一人目 楓Ⅰ

 神代 楓の住む家は、町から少し離れたところにある。


 住宅街を離れ、山を切り開いて整備した道路の先にあるため、滅多なことでは来客がない。楓自身もまた、車で送り迎えをされていた。

 徒歩では何十分も坂道を歩くはめになるこの家が、あまり好きではなかった。


 友人からの連絡が途絶えてから三十分。楓はイヤホンを外して着替えを始めた。

 普段は無地の浴衣を好んで着ているが、来客となれば話は別だ。両親からの着替えるように言い付けられていたため、今でも自然と着替える癖がついていた。


 鏡の前に立って、緩く縛っていた帯を外す。

 はらりと落ちた浴衣の中から真っ白な肢体が露になる、シミ一つない自慢の肌。

 箪笥から引っ張り出した下着を身につけ、なんとなしにポーズをとってみた。左手は腰に、右手は誘うように唇に。

 自分から見ても、十分過ぎるほどに魅力的な少女の姿がそこにあった。

 絹のような黒髪が肌を撫で、ミステリアスな雰囲気を醸し出している。男性から告白を受けることが多いのも頷けた。


 しばらく自身の身体を眺めてから、着替えを再開する。

 脱いだ浴衣と同様の、真っ白な生地に薄紅の花が咲いた柄の着物を手に取った。お気に入りで、灯と会うときはよくこの着物を身に纏っている。


 佐々木、と声を掛けると、黒いスーツの女性が障子を開けて頭を垂れた。

 長身で、力強い目をした女性だ。

 凛とした雰囲気とショートカットの黒髪が一瞬男性かと思わせるが、そのスーツを押し上げる胸元が女性であることを目一杯主張していた。

 彼女は何も言わないまま、楓の着付けを手伝った。着物を着せて帯を締めていく。

 

「佐々木」

「なんでしょう」


 佐々木は楓の目を見ないまま、無機質に答えた。

 その手は止めず、主の言葉を待つ。衣擦れの音だけが部屋に流れていく。

 やや間があって、楓は言葉を続けた。

 

「これから灯が来るのだけど、貴女は何もしちゃだめよ?」


 背後で帯を調える佐々木に緊張が走った。空気が張り詰めるような、ぴりっとした雰囲気。

 搾り出したような返事が返ってくる。掠れていたが、ひとつ咳払いをして言い直した。どうも彼女は灯のことが嫌いなようだ。

 

「……灯様が、このような時間に何用でしょうか」

「さぁ?悠ちゃんが帰ってこないから、我慢できなくなったんじゃないのかな」

「悠一様のことですか。でもそれは……」

「そうね、喧嘩になってしまうかもね。ふふ、灯ったら妙なところで鋭いんだから」


 楽しそうに笑う楓を見て、佐々木はそれきり何も言わなかった。


 桃山 灯という人間がどんな生き物なのか、佐々木は良く知っている。

 自分の欲望に忠実で、それをひた隠しにして獲物を狙う狡猾な獣。それが佐々木の印象だった。

 悠一に近づく女を排除するときも、彼に自分を良く見せるときも。

 彼女は自分の手を汚さない。汚したとしても、誰の目も届かない闇の中でだけ。

 とはいえ、彼女を卑怯者だと罵るつもりはない。それをしてしまえば、自分の主を貶したと同義になってしまう。

 

 楓と灯は良く似ている。

 性格だとかそんな話ではなく、奥底にある根底が同じなのだ。

 だから親友のように仲が良く、怨敵のように憎み合っている。

 

(同族嫌悪か、はたまた……どちらにせよ、同じ穴の狢か)


 灯にしろ楓にしろ、第三者から十分に狂っているのだ。

 鏡に映る歪んだ笑顔がその狂気を物語っている。

 その笑みを目の当たりにして、ぞっと全身が粟立った。チープなホラー映画を見ているような不気味さ。

 

 その後は無言のまま着付けを終えた。黙ったまま、一歩身を引く。

 鏡で自身を確認した楓が、帯の間に短刀を仕込む。

 一礼して佐々木が部屋を出るのと、仰々しいチャイムが鳴ったのは同時だった。

 


                   




