きながら謝られ、それを笑って許す。仲直りの証とでも言いたいのか、決まってその後は情事に耽るのだ。
千里がせっかく着込んだ制服を脱ぎ捨てる。乱雑に脱ぎ捨てるのを見て、あとでアイロンをかけて置かなければと場にそぐわない思考を巡らせた。
これが今の自分の日常なのだ。
狂ってようが知ったことか。毎日心が削られていくような思いにも慣れた。あとは体が保ってくれるだけでいい。
いつかいつかと願って、早一ヶ月。酷くなる彼女の行動を御しきれず、気付けば逃げられない迷路に嵌ってしまった。それでも自分にできることはしなければならない。それが責任感からなのか、はたまた諦めからなのかはもう分からなかった。
今自分がここから逃げ出せば、きっと彼女は壊れてしまう。それがどういう結果になるか想像出来るし、彼女を捨てて自分が助かることになってしまうと理解もしている。
葛藤が少年の心に渦巻いていた。
ケリをつけたくてもつけられない。ただ自分の心一つなのに、一歩踏み出す覚悟も勇気もない。あの日誓ったアレはなんだったのかと、自分が情けなくなる。
だから今日も笑って体を差し出すのだ。空っぽな笑みも板について、千里は見破れなくなってきている。
「ははは……っ」
壊れた人形が如く、悠一は笑って体の力を抜いた。
身を任せて目を閉じれば、あっという間にこの時間は過ぎていく。
彼女が満足すれば解放されるのだ。寝ている間だけは、唯一心安らげるような気がした。
「本当にごめんね、千里ちゃん」
千里はもう聞いていなかった。夢中になって、少年を喰らっている。
心の中でもう一度謝った。
目の前の少女へ、彼を心配しているであろう家族や友人達へ。
顔に笑みを貼り付けて、悠一は泣きながら目を閉じた。
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