 外は強く雨が降り始め、辺り一面水浸しになっていた。


 大きめのビニール傘を差していた灯は、招かれるまま楓の屋敷へと足を踏み入れる。

 嫌味も感じないくらいの大きな純和風の屋敷に訪れるのは、これで何度目だろうか。

 幾度となく遊びに来たはずなのに、今日ばかりは雰囲気が違っている。

 鬼の棲家に連れてこられたような、ひりつく緊張感。笑顔の裏にある隠すつもりの無い悪意がそうさせる。

 前を歩く楓は、時折漏れ出るように笑みを零した。

 二歩進んではくすりと笑い、三歩進んでは口元に手を当てる。

 この笑みが何を意味しているのか、灯は理解することはできなかった。

 

「悪かったわね、こんな時間にお邪魔しちゃって」


 馬鹿にされているのかと思い、灯は思い切って声を掛けた。

 それでも歩は止まらず、楓が振り返ることは無い。

 その代わり、普段よりも幾分高い声が返って来た。

 

「言ってくれれば迎えを出したのに。この雨の中、ここまで来るの大変だったでしょう?」

「いいの、聞きたいことあっただけだし」


 ならメッセージでも電話でも良かったのでは、と言うほど愚かなつもりはない。

 灯がわざわざここまで来たということは、それなりに覚悟があってのことだろうと楓は察していた。

 

「聞きたいこと、ね」

「何が聞きたいか、わかるでしょ?」


 楓同様、隠すつもりのない敵意だった。

 ここで分からないといったら、それこそ喧嘩になるだろうか。

 堪え切れず、くすくすと笑みが漏れてしまう。その度に強くなっていくプレッシャーが余計に笑みを誘発させた。

 だがそんな威圧感に屈する楓ではない。

 ぎりぎりまで焦らして、煽って、楽しんでやろう。そんな思いが彼女を占めていた。

 

「聞きたいことっていうのは、悠ちゃんのこと?」


 先ほどまでとは比べ物にならないくらい、強烈な殺気が背中を襲った。

 以前誰かが灯のことを猛獣みたいな女と言っていたが、まさにその通りだと思う。

 次の瞬間に首を噛み千切られても可笑しくないようなプレッシャー。およそ十七歳の少女が発しているとは誰が想像できるだろうか。

 

(可愛い顔してるのに、勿体無いわね)


 それをいったら私もそうね、と茶々を入れてまた笑う。

 少しずつ荒くなっていく足音と雨音が心地良い。遠くでは薄っすらと雷鳴が轟いている。いっそこのまま嵐になってしまえとさえ思う。

 


―――そうすれば、片付けやすくなるのに。



 楓は障子を開け、灯を部屋へと招き入れた。

 

 

                   




 窓を叩く雨の音に、悠一は目を覚ました。

 ぼうっと窓の外を眺めていると、時折稲妻が空を走っていく。しばらくしてから轟音が響くあたり、どこか遠くで鳴っているようだ

 何回目かの稲妻が走った後、悠一はベッドを降りようと身を起そうとして―――ぐい、と腕を引っ張られた。

 

「どこ行くんだよ」


 手首を掴む力強い手。

 その手の先には、爛々とした目で千里が悠一を捕らえていた。

 引き止めるというには強すぎる力に、悠一の顔が歪む。

 その表情を悟られないよう、悠一は痛みに耐えながらも言葉を返した。


「喉渇いたから水でも飲もうかなって思ったんだけど……」

「そっか」


 憑き物が落ちたように、普段と変わらないハスキーな声音。

 最近は千里の声で機嫌がわかるようになってきた。今はもう、怒っても悲しんでもいない。

 軋んだ手首が離されると同時に、千里もベッドから起き上がる。どうやら彼女もついてくるらしい。

 床に降り立った、ワイシャツを一枚羽織っただけの少女の姿に目を逸らす。

 散々見てきた姿だったが、慣れるにはまだ時間がかかりそうだ。

 

「なんだよ、水飲むんじゃねーのかよ」

「あ、ごめん。いくよ」


 俯き、立ったままの悠一に痺れを切らす。次いで得意げな笑い声。

 まだ恥ずかしいのかよ、とからかい混じりに言うのだから、きっとこの格好は確信犯なのだろう。

 暗闇の中とはいえ、流石に目も慣れてきた。

 だんだんと浮かび上がる少女の扇情的な姿に、初心な少年が平常心でいられるはずがなかった。

 深呼吸して、努めて目を向けないように歩き出す。


 水道水を飲む習慣のない悠一は、冷蔵庫にあったお茶をコップに注いだ。

 両手で丁寧にコップを持って飲む姿を、千里はにやにやしながら眺めている。猫が餌を食べているところを愛でるような視線だ。

 人間なのだから、そんな視線に居心地の悪さを感じる。まじまじと見られるのは気恥ずかしいのだ。

 

「……なにさ」

「いや、なんかハムスターみてぇだなって思って」

「それって褒められてる気がしないんだけど」

「いや、別に貶してるわけじゃねーけどよ。なんか、先輩可愛いよな」


 悠一の盛大なため息。不満を全力で表した。

 可愛いと言われるのは慣れている。

 だが慣れているだけで、そう評されることは好きではなかった。

 スネた表情を隠しきれなかったのか、千里が慌ててフォローした。

 

「いや、いいだろ可愛いって言われたって。大体格好いいってガラじゃねーだろ先輩は」

「これでも男なんだよ僕は……そりゃ、男らしさみたいのはないかもしんないけどさ」


 チラ、と千里を見る。

 ワイシャツ一枚でボタンを全て開け、片手にペットボトルを持ったまま堂々としている。

 なるべく視線は下げないように見てはいるが、その姿は女性らしい美しさも、男性的な格好良さも併せ持っていた。

 純粋に彼女が綺麗だと、お世辞抜きにそう思う。


「なんか、千里ちゃんは綺麗で格好良いって感じするよね」

「はぁ?」

「堂々としてるしさ、芯があるっていうか……結構、憧れる」


 なんだそりゃ、と照れくさそうに笑う。

 誤魔化すようにペットボトルに口をつけた。

 

「そう言われんのも嬉しいよけどよ、格好良いってのは……アタシだって一応女なんだからさ」

「まぁ、千里ちゃんは隠してるけど可愛いところあるのは知ってるよ。すぐ照れるし、甘えたがるし」

「おー、言うようになったじゃねーか。さっきまで散々可愛く鳴かされてたくせに」

「それは関係ないでしょ!」


 体を重ねるときは、ほとんど千里の思うようにやられてしまっている。

 主導権は基本的に彼女が持つし、喉を枯らすのも悠一ばかりだ。

 体力的にも千里より劣っているのだから、嗜虐的な彼女が優位に立つのは必然だった。

 

「いいだろ別に。アタシはそんな先輩も嫌いじゃないぜ」

「嫌いじゃない?」


 きらりと光る悠一の目。

 いつか仕返ししてやると心に決めていたが、まず一回目のチャンスが巡ってきたようだ。

 千里の声を真似て、聞いたばかりのあの言葉を再現する。

 つい先程の、あの甘えた猫のような声。録音しておけばよかったと心底悔やまれる。


「先輩、だいすきだ。はは、あの時の千里ちゃん可愛かったねー」

「なぁっ!」


 思わぬ反撃に赤面する千里。

 まさか聞かれているとも思わず、あの後ひたすら布団に包まっては暴れてしまった。それくらい、恥ずかしかったのだ。

 わなわなと震えて、千里はペットボトルを置く。

 ちょっとばかりお仕置きしてやらないと気が済みそうもないのだ。

 得意げな顔をしている少年からコップを奪い取り、残ったお茶を流しへ捨てる。

 やり過ぎたと思うも既に遅く、赤面から一転した千里の表情に悠一は後悔した。

 

 この表情はよく知っている。ここに連れてこられてからは特に。

 肩を押す手、迫る影に増す熱気。

 鼻を擽る女性の匂いが、悠一の心を折り始める。

 

「大丈夫だ、心配すんな。先輩の可愛いとこも、見せてもらおうじゃねーの」

「えぇー……」


 抵抗しようが、抗議しようが彼女は止まらない。

 一度スイッチが入ってしまえば、あとはもう捕食されるのみだ。

 いまひとつスイッチの入るタイミングや切欠が掴めないが、今回みたいに照れ隠しで行為に及ぶこともあるのは学んだ。たった今。

 

「ちょ、まって、せめてここは……」

「うるせーって」


 ひんやりとした冷蔵庫に押し付けられながら、噛み付くように唇を奪われる。

 抉じ開けられた歯列を割って入り込む舌に、臀部を荒々しく弄る手。

 持ち上がった彼女の膝が少年をぐりぐりと刺激する。

 この数日で覚えた悠一の弱点を、遠慮なく責めていた。

 たった数分経っただけで熱っぽい息を吐き、押し潰されるように密着した唇の隙間から甘い声が漏れ出る。

 唇が離れる頃には、蕩けきった悠一が出来上がっていた。

 

「ほら、可愛くなったじゃん」


 厭らしく唇に舌を這わせて、千里はにんまりと笑う。

 今日何度目かの行為は、冷たい床の上で始まった。

